今日は、
ヴァイオリニストにして作曲家の
Heinrich Wilhelm Ernst(ハイナリヒ・ヴィルヘルム・アーンスト、1814-1865)
の生誕200年の日にあたる。同人は少年の頃、
パガニーニの超絶技巧演奏を聴いて憧れ、自らも
ヴァイオリンのヴィルトゥオーゾとなった。ちなみに、
ドイツ人名Ernstとは英語のErnestにあたる名で、
正直者という意味で、ファーストネイムがサーネイムになったものである。
ともあれ、いわゆるエルンストは現在は、1854年に作られた
"Grand Caprice sur‘Le Roi des Aulnes(Der Erlkonig)’de Franz Schubert, Op.26"
(グロン・キャプリス・スュル・「ル・ルワ・デ・ゾルヌ(デア・アールクェーニヒ)」・ドゥ・フロンツ・シュベル、オプュス・ヴォント・スィス)
(フランツ・シューベルトの「魔王」による大奇想曲、作品26)
くらいでしか知られてない。これももちろん、
ヴァイオリン単独(ピアノ伴奏もなし)の超絶技巧の作品である。
プロのヴァイオリニストもすらすらとは演奏できないし、当然ながら、
録音も少ない。私は
Leila Josefowicz(リーラ・ジョセフォウィッツ)女史の録音で聴いてる。
某著名ヴァイオリニストの演奏(録音)などは、
"I'm so sorry."
と気の毒になるくらいトホホで拙いものである。
ところで、
サンマのことを英語では
"saury"
というらしい。ときに、
[さんま、さんま、
さんま苦いかしょっぱいか]
という一文で有名な詩がある。本日は、名前が
「春夫」なのに、もっとも有名な作がこの
「秋刀魚の歌」という、
佐藤春夫(さとう・はるお、1892-1964)の
没後50年にあたる日でもある。同人は
文学のジャンルでも多岐にわたり量的にも多作で
弟子だくさんで、名も広く知られてるわりには、
たいした作品がない文学者である。作品よりも、
谷崎潤一郎の女房をめぐるゴスィップのほうが知られてる。
上記の「秋刀魚の歌」も
谷崎夫人千代女史への思慕を詠ったものとされてる。
当時は親交があった谷崎が住んでた小田原に足繁く通った。
女房をかえりみず谷崎は家を空けてることが多い。
谷崎から疎まれだした千代夫人を哀れに思い、
"可哀想だたぁ惚れたってことよ"とばかりに、
思いを募らせてったのだという。
千代は谷崎の美的感覚からすればおブスで魅力がなかったらしい。
谷崎はもともと千代夫人の姉が好みだったが思いならず
千代夫人と結婚後にはそのまた妹に熱をあげ、
そちらと結婚したいと思い、という、
「全部やって姉妹たい」症候群を発症してたのである。いっぽう、
これまた全世界の女は俺のものだという性癖な
佐藤は妻が弟といい仲になって離婚。
千代に対する思いを深めたのである。谷崎は
飛んで火に入る春夫の虫とばかりに
千代女と離婚すると約束した。が、
佐藤と相思相愛になった千代女に対して嫉妬心、
佐藤に対して負けん気がムクムクと生じて、
口約束を反故にしてしまった。そして、
佐藤から絶交を言い渡された。これが
「小田原事件」である。が、
数年後に佐藤はまた谷崎と交流を復活させる。
そして、その間には谷崎は千代女に
弟子をくっつけるのである。これは
"寝取られ趣味"という立派な変態性欲行為である。が、
その弟子ではやはり"モノ足りなかった"のか、
千代女と正式に離婚した。そして、
千代女と佐藤と3人の連名で挨拶状を送り、それが新聞でも
「細君譲渡事件」
として採りあげられて世間に広く知れることになったのである。
佐藤は4歳年下の千代女と添い遂げた。
千代女は佐藤没後18年を生き、昭和57年に85歳で死んだ。
一高→東大、は無理だと思ったのか、
慶應予科から文学部に進んだ(中退だが)佐藤は、
慶應大学附属中学校の一つである日吉にある男子校、
慶應普通部の歌(塾歌とは別)を作詞してる。(作曲は堀内敬三)
[まなこをあげて あふぐ青空
希望は高し 目路ははるけし
慶應義塾の 若き学生
あに春草の 夢に酔はんや
ああ我等みな 志あり
慶應義塾の 若き学生
いざよく学び いざよく遊び
少年の日を ともに惜しまん
慶應義塾の 若き学生]
文学にはあまり才能がなかったと思わせる詞である。
(慶應普通部歌をテンポを落として律動と和声を換えて
弦楽合奏にアレンジしたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao01/keio-gizyuku-futsubu-no-uta
にアップしました)
ヴァイオリニストにして作曲家の
Heinrich Wilhelm Ernst(ハイナリヒ・ヴィルヘルム・アーンスト、1814-1865)
の生誕200年の日にあたる。同人は少年の頃、
パガニーニの超絶技巧演奏を聴いて憧れ、自らも
ヴァイオリンのヴィルトゥオーゾとなった。ちなみに、
ドイツ人名Ernstとは英語のErnestにあたる名で、
正直者という意味で、ファーストネイムがサーネイムになったものである。
ともあれ、いわゆるエルンストは現在は、1854年に作られた
"Grand Caprice sur‘Le Roi des Aulnes(Der Erlkonig)’de Franz Schubert, Op.26"
(グロン・キャプリス・スュル・「ル・ルワ・デ・ゾルヌ(デア・アールクェーニヒ)」・ドゥ・フロンツ・シュベル、オプュス・ヴォント・スィス)
(フランツ・シューベルトの「魔王」による大奇想曲、作品26)
くらいでしか知られてない。これももちろん、
ヴァイオリン単独(ピアノ伴奏もなし)の超絶技巧の作品である。
プロのヴァイオリニストもすらすらとは演奏できないし、当然ながら、
録音も少ない。私は
Leila Josefowicz(リーラ・ジョセフォウィッツ)女史の録音で聴いてる。
某著名ヴァイオリニストの演奏(録音)などは、
"I'm so sorry."
と気の毒になるくらいトホホで拙いものである。
ところで、
サンマのことを英語では
"saury"
というらしい。ときに、
[さんま、さんま、
さんま苦いかしょっぱいか]
という一文で有名な詩がある。本日は、名前が
「春夫」なのに、もっとも有名な作がこの
「秋刀魚の歌」という、
佐藤春夫(さとう・はるお、1892-1964)の
没後50年にあたる日でもある。同人は
文学のジャンルでも多岐にわたり量的にも多作で
弟子だくさんで、名も広く知られてるわりには、
たいした作品がない文学者である。作品よりも、
谷崎潤一郎の女房をめぐるゴスィップのほうが知られてる。
上記の「秋刀魚の歌」も
谷崎夫人千代女史への思慕を詠ったものとされてる。
当時は親交があった谷崎が住んでた小田原に足繁く通った。
女房をかえりみず谷崎は家を空けてることが多い。
谷崎から疎まれだした千代夫人を哀れに思い、
"可哀想だたぁ惚れたってことよ"とばかりに、
思いを募らせてったのだという。
千代は谷崎の美的感覚からすればおブスで魅力がなかったらしい。
谷崎はもともと千代夫人の姉が好みだったが思いならず
千代夫人と結婚後にはそのまた妹に熱をあげ、
そちらと結婚したいと思い、という、
「全部やって姉妹たい」症候群を発症してたのである。いっぽう、
これまた全世界の女は俺のものだという性癖な
佐藤は妻が弟といい仲になって離婚。
千代に対する思いを深めたのである。谷崎は
飛んで火に入る春夫の虫とばかりに
千代女と離婚すると約束した。が、
佐藤と相思相愛になった千代女に対して嫉妬心、
佐藤に対して負けん気がムクムクと生じて、
口約束を反故にしてしまった。そして、
佐藤から絶交を言い渡された。これが
「小田原事件」である。が、
数年後に佐藤はまた谷崎と交流を復活させる。
そして、その間には谷崎は千代女に
弟子をくっつけるのである。これは
"寝取られ趣味"という立派な変態性欲行為である。が、
その弟子ではやはり"モノ足りなかった"のか、
千代女と正式に離婚した。そして、
千代女と佐藤と3人の連名で挨拶状を送り、それが新聞でも
「細君譲渡事件」
として採りあげられて世間に広く知れることになったのである。
佐藤は4歳年下の千代女と添い遂げた。
千代女は佐藤没後18年を生き、昭和57年に85歳で死んだ。
一高→東大、は無理だと思ったのか、
慶應予科から文学部に進んだ(中退だが)佐藤は、
慶應大学附属中学校の一つである日吉にある男子校、
慶應普通部の歌(塾歌とは別)を作詞してる。(作曲は堀内敬三)
[まなこをあげて あふぐ青空
希望は高し 目路ははるけし
慶應義塾の 若き学生
あに春草の 夢に酔はんや
ああ我等みな 志あり
慶應義塾の 若き学生
いざよく学び いざよく遊び
少年の日を ともに惜しまん
慶應義塾の 若き学生]
文学にはあまり才能がなかったと思わせる詞である。
(慶應普通部歌をテンポを落として律動と和声を換えて
弦楽合奏にアレンジしたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao01/keio-gizyuku-futsubu-no-uta
にアップしました)
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