チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「アレクサンドル・ジロティ生誕150年/浅野幸長没後400年」

2013年10月09日 18時37分53秒 | 歴史ーランド・邪図
本日は、
戦国武将浅野幸長(あさの・よしなが、西暦およそ1576-同1613)の
没後400年にあたる日である。
京都二条城での家康と豊臣秀頼の会見にあたって、
加藤清正とともに秀頼の警護を勤めた。
この会見のすぐあとに清正は死に、それから
たった2年後に幸長も他界した。ともに、
梅毒死(つまり、死ぬべくして死んだ)
とされてる点も、紀伊にも奇異にも思われる。

今日は、
ピアニスト・指揮者・編曲者の
Александр Ильич Зилоти Зилоти
(Aleksandr Ilyich Ziloti=アリクサーンドル・イリイーチ・ズィローティ、あるいは、
Alexander Siloti=アリクザンダー・ズィローティ、1863-1945)、
いわゆるアレクサンドル・ジロティの生誕150年にあたる日でもある。
名から推察されるように、そのルーツはイタリアである。
もともとは城門のキー(鍵)を意味するSilotti(スィロッティ)だった。
英語のslat、slit、slotなどと同源である。
現行暦換算1863年10月9日に、
現在のウクライナのハリコフ近郊の別荘で誕生した。
チャイコフスキーの和声学の生徒にしてラフマニノフの従兄弟である
(ジロティの母はラフマニノフの父の姉)。リスト最晩年の弟子でもある。
リストの死後、ロシアに戻り、若くして母校モスクワ音楽院のピアノ科教授となった。
1887年にヴィェーラ・パーヴラヴナ・トレチャコーヴァと結婚した。
トレチャコフ美術館のもととなった美術収集家で大富豪の、
パーヴィェル・ミハーィラヴィチ・トレチャコーフの娘である。ちなみに、
そのトレチャコフの妹の娘が、チャイコフスキーの弟アナトーリィの妻プラスコーヴィヤである。
このように順調だったジロティも、ロシア革命でその人生が大きく変わった。
英国を経て米国に移り、NYのジュリアード音楽院で18年間ピアノを教えた。

ジロティは数多くの"編曲"を残してるらしい。
もっとも有名なのは、バッハの「平均率」の第1巻第10曲のプレリュードである。
チャイコフスキー関連でいえば、バレエ「眠れる森の美女」全曲のpf(ソロ)編曲をした。
これは、チャイコフスキーに与えられたチャンスを
若い従兄弟のラフマニノフが挫折したために、
代わりにジロティが遂行したという経緯がある。
この編曲譜は、1890年1月のバレエ初演に先立って
1889年にユルゲンソンから出版された。

(「眠れる森の美女」の序奏(ジロティによるpfソロ編曲)に
さらに少し手を加えたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/tchaikovsky-siloti-pf
にアップしました)
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