チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「冬のソナタのイ・ミニョンと君よ知るや南の国(アンブロワーズ・トマ)/2種類の音楽に属さない作曲家」

2011年08月05日 16時19分32秒 | 説くクラ音ばサラサーデまで(クラ音全般
「冬ソナ」がブームになったのは2004年頃だから、まだ
7年前のことである。が、もう遠く昔のことのように思える。
このドラマの要は、ペ・ヨンジュン扮するミニョン(=チュンサン)と
チェ・ジウ演じるユジンの愛の誓いが実現されることにある。そして、
それはちょうど前半終いの第10話で、
[他の星が全部動いてしまっても、ポラリスだけは同じところにいる。
だから、僕が同じところで待ってたら迷わずに来れるだろう?
ポラリス・チャジュル・ス・イッチョ?]
(ポラリス=移動しないとされてる星≒北極星、
チャッタ=見つける、探し出す、
~ル・ス・イッタ=~できる、
語尾のチョ?=~でしょう?
→ポラリス、わかるでしょう?)
というようなセリフが配されてて、最終回である第20回のラスト・スィーンで、
ユジンが設計した(実現不可能だった)家が現実に建ってて、
もしやと思ってそこを訪ね、そして、
再会、結ばれる、という回帰が仕組まれてるのである。

さて、
わけあってチュンサンからミニョンになったペ・ヨンジュンは
日本のおばさまらが夢中になるくらいな素敵なキャラだったが、
西洋でミニョン(mignon)といえば、「かわいらしい、可憐な」という意味である。
ギョエテが著した「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」を脚色した
アンブロワズ・トマのオペラ「ミニョン」は、
幼いときにロマに誘拐された南イタリアの城主の娘スペラータ(希望という意味)が
寒いドイツで旅芸人一座の座員として使われてる
可憐な少女ミニョンとなってるところにヴィルヘルムが手を差し伸べ
……という筋である。
この第1幕でミニョンによって歌われるのが
"Connais-tu le Pays?(邦題=君よ知るや南の国)"である。

"Connais-tu le pays ou fleurit l'oranger?"
(コネ・テュ(二人称単数=親称)・ル・ペイ・ウー(関係副詞=where)・フルリ・ロランジェ?)
「(拙大意)オレンジの花咲くふるさと知ってる?」
"Le pays des fruits d'or et des roses vermeils."
(ル・ペイ・デ・フリュイ・ドル・エ・デ・ロズ・ヴェルメイユ。)
「(拙大意)金色の果物と真っ赤なバラでいっぱいの(ふるさとを)」
ゲーテの原作詩はもちろんドイツ語である。
"Kennst du das Land, wo die Zitronen bluehn,"
(ケンスト・ドゥ・ダス・ラント、ヴォ・ディ・ツィトローネン・ブリューン)
「(拙大意)レモンの花咲くふるさと知ってる?」
"Im dunkeln Laub die Goldorangen gluehn,"
(イム・ドゥンケルン・ラオプ・ディ・ゴルトオランジェン・グリューン)
「(拙大意)暗い葉陰にも金色のオレンジが輝く(ふるさとを)」

オペラに脚色するに際してやや変えたのである。ともあれ、
スペイン人歌手テレサ・ベルガンサ女史がお得意だったアーリアである。が、かつては、
ダーク・ダックスや天地真理女史も歌ってた。
♪ミー<ファ・ソーー│<ラー>ファ・>レーー│●レ<ミ・<ファ<ラ>ファ│<ソーー・ーー●♪
今日8月5日が生誕200年の日である
Ambroise Thomas(アンブルワズ・トマ、1811-1896)は、
おもにオペラで人気を博し、84歳まで生きた平凡な大衆作曲家である。
この幼稚とも思えるほど初歩の俗っぽい「スカスカ感」が曲の特色である。
官僚で日曜作曲家だったシャブリエはトマをこう評したという。
"Il y a deux especes de musique, la bonne et la mauvaise.
Et puis il y a la musique d’Ambroise Thomas"
(イリヤ・ドゥー・ゼスペス・ドゥ・ムズィク、ラ・ボン・エ・ラ・モヴェズ。
エ・ピュイ・イリヤ・ラ・ムズィク・ダンブワズ・トマ)
「(拙大意)音楽には2種類ある。良いのと悪いのと。
それからもう1つ、アンブロワズ・トマの音楽という種類がある」
(*このpuisは当然ながら「井戸」ではなく「それと」という意味である)
トマより30歳年下ながら2年早く死んだ、
ヴァーグナー以降の和声時代を生きたシャブリエがこう言うほど、
良し悪しという物差しでは測れない、
俗っぽさ、簡易、という大衆レヴェルに受け入れられる、
ポラリスのように誰にでも見つけれる音楽、
の代表だったのである。
[心なき、ミニョンにも、あはれは知られけり。鴫立沢の、秋の夕暮]
[寂しさは、その色としも、なかりけり。ヴィルヘルム・マイスターの、秋の夕暮]
[見渡せば、幅も高みも、なかりけり。クラ音の苫(Thomas)屋の、飽きの遊具例]

冬ソナはハッピー・エンディングだった。いっぽう、
ゲーテの原作でミニョンは死んでしまうが、
オペラではミニョンはヴィルヘルムとめでたく結ばれる。
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