チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「夏が過ぎ、夕風を寒み……私の少年サンデー時代/一ツ橋村小学館ビル解体にあたって」

2013年08月20日 17時03分41秒 | 歴史ーランド・邪図
神保町から平川門方面に車を走らせてると、
小学館ビルがもぬけの殻な感じになってた。
9月から解体が始まるらしい。
1階のテナントのJTBも撤去してる。が、皇居寄りのところに
若者が群がってた。中にはもっとマチュアな男性女性も交じってた。
社屋の壁やガラスなどに漫画の走り描きがされてるのを見てるのだった。
そしてそれは、藤子不二雄A以下25人の有名漫画家らによる
"ホンモノの落書き"なのだそうである。

最近は、故曽我町子女史とキンタロー。女史の顔の区別がときとしてままならない
ガキ並の拙脳なる55歳のおっさんである私は中学以降、
漫画・アニメの類はほとんどみることはない。が、
幼稚園から小1(5歳乃至7歳)くらいまでの一時期は、当時発行されてた
「少年サンデー(小学館)」「少年マガジン(講談社)」「少年キング(少年画報社)」
という3つの週刊誌を"愛読"してた。とくに、
小学館の「サンデー」が好きだった。なかでも、
「九番打者→ミラクルA(エース)(貝塚ひろし)」
「伊賀の影丸(横山光輝)」
「おそ松くん(赤塚不二夫)」
の3つ(野球、時代物、ナンセンス・ギャグ)は、音楽以外の
将来の私の趣味そのものとなった。その頃に連載されてた
「オバケのQ太郎(藤子不二雄)」の人気で建ったので
小学館ビルは「オバQビル」と一部では呼ばれてたらしい。ちなみに、
一ツ橋村小学館は音羽村講談社とともに、
コミックという一般大衆が消費する商品を扱って売上高では巨大企業になったが、
社員数は中小企業並の1000人にも満たない創業者家族企業である。
高性能エンジンを搭載した超軽量戦闘機、
バルセロナ五輪のときの岩崎恭子嬢、などのようなものである。だから、
町工場や中小企業のような非上場会社である。ところが、
2社はともに日販・東販の大株主でもある。
日本の書籍流通はこの取次2社が牛耳ってるのである。

小学校中学年頃までは、母親が御茶ノ水によく行ってたのに
つきあわされてたので、駿河台や神保町や一ツ橋あたりも
わりと馴染みがあるエリアだった。銀座ばかりだった中学時代は
そこらへん一帯へ行くのは途絶えてた。が、
(今なら「東進ハイスール」なのだろうが)高校2年から
「駿台予備校」に通ってた私は、浪人時代は
昼飯や休憩を小学館ビルの地下の飲食街でとることが多かった。
中華屋のチャーハンをよく食ったし、喫茶店でコーヒーフロートをよく飲んだ。
ニコライ堂近くの当時は東校舎というボロいビルが私が通ってたところだが
好きな講師の授業にもぐりこむことが日常茶飯に行われてたため、
私も当時の西校舎や本部校舎に行ったりしてた。
誰かに誘われると明治大の学食に行ったが、一人だと、
かえで通りから男坂の急段を降りて明治大附属中の脇を通り、
神保町の交差点から一ツ橋方面に向かって小学館ビルに行ったのである。

成人してからも、
当時は神保町の交差点周辺は渋滞で車が動かなかったので、
北の丸公園の科学技術館脇の駐車場に車を停めて、
徒歩で清水門から神保町に出て三省堂などで買い物をすることが多かった。
そのときも、小学館ビル地下に立ち寄って一休みしたものだった。
今でも神保町あたりはよく通るエリアだが、
かようにガキの頃から惹かれる街だったのである。

小学校2年の途中あたりから、週刊少年漫画雑誌に興味が薄れた。
エスツェットという憧れの子がいながら、
同じピアノの先生の宅に習いにきてた"菜穂子ちゃん"という
美人の子と予約時間が前後するようになった。
その子の前でレッスンをさせられるのである。その子の手前、
弾くのが上手くなりたいと、ピアノの練習に時間を割くようになり、また、
古今東西の偉人の伝記や百科事典を読むほうに
熱中するようになったからである。が、まもなく
"菜穂子ちゃん"はお父さんの転勤で引っ越してしまったため、
もともと才能のないピアノ演奏もそれまでほどには熱は上がらなかった。
替わりに……
母方の祖父が相撲が好きだったのだが、孫の中でやはり相撲好きな私が
蔵前国技館の桟敷に連れてってもらうようになってた。それは
私が小4のときに祖父が死ぬまで続いた……
相撲好きだった私は、年6回の本場所の開催期間、
学校から帰るとTVの放送を結びの一番までずっと見てた。それは
中学の終わりまで続いた。
今でも記憶に強く残ってるのは、
秋場所(9月場所)……家で一人、窓を開けて網戸だけにして、
縦框に足先をかけて寝そべってTVを観ながら取組が進んでくと、
暑かった外がいつの間にか冷え込んできて、
三役が出てくる頃にはかなり肌寒くなった……というものである。
……窓開けきると、目には涼やかに、見えねども、夕風の温度にぞ、おどろかれぬる……
今では9月中旬から下旬にかけては、夕方でも東京は相当に暑い。
当時とは大違いである。
あの、うたた寝してるところにすこし肌寒くなりかけるときの
移ろいゆく風情が私は好きだった。その私が今では
ピカピカの一年生ではなく、ピカピカのハゲオヤジとなってしまった。
初秋、忘るべからず。
♪私の心は縞模様~
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