チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「Ocの舗装道と街なみ」

2008年12月10日 00時05分48秒 | 歴史ーランド・邪図
今はもう冬と言っていいのだろうか。
作家小澤征良女史とNHKの小野文恵アナの
声・しゃべりも聞き分けれず、また、
同アナと女優宮崎あおい女史の口元も判別できない拙脳な私ゆえ、
いつから冬が始まるか知るはずもない。ので、
今日のような雨を時雨と言うのかどうかも解るべくもない。ただ、
メキシコ五輪棒高跳びの金メダリストが次のミュンヘンで破れ(銀)、
第1回アテネから16回続いてた米国による金という
稀少な記録を途絶えさせたのが
ボブ・シーグレンだったのは覚えてる。
あの頃、週末を過ごしてた横浜の家とも、もうじきお別れである。
「旅人と、我名よばれん、初しぐれ」
という貞享である。何億シタンだろう、という豪邸でもないが、
父の思い出がつまってる。ところで、ここ数年で、
「ロクシタン(L'occitane)」というコスメが人気になったらしい。
「植物素材を使ってる」という「自然派」を謳い文句にすることが、
大衆を動かすお商売のコツというものである。今年5月には、
渋谷の交差点前にそのショップだけでなく階上には
「ロクシタン・カフェ」まで開店させた。あのビルでは以前に、
地下の喫茶マイアミで待ち合わせや打ち合わせくらいしか
したことしかなかったので、その光景の違いに、
耄碌シタンではないかと思ったほどである。ときに、
「ロクシタン」とはフランスの南西部、その昔、
oui(ウイ)にあたる言葉をoc(オク)と言った地域、
の人々を指す言葉である。一説には、
okの由来であるともいわれるocが使われるその言語を、
langue d'oc(ラング・ドック)というが、
ワインの銘柄ともなってるのである。ちなみに、
occitaneは女性形なので、
オクシタ(ー)ヌのほうが近いかもしれない。
日本では小野アナの出身高校がある福山でほとんどが製産されてる
デニム生地の語源になったニームや、
ノストラダムスが医学を学んだとされてるモンペリエも、
ラング・ドクな地域である。私は
ロクシタンでもキリシタンでもないが、
石畳で舗装されたモンペリエの旧市街を歩いたことがある。
巣鴨とげぬき地蔵商店街のように車は入れなくなる。が、
赤いパンツもモンペも売ってなかった。冗談はともかく、
モンペリエは、聖ヤコブの遺骸があるとされてる
スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者の
宿場として成立した町である。巡礼者は、
石畳に填めこまれたホタテガイのマークがある宿に泊まった由。
聖ヤコブのシンボルがホタテだからである。ちなみに、
マドレーヌはホタテ貝をかたどったものであるが、進む道を
惑れーぬ私が医学への道を捨てたとき、父は
「何をやるんでもいいが、その前に国外を見聞してきたらどうだ」
と言った。文化やスポーツは好きでも、
外国自体は嫌いな私に。番町行人坂近くに住んでた
滝廉太郎のように、音楽留学してもいいと言ってもくれた。ときに、
番町以外にも、目黒に行人(ぎょうにん)坂という急な坂がある。
出羽湯殿山の修験僧が切り開いて
大日如来を祀ったからその名がついた由。そこで、
明和9年に江戸の三大火事のひとつといわれる
大火があった。が、その前年3月末(現在の5月中頃)、
京の岡崎(南禅寺の近く、今は高級住宅街)の庵をあとに、
57歳の女性が「みちのくひとり旅」に立ったそうである。
九州筑後国、現在の福岡県田主丸の庄屋の娘として生まれ、
親類の庄屋に嫁いだ、永末なみ、という江戸時代の女性である。が、
婚後数年を経ても子ができず、「庄屋の嫁」としての
「務め」が問われだした。そんな同女に、
「俳諧」が慰みとなる。そして、ついに29歳のとき、
相思相愛だったその師である12歳年上の元直方藩士有井湖白と
「駆け落ち」するのである。並の女性ではない。
俳句のはの字の才もない私の場合、
言葉の「かけ」はあっても「おち」がない
低俗なオヤジギャグなので、俳句を詠むことはない。が、
仮に俳句に挑んだとしても、超「初級に」すぎない。それはどうでも、
同女は師と夫婦同然となって京に逃れる。一時、
大阪に住んだりしてたのであるが、やがて京に居を構える。
そして、駆け落ちから18年、事実婚の夫が死ぬ。が、
初対面のとき、「チョウム・ベッケッスムニダ」、
とは挨拶しなかったかもしれないが、同女には
18歳年下の元僧で芭蕉研究者の睡花堂蝶夢が支えになる。その
蝶夢が伊賀上野から向井去来筆の「奥の細道」を「発見」してくる。
同女は「諸九」という号の俳人として
俳壇では認知されるまでになってた。が、
どうしても芭蕉の「跡」を追いたいという思いが
夢から現実に向かい、胸に去来したのである。
その衝動は抑えれきれないものだった。
諸九尼は東海道で江戸へ、そして、鹿島・水戸経由の
棚倉街道から奥州白河、仙台・松島と進んだ。復路は、
日光から裏街道を経て長野善光寺、諏訪、伊那路で妻籠、
そしてやっと中山道に出て帰路についた、
のである。というように、
表街道をあまり通らないルートである。
関所を避けてた由。
晩年、諸九尼は亡き夫の故郷直方に戻る。が、
長崎や大宰府などにも旅するのである。そして、
直方の庵で養女に看取られて死ぬのである。行年67。
生涯旅の人生は、心の師である芭蕉と同じだった。
真に好きな男と生活をともにし、俳句を詠み、
旅をし、実家とも和解した。こんな
悔いのない人間はいないことだろう。たとえ、
「音のした、戸に人もなし、夕時雨」
という、言葉づかいがやや稚拙な句を詠んでも、
そこにはいくばくかの哀れさも薄倖もない。
夫の湖白庵浮風は
「なみをどう思ってたか?」
と問われれば、
「愛い(oui)やったい」
と答えただろうが、
「なみ」に「あなたは幸せだったか?」
と問えば、答えは間違いなく、
"oc"なことだろう。自業自得ながら、
チャイコフスキーの音楽以外、心の拠り所のない私とは
大違いである。

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3 コメント

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知らなかったです。 (もろきゅう)
2008-12-13 03:13:05
読んでてちょっと怖くなりました。
んで、ついつい調べちゃいました。

「夕がほや一日の息ふつとつく」
「一雫こぼして延びる木の芽かな」 
「けふの月目のおとろへを忘れけり」
「鶏頭や老ても紅はうすからず」

私、俳諧については素人ですが、
それでもどこか彼女のことばは少女を感じさせますね。
というか頼りない。稚拙なくらい。あけすけ。

もっとこの人の作品を読んでみないと、いい加減な解釈はできないと思いますが、できれば、ひとりであちこちを旅した事が、逃避でなかったらいいなと思いました。

そうじゃないと、
なんか自分もそうじゃないかと思えてきそうで、怖いです。
返信する
たびたび (もろきゅう)
2008-12-13 03:45:46
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa061223.html

ここを読んできて、少し違った気持ちになりました。
もう少し強いのかも。

でも、何か依存心が強かったのではないかと言う思いは拭いきれず。誰かに分かってほしい、というような気持ちを感じます。

「夢見るも仕事のうちや春の雨」

単純すぎる解釈でしょうかね。
でも依存心とかがあればこそ、あんなにも愛される良い妻(浮風にとって)たりえたのではないかなとも。

そういう意味では、やはり、
ひとつの女の一生を生涯かけて描いた人と言えるのでしょう。

って、勝手にだらだらと書いてすみません。
とにかく、とても興味がわきました。
(勝手に)ありがとうございました。
返信する
「496 370 191」 (passionbbb)
2008-12-14 01:05:16
>もろきゅうさん、
酒の肴にしてしまうなんて、
エスプリが利いた読みかたですね。
詞の「初級」者である私には
思いつきもしません。
おそれいりました。

<読んでてちょっと怖くなりました>
とか。怖く、ですか。
恋しい人が亡くなって髪を落とす。
私はこんな女性に
蠢惑的な魅力を覚えます。もっとも、
モテ男の浮風と正反対で、私は
我が髪の薄さという現実からも
頭皮したいくらいです。それはどうでも、
だがもしこの女性に子がいたら、
その生きかたは許されなかっただろう、
と思います。もし、
実の子がいれば、俳句は必要ありません。
子が人の生きた証であり、
人としての責務を果たした結果であるからです。
それ以上、何が要るというのでしょう。
それ以上を欲しがるのは、
あれもこれも欲しがる欲張りというものです。
家庭を持ち、子を設けた者は、
それで必要充分です。そんな飽和状態な者が
真の(文化的)創造者たりえません。
芭蕉に子がいたでしょうか?

「江戸の俳諧師『奥の細道』を行く」
(金森敦子女史著/角川文庫)によれば、
……ネットなどで調べられたのでしたら
すでにご存じかもしれませんが……
「諸九」は当初使ってた号の
「雎鳩」という意味で、その
音を別字に移したそうです。
雎鳩は和名「みさご」で、鳩の仲間ではなく、
タカ科、つまり猛禽類です。詩経由来の
「関々雎鳩」略して「関雎」という成語があって、
カンカンの関は閑で、長閑。
雄と雌がのどかに鳴きあってる、つまり、
仲睦まじい、という意味です。
周の文王とその妃を指してます。妃は
賢王たる文王に尽くして10人の子を産んだとか
(そのうちのひとりが武王)。が、これには
中国の「言」に「周」の国の話があるっていう、
「プロロウグ」があって、それは
(文字化けするので名前の漢字は省略します)……
「ていこくこうじんし」の妃「きょうげん」が
外出したとき、巨人の足跡を見つけて、
好奇心からその足跡を踏んだ。すると、
その帰途、にわかに妊娠して男子を出産した。が、
やはり気持ち悪く思ってその子を道端に捨てた。が、
牛馬羊も避けて踏むことなく通りすぎた。
それならと、林の中に棄てた。が、
今度はキコリが助けた。ではと、
寒い氷の上に置いた。が、やはり、
鳥が拾いあげ、巣で温めた。そして、
ついにあきらめ、「弃(=棄)」と名づけ、
育てることにした……
子のできなかった秀吉が茶々の産んだ男子を
「お捨」と呼んだのもこの故事からでしょう。
その「棄」の子孫が、文王です。つまり、
(おそらく)子ができなかったなみは、
この故事にあやかって
「しょきゅう」を号したのでしょう。

私こそ俳諧にもド素人ですが、
その「5・7・5」は、
そのおおもとである和歌の
「5・7・5・7・7」の
上三句らしいですね。でも、
万葉集時代のいわゆる五七調、
「5-7、5-7、……、7」
という長歌が短歌
「5-7、5-7、7」
のもとでもあり、すべての
和歌の基本は「5-7」
だと考えてます。つまり、「5-7」の
「5が体言、7が用言」。それを、
別の体言・用言を重ねて
発展・展開・高揚させていき、
最後に用言の7だけを反復して、
リズムに変化を与え
(リズムを崩して、あるいは、
ぎこちなく、または、
あっけなく)そこを消失点として
幽玄に終える。ですから、
「5-7-5」という組み合わせは、
日本語の詩歌としては本質的でない、
などと生意気にも思ってしまうのです。

おっしゃるとおり、
諸九女史の俳句は「あけすけ」
なのでしょう。あるいは、
虚飾がない、といえるかもしれません。
柿本人麻呂や大伴家持にも、
じつに直截的で陳腐で稚拙な言い回しの歌が
相当にあります。でも、
その荒削り、がしかしその
虚心坦懐さが、むしろ、
腕のいいヘアメイクさんに
バッチリ仕上げてもらった美顔より、
スッピンあるいは極薄の自メイクの魅力に
惹かれてしまうのに似て、
深く心に響いてくるのだと思います。

「芸術」とはつまり、
「依存心」は強いのに、でも
真に孤独な人(したがって子もない)が、
誰かにわかってほしい、
というアンビヴァレントな欲求を
表現したものですから。
「真の芸術家」に「理解者」はいても、
「性的相方」は普通いません。が、
子ができた時点で、その「芸術性」は
立ち消えてしまいます。なぜなら、
「有性生物としての欲求が叶ってしまった」
のですから。なみさんの場合、
子はいませんでした。でも、
「浮風」=「理解者」=「性的相方」
だったわけで、その意味で、
「幸せな女性」だった、
と私は思うのです。
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