本日は、
昭和39年(1964年)に東京オリンピックの開会式が行われた日にちなんで
その2年後から「体育の日」となった10月10日である。その後、
同祝日は10月第2月曜日と変更になった。10月10日は、
オリンピックの2年前にファイティング原田が、
19歳6月という当時は最年少の世界チャンピオンになった日だった。
同人はレスリングが行われた駒沢体育館の近くの
世田谷区深沢出身だった。ときに、世田谷といえば、
区役所や法務局の出張所や国士舘などが集中してるところに
松陰神社がある。その一画に松陰神社霊域(墓所)があるが、
第11代、13代、15代内閣総理大臣をつとめた
桂太郎(かつら・たろう、西暦およそ1848-1913)と桂家の墓がある。
今日は、
桂太郎の没後100年にあたる日でもある。
同人は長州藩士だったが毛利家の分家の生まれで、
育ちがよかった。後年、「ニコポン宰相」と呼ばれたように
ニコっと笑って相手の肩をポンと叩いて
自分の主張をいつの間にか受け入れさせてしまうような、
いいところのボンボンの雰囲気があったのだという。
同人が首相のときに、
日英同盟締結、日露戦争、日韓併合、関税自主権の完全回復、
という、明治時代の日本にとって重要なできごとがあった。
同人は若い時分に幕末・戊辰戦争・明治維新を経験したが、
ちょうどその頃、イタリアではガリヴァルディ赤シャツ隊の活躍で
フランスその他の勢力を駆逐して統一を果たしたのである。そのとき、
無欲のガリヴァルディとおなじくジュゼッペという名を持ち、そのサーネイムが
"Vittorio Emanuele Re d'Italia"
(ヴィットーリオ・エマヌエーレ・レ・ディターリア=ヴィットリオ・エムヌエレ2世をイタリア王に)
というイタリア統一スロウガンの頭文字にちょうどなってたため、
統一運動のシンボルとされたのが、
Giuseppe Verdi(ジュゼッペ・ヴェルディ、1813-1901)である。
といっても、サッカーはやらなかっただろうし、
ガリヴァルディの向こうを張って緑のユニフォームは着てなかったとは思う。
統一後のイタリアでヴェルディはちゃっかり国会議員にまでなった。
ヴェルディは現在のパルマ市の北西約35kmのブッセート近郊の
Roncole(ロンコレ)村で、宿屋兼酒場の倅として生まれた。
もちロンコレは現在はイタリアであるが、ヴェルディが生まれた年は、
ナポレオンが奪った領土だった。ために、
ヴェルディは"フランス人"として出生を記録されたのである。
家業の宿屋でどさまわり芸人や音楽師などの
通俗音楽を聴いて育ったという。そのためかどうかは、
「せんとくん」と「かんなおと」の顔を瞬時には判別できない
拙脳なる私には判らないが、ヴェルディの音楽には常に、
洗練されたセンスのイタリア人というよりも、
不潔なんて気にしないフランス人気質な
下品さと安っぽさの芸風がつきまとってるのである。
(ヴェルディのオペラ「アイーダ」の中の超有名な、いわゆる
「凱旋行進曲」をブラス(といってももともとブラス中心だが)
のアンサンブルにアレンジして小太鼓を加えたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/verdi-kamomeno-iwao-aida
にアップしました)
昭和39年(1964年)に東京オリンピックの開会式が行われた日にちなんで
その2年後から「体育の日」となった10月10日である。その後、
同祝日は10月第2月曜日と変更になった。10月10日は、
オリンピックの2年前にファイティング原田が、
19歳6月という当時は最年少の世界チャンピオンになった日だった。
同人はレスリングが行われた駒沢体育館の近くの
世田谷区深沢出身だった。ときに、世田谷といえば、
区役所や法務局の出張所や国士舘などが集中してるところに
松陰神社がある。その一画に松陰神社霊域(墓所)があるが、
第11代、13代、15代内閣総理大臣をつとめた
桂太郎(かつら・たろう、西暦およそ1848-1913)と桂家の墓がある。
今日は、
桂太郎の没後100年にあたる日でもある。
同人は長州藩士だったが毛利家の分家の生まれで、
育ちがよかった。後年、「ニコポン宰相」と呼ばれたように
ニコっと笑って相手の肩をポンと叩いて
自分の主張をいつの間にか受け入れさせてしまうような、
いいところのボンボンの雰囲気があったのだという。
同人が首相のときに、
日英同盟締結、日露戦争、日韓併合、関税自主権の完全回復、
という、明治時代の日本にとって重要なできごとがあった。
同人は若い時分に幕末・戊辰戦争・明治維新を経験したが、
ちょうどその頃、イタリアではガリヴァルディ赤シャツ隊の活躍で
フランスその他の勢力を駆逐して統一を果たしたのである。そのとき、
無欲のガリヴァルディとおなじくジュゼッペという名を持ち、そのサーネイムが
"Vittorio Emanuele Re d'Italia"
(ヴィットーリオ・エマヌエーレ・レ・ディターリア=ヴィットリオ・エムヌエレ2世をイタリア王に)
というイタリア統一スロウガンの頭文字にちょうどなってたため、
統一運動のシンボルとされたのが、
Giuseppe Verdi(ジュゼッペ・ヴェルディ、1813-1901)である。
といっても、サッカーはやらなかっただろうし、
ガリヴァルディの向こうを張って緑のユニフォームは着てなかったとは思う。
統一後のイタリアでヴェルディはちゃっかり国会議員にまでなった。
ヴェルディは現在のパルマ市の北西約35kmのブッセート近郊の
Roncole(ロンコレ)村で、宿屋兼酒場の倅として生まれた。
もちロンコレは現在はイタリアであるが、ヴェルディが生まれた年は、
ナポレオンが奪った領土だった。ために、
ヴェルディは"フランス人"として出生を記録されたのである。
家業の宿屋でどさまわり芸人や音楽師などの
通俗音楽を聴いて育ったという。そのためかどうかは、
「せんとくん」と「かんなおと」の顔を瞬時には判別できない
拙脳なる私には判らないが、ヴェルディの音楽には常に、
洗練されたセンスのイタリア人というよりも、
不潔なんて気にしないフランス人気質な
下品さと安っぽさの芸風がつきまとってるのである。
(ヴェルディのオペラ「アイーダ」の中の超有名な、いわゆる
「凱旋行進曲」をブラス(といってももともとブラス中心だが)
のアンサンブルにアレンジして小太鼓を加えたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/verdi-kamomeno-iwao-aida
にアップしました)
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