ツルゲーネフ 貴族の巣
[貴族の巣](Дворянское Гнездо ドヴァリャーンスカエ・グニズドー)は、
1859年に発表されたツルゲーネフの長編小説である。
パリ生活に飽きあきし妻に愛想をつかした主人公ラヴレツキーは、
単身ロシアに帰国し遠縁のカリーニン家を訪ねる。
美しく成長し妻とは対極の純真なリーザにラヴレーツキーは心惹かれる。
ここでは最後に、ツルゲーネフの小説の真骨頂ともいえるエピローグの最後の場面を、
ロシア語の原文、そのカタカナ発音、そして私の日本語訳と、
詳細に並べてみていくことにする。
[The epilogue of "A Nest of Gentlefolk"(Turgenev)/Дворянское Гнездо]
今日は旧暦2月15日相当の日である。
「そのきさらぎの、望月のころ」である。
一概に、人が死ぬのは暑い時分と寒い季節に多い。
葬儀に参列する者にとっても、じつに
きびしい時期である。それはどうでも、
北面の武士佐藤義清は「貴族の巣」を飛び立って出家した。
如何なる理由でか……のちに、
みちのく一人旅をした歌詠みである、
♪おまえが俺には西行のおぉ~ん~なぁ~~~♪
……叶わぬ色恋だったのかもしれない。
西行法師は現在の大阪府南河内町の弘川寺で
文治6年(1190年相当)の2月16日に死んだ。
「そのきさらぎの、望月のころ」である。そのことが、
当時の歌詠みらに「あはれ」という、
日本人の情緒に訴える感動を与えたようである。
4歳年上の俊成はこのような歌を詠んでその死を悼む。
「願ひおきし、花の下にて、終わりけり。
蓮の上も、違はざるらん」
蓮(ハチス)というだけあって、「西行物語絵巻」のうちの一巻は
蜂須賀家が江戸時代には所蔵してたそうである。この絵巻では、
親友の死が武士を捨てるきっかけだったとされてる由。ときに、
母がコーヒー好きで、私は小さい頃から
サイフォンでいれたものを飲まされてた。ゆえに、私にとって母は、
♪おまえが俺にはサイフォンのおぉ~ん~なぁ~~~♪
である。いずれにせよ、そんなわけで、
インスタントのコーヒーとは「違いがわかる男」だった。ともあれ、
コーヒーは湯を「熱する」温度が大事なようである。さて、
小学校4年のときに、「少年少女世界の名作文学」という
子供向けに書き直されてた、イワン・セルゲービチ・ツルゲーネフ
(イヴァーン・スィルギェーイヴィチ・トゥルギェーニフ)の
「父と子/Отцы и дети(アツィー・イ・ヂェーチ)」を読んだ。
俊成・定家ほどの脳の足もとにも花の下にも遠く及ばない私には、
ニヒリストもナロードニキも「不用男」も解らないが、
ツルゲーネフの世界に惹きつけられた。後年、自分が
イヤーン・ヘル毛イェチョヴィチ・ツル毛ー無エフとなることなど、
微塵も考えもせずに。それはどうでも、「父と子」は、
倅を誇りに、そしてその行く末を思う年老いた父母の気持ちを
無惨にも打ち砕く現実、という結末。ロシア語でいうところの
「ジーズニ」の無情がジツニ繊細に描かれてた。そうして、
「ツルゲーネフ」の世界に魅了された私は、新潮や角川などの
文庫に訳されてるものを中学生のときまでにほとんど読んだ。
ジョン・モウルダー・ブラウン、ドミニク・サンダ主演、
マクスィミリアン・シェル監督・助演の映画「初恋」まで観た。
「ツルゲーネフ」のロマーン(ロシア語で小説)の、私にとっての魅力の極みは、
その「結び」である。その、
感傷的でノスタルジックな「後日談」は、成長期のガキだった私の
拙脳をおおいに刺激した。私は勝手にツルゲーネフを
「エピローグ・テラー」と名づけてた。その
感動的なエンディングの中のひとつが、「貴族の巣」である。
[Дворянское Гнездо(ドヴァリャーンスカエ・グニズドー)]
(主人公=ラブリェーツキィ、ヒロイン=リーザ)
"И конец? ……спросит, может быть,
イ ・カニェーツ?……スプロースィト、モージィト・ブィーチ、
неудовлетворённый читатель.
ニウダヴリトヴァリョーンヌィ・チターチェリ。
……А что же сталось потом
……ア・シトー・ジェ・スターラシ・パトーム・
с Лаврецким? с Лизой?"
ス・ラヴリェーツキム? ス・リーザィ?
Но что сказать о людях,
ノ・シトー・スカザーチ・ア・リュージェフ、
ещё живых, но уже сошедших
イシショー・ジヴィーフ、ノ・ウジェー・サシェートシフ・
с земного поприща,
ス・ジムノーヴァ・ポープリシシャ、
зачем возвращаться к ним?
ザチェーム・ヴァズヴラシシャーツァ・ク・ニーム?
Говорят, Лаврецкий посетил
ガヴァリャート、ラヴリェーツキィ・パスィチール・
тот отдалённый монастырь,
トート・アッダリョーンヌィ・マナスティーリ、
куда скрылась Лиза,
クダー・スクルィーラシ・リーザ、
……увидел её.
……ウヴィーヂル・イヨー。
Перебираясь с клироса на клирос,
ピリビラーイェシ・ス・クリーラサ・ナ・クリーラス、
она прошла близко мимо него,
アナー・プラシラー・ブリースカ・ミーマ・ニヴォー、
прошла ровной,
プラシラー・ローヴナィ、
торопливо-смирённой
タラプリーヴァ-スミリョーンナィ・
походкой монахини
パホートカィ・マナーヒニ。
……и не взглянула на него;
……イ・ニ・ヴズグリャヌーラ・ナ・ニヴォー;
только ресницы обращённого
トーリカ・リスニーツィ・アブラシショーンナヴァ・
к нему глаза чуть-чуть дрогнули,
ク・ニムー・グラーザ・チューチ-チューチ・ドローグヌリ、
только ещё ниже наклонила
トーリカ・イシショー・ニージェ・ナクラニーラ・
она своё исхудалое лицо
アナー・スヴァヨー・イスフダーラェ・リツォー・
……и пальцы сжатых рук,
……イ・パーリツィ・スジャーティフ・ルーク、
перевитые чётками,
ピリヴィーティェ・チョートカミ、
ещё крепче прижались друг к другу.
イシショー・クリェープチィ・プリジャーリシ・ドルーク・ク・ドルーグ。
Что подумали,
シトー・パドゥーマリ、
что почувствовали оба?
シトー・パチューフトヴァヴァリ・オーバ?
Кто узнает? Кто скажет?
クトー・ウズナーィト? クトー・スカージィト?
Есть такие мгновения в жизни,
イェースチ・タキーェ・ムグナヴィェーニェ・ヴ・ジーズニ、
такие чувства...
タキーェ・チューフストヴァ...
На них можно только указать
ナ・ニーフ・モージナ・トーリカ・ウカザーチ
……и пройти мимо.
……イ・プラィチー・ミーマ。
(拙大意)
「これで、終わりか?」と、おそらく
満足してくださらない読者諸氏はお訊ねになるだろう。
「その後、ラヴレーツキーはどうなったのだ? リーザは?」と。
だが、生きてはいてもすでに隠棲してしまった人たちについて、
そこに立ち戻って何かを語る必要があるだろうか。が、
まぁ、こんなことらしい。
ラヴレーツキーはリーザが身を隠してる修道院まではるばる出向き、
彼女を見つけた。
聖歌隊席から聖歌隊席へと移るとき、
彼女は彼のそばを通り過ぎた。
まっすぐに、急ぐような修道女の足取りで、
彼のほうを見向きもせずに。
ただ、彼に向けられた睫毛だけがほんのわずかに震え、
ただ、やせこけた彼女の顔がもっと低く垂れて、
ただ、手に絡められたチョートキ(正教会の数珠)が
なおいっそう強く握りしめられ、
ただ、顔とチョートキがさらに近づいただけである。
二人は何を考え、何を感じたか?
それをまた、誰が知り、誰が何と言えようか?
人生にはそのような瞬間が存在し、
そのような感情が生じるものである。
それらはただ、指さして……通り過ぎるよりしかたがない。
角川文庫から出てた日本語訳のこの小説の
この結尾を初めて読んだとき、
私の涙は長い時間止まらなかった。
ツルゲーネフはロシア時代に
「猟人日記」は上梓したが、パリで死ぬ頃に
「老人日記」は書かなかったようである。
歌手ポーリーヌ・ヴィヤルド夫人に惚れ込み、
その夫や子らの面倒をみながらパリで同居したりしてたが、
結局は、孤独な、неудовлетворённыйな
人生だった。イワンや、
終生、正真正銘孤独だった歌詠み老人をや。
唯一の願いは、
せめて死ぬときだけは、
桜の花のしたで、
春に、
如月の望月の頃に、
死にたい、
というささやかなのぞみだけだった。
それは叶えられた、のかもしれないが、
普通の幸せを得れる人生とは、
とうてい同じではない。
昨日今日で、道頓堀の
カーネル・サンダーズ人形が四半世紀ぶりに見つかった、
というニュースが流れてたが、今夜、テレ東では、
澤田(岩崎)美喜女史を扱った番組をやる。
「トンネルの向こうはぼくらの楽園だった」
というタイトルである。
大磯の「エリザベス・サンダーズ・ホウム」を設立した
故澤田美喜女史である。
白州次郎に関するウソ噺で作り上げたあんなNHKのドラマより、
進駐軍と政府に立ち向かった「女弥太郎」、
岩崎家の令嬢の話のほうが、
よほど観る価値がある。ちなみに、
私くらいの世代には、「サインはV」というスポ根漫画の
ジュン・サンダーズという架空のキャラクターの名で、
その施設の存在が知られてた。それはともかく、
今から29年前、マジョルカ島で澤田女史が客死したとき、
同ホウムで育てられて人生を救われた若者が、
「(大恩人である澤田女史が聖公会の
キリスト者だったにもかかわらず)
ボクはいまも神を信じない。それだけ、
つらい目にあったから。でも……もし仮に
『天国』っていうものがあるとしたら、
ママちゃま(澤田女史)こそまちがいなく行ける人です」
と言ってた。私も宗教を信じないが、
その言葉自体の重みだけは、ずしりと感じた。
エセ・ヒューマニストを信奉する思慮に欠けるむきも、本来は、
こういう本当の「人物」をこそ知るべきである。