藤圭子女史(1951-2013)がやはり今年に死んだ
石坂まさを(1941-2013)のプロデュースによって
「新宿の女」で歌謡歌手としてデビューしたのは、
私が小学校5年のときだった。
昭和44年……いわゆる高度成長時代だった。が、
その反面、世相はこうした
"暗い"ものに庶民が共鳴しやすい、
殺伐とした雰囲気がただよってた。
駿台予備校の講師を現在もしてるらしい
物理の山本義隆(私も講義を受けたことがある)が
東大全学連のリーダーとして起こした東大紛争や、
三里塚成田闘争、安保闘争、
連合赤軍内部リンチ拷問殺人事件など、
左翼らによる実力行使が横行してた。
ともあれ、
藤圭子女史の容姿と暗い雰囲気と声と歌唱は、
ダレノガレ明美女史やKAT-TUN中丸雄一との顔の区別がつかない
拙脳なるガキの私にも異様なものとしてインパクトがあった。
デビュー曲「新宿の女」は、随所に
♪ジャジャジャ・ジャン♪
という、クラ音のいわゆる
「運命の動機」が伴奏にちりばめられてる。とくに、
♪ばかだなー、だーまさーれーーちゃーーーってーーーーーー♪
という箇所は、まるで
ベートーヴェンが作曲したのではないかと(※)思われるほど、
運命が扉を叩いてるのである。この曲に限らず、
もともと、演歌にはこのリズムが多用されてるのだが。
藤圭子女史が落ちて果ててた成子坂交差点近くの
西新宿6丁目の現場は、8年前に
ポール牧が飛び降り自殺した場所から200mも離れてない。かつて、
十二社(じゅうにそう……熊野神社の十二所が由来)
と呼ばれた地の周辺である。
藤圭子女史はどさまわりの浪曲師
松平国二郎と寿々木澄子女史(元は三味線瞽女)の次女(第3子)として
現在の岩手県一関(忠臣蔵で内匠頭が切腹させられた
現在の西新橋の屋敷主田村右京太夫が領してた)で生まれた。
東北から北海道にかけて町々の縁日や祭、飯場、寺の境内などで
歌って小銭をもらうという流しの貧しい生活である。
子供たちが学校に行く年齢になったとき、一家は
旭川を居所にした。が、両親は地方まわりで日銭を稼ぐ生活だった。
藤圭子女史は学校の成績がよかったらしいが、
貧困のために高校進学を諦めたという。
あの、いかにも暗く悲しい顔と声と歌唱は、実際に、
♪ジューゴ(15)、ジューロク(16)、ジェーシャチ(10)と、私の人生、暗かった♪
のであり、同じく岩手県ながら(久慈か?)
あまちゃんのように野心だけでただただ
「おら、アイドルさなりてぇだ」
なんていうのとはわけが違ったのである。
「いつでも夢を」などということなどは
「夢のまた夢のそのまた夢」どころか、
「夢も希望もなかった」のであり、
「夜にも開かなかった」のである。でも、
それがただ生命を繋ぐ道具にすぎない人間というものの現実なのである。
どんなに成功しようが富を得ようが幸せな人生を送ろうが、
終いは各元素に戻るだけのことである。藤圭子女史、否、
阿部純子女史の場合、ただ、
終焉が「新宿の女」だっただけのことである。
人はみな悲しい存在なのである。そんな悲しい
阿部純子女史が投身したのは、
満月の暁だった。そのいっぽうで、
あの能天気な貶日細野豪志がまたしても
FBの機能を知らない無知ぶりを発揮して
真っ当な愛国者を罵って世間の笑いものになったらしい。この二つに加えて、
夏の甲子園で初陣が優勝したのと、
イチローが日米通算4000本安打を達成したのが、
本日のnewsの"ハイライト"だったようである。
石坂まさを(1941-2013)のプロデュースによって
「新宿の女」で歌謡歌手としてデビューしたのは、
私が小学校5年のときだった。
昭和44年……いわゆる高度成長時代だった。が、
その反面、世相はこうした
"暗い"ものに庶民が共鳴しやすい、
殺伐とした雰囲気がただよってた。
駿台予備校の講師を現在もしてるらしい
物理の山本義隆(私も講義を受けたことがある)が
東大全学連のリーダーとして起こした東大紛争や、
三里塚成田闘争、安保闘争、
連合赤軍内部リンチ拷問殺人事件など、
左翼らによる実力行使が横行してた。
ともあれ、
藤圭子女史の容姿と暗い雰囲気と声と歌唱は、
ダレノガレ明美女史やKAT-TUN中丸雄一との顔の区別がつかない
拙脳なるガキの私にも異様なものとしてインパクトがあった。
デビュー曲「新宿の女」は、随所に
♪ジャジャジャ・ジャン♪
という、クラ音のいわゆる
「運命の動機」が伴奏にちりばめられてる。とくに、
♪ばかだなー、だーまさーれーーちゃーーーってーーーーーー♪
という箇所は、まるで
ベートーヴェンが作曲したのではないかと(※)思われるほど、
運命が扉を叩いてるのである。この曲に限らず、
もともと、演歌にはこのリズムが多用されてるのだが。
藤圭子女史が落ちて果ててた成子坂交差点近くの
西新宿6丁目の現場は、8年前に
ポール牧が飛び降り自殺した場所から200mも離れてない。かつて、
十二社(じゅうにそう……熊野神社の十二所が由来)
と呼ばれた地の周辺である。
藤圭子女史はどさまわりの浪曲師
松平国二郎と寿々木澄子女史(元は三味線瞽女)の次女(第3子)として
現在の岩手県一関(忠臣蔵で内匠頭が切腹させられた
現在の西新橋の屋敷主田村右京太夫が領してた)で生まれた。
東北から北海道にかけて町々の縁日や祭、飯場、寺の境内などで
歌って小銭をもらうという流しの貧しい生活である。
子供たちが学校に行く年齢になったとき、一家は
旭川を居所にした。が、両親は地方まわりで日銭を稼ぐ生活だった。
藤圭子女史は学校の成績がよかったらしいが、
貧困のために高校進学を諦めたという。
あの、いかにも暗く悲しい顔と声と歌唱は、実際に、
♪ジューゴ(15)、ジューロク(16)、ジェーシャチ(10)と、私の人生、暗かった♪
のであり、同じく岩手県ながら(久慈か?)
あまちゃんのように野心だけでただただ
「おら、アイドルさなりてぇだ」
なんていうのとはわけが違ったのである。
「いつでも夢を」などということなどは
「夢のまた夢のそのまた夢」どころか、
「夢も希望もなかった」のであり、
「夜にも開かなかった」のである。でも、
それがただ生命を繋ぐ道具にすぎない人間というものの現実なのである。
どんなに成功しようが富を得ようが幸せな人生を送ろうが、
終いは各元素に戻るだけのことである。藤圭子女史、否、
阿部純子女史の場合、ただ、
終焉が「新宿の女」だっただけのことである。
人はみな悲しい存在なのである。そんな悲しい
阿部純子女史が投身したのは、
満月の暁だった。そのいっぽうで、
あの能天気な貶日細野豪志がまたしても
FBの機能を知らない無知ぶりを発揮して
真っ当な愛国者を罵って世間の笑いものになったらしい。この二つに加えて、
夏の甲子園で初陣が優勝したのと、
イチローが日米通算4000本安打を達成したのが、
本日のnewsの"ハイライト"だったようである。
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