という語呂合わせは大田南畝によるものとも言われてる。いっぽう、
「オー・ソーレ・ミーオのリフィウーティ耐用日数」は私の地口である。
南畝の墓は小石川本念寺にある。現在の住居表示でいえば、
文京区白山4丁目、小石川植物園の裏である。それはさておき、
東京には上の「入谷鬼子母神」の他に、
雑司ヶ谷にも鬼子母神はある。女優の松下奈緒女史もピアノ科に通ってた
東京音大のすぐソバである。ときに、
「鬼子母神」とは、インド仏教の神である。
500乃至1000人の子を持ち、いっぽうで、
他人の子を捕え殺し食べてた。それを知った釈迦は、
同女がもっともかわいがってた末の子を隠し、
子を失う母の気持ちを悟らせた。以後、
同女は改心し、「子授かり」「安産」「子育て」の神となった、
という。とうぜんながら、「子だくさん」「豊饒」、
「家系存続」「子孫繁栄」を祈念する対象となった。さて、
日本全国にどれほど鬼子母神があるかは、
松山千春と神津善行の顔の区別もままならない愚脳な私には
とうていわからないことではあるが、上記二つに加え、
現在の千葉県、下総の中山にある「中山法華経寺」にも
鬼子母神が祀られてることだけは知ってる。ここで、
この三つは、
雑司ヶ谷鬼子母神=豊島区雑司ヶ谷3丁目15番20号
=北緯35度43分08秒(東経139度43分00秒)
入谷鬼子母神=台東区下谷1丁目12番16号
=北緯35度43分00秒(東経139度47分10秒)
中山法華経寺=市川市中山2丁目10番01号
=北緯35度43分01秒(東経139度57分05秒)
(緯度・経度はいい加減である。だいたい、である)
と、ほぼ同緯度である。1秒の差が31mだとしても、
三つの鬼子母神は南北250m内に収まってることになる。ちなみに、
チャイコフスキーの父イリヤーは鉱山技師だった。技師、
というよりは、教官あるいは管理職だったが、いずれにしても、
鉱脈発掘の測量も経度や緯度を使ってたに違いない。
私の祖父は商工省の鉱山局や燃料局の小役人だったので、残念ながら、
ダイアモンドや石油を掘り当てたりはしなかった。さて、
中山は開催中ではないのでおいといて、
江戸の二つの鬼子母神に注目すると、
雑司ヶ谷の鬼子母神から南東、そして、入谷の鬼子母神から南西、
へそれぞれ直線を引いてくと、江戸城の北の丸あたりで交わる。
逆に言えば、入谷の鬼子母神は、江戸城北の丸からは
鬼門にあたる方角だということである。それはさておき、
現在、武道館がある江戸城北の丸は、江戸時代中期以降は、
吉宗の子や孫らに与えられた家、
田安家、清水家の屋敷が置かれてた。が、
それ以前には、斉藤福の城内屋敷があったのである。
第3代将軍家光は、両親が秀忠・お江与でなく、
父が家康であるか天海であるかはともかく、少なくとも、
母が斉藤福であったことはほぼ間違いないことである。
そのお福が「我が子」家光の「子安」を祈ったことは
想像に難くない。ちなみに、
家光の長男(のちの第4代将軍家綱)も幼名が
「竹千代」であったことに、お福や家光の「気持ち」が現れてる。
それはともかくも、上記二つの江戸の鬼子母神のうち、
入谷の鬼子母神はお福の死後に祀られたものではある。ただし、
この二つを直線で結んだ中点には、現在、東大附属の
「小石川植物園」があるのである。前身は、第8代将軍吉宗が築いた
「小石川養生所」である。そこは、
「小石川御薬園」の敷地内である。
家光が病に倒れたとき、お福は「我が子」の救命と引き換えに
自らは一生薬断ちをすると誓い、神仏に祈願した。この、
「小石川御薬園」は、さらにその前は、お福の孫のひとり綱吉が
まだ一介の「舘林殿」だった頃の屋敷だったとこである。
「小石川御殿」とか、白山神社が祀られてたので、
「白山御殿」とか呼ばれてた屋敷である。ときに、
白山神社は神社ながら比叡山(天台宗)と関係が深い。そして、
現在でも「岐阜県に多く展開」されてる、という具合である。また、
白山神社があるところ、そこには、書いたり言ったりすることが
タブーとされてるゾウンが存在してたのである。
明智光秀の奥方は同じく美濃の妻木氏の出である。
妻木氏は「勘解由」、つまり、
賀茂氏→勘解由小路家(陰陽道の暦係)(←→安倍氏)
→安倍氏に押され衰退→裏世界(草の者)
という、落人&忍者を扱う一族である。
美濃の奥はつまり隠れ「蓑」だったのである。なぜ、
美濃の「浪人」だったとされる光秀が有職故実に通じてたか、
歴史学者の先生方は気にも留めない。ここで、
話が前後するが、お福が屋敷を与えられてた北の丸には、
城外の九段に移転した築土神社という神社があった。そう、
将門を祀った神社である。ときに、現在の三井物産の一角に
カルガモ親子塚はないが「将門塚」はある。古くは
神田明神があったとされる場所である。
慶長5年(1600年相当)、天下分け目の合戦に臨んで、
家康が戦勝祈願をしたとされてる。果せるかな、
「神田祭」の当日、9月15日に関ヶ原で勝利を得る。ちなみに、
神田明神の祭は、かつて、収穫の時期である
9月15日に行われてたのである。
現在のように、5月になったのは明治時代で、
陰暦の月日をそのまま現行暦に移したために
台風の時期と重なってしまったことから
変更することになったのであり、本来、
5月では意味がないのである。5月といえば、
1840年当時のユリウス暦の5月7日は、
チャイコフスキーの誕生日である。いっぽう、
慶長20年(1615年当時)の宣明暦の5月7日は、
大阪夏の陣で徳川が最後の戦いに勝利した日である。私の先祖は、
豊臣方の有名な真田隊(もっとも、将以外は寄せ集め)ではなく、
徳川方の真田隊の一兵卒として参戦したので、いま、
私が存在してるのである(が、それも私の代で絶えようとしてる)。
先祖の殿は将軍家から霞が関に上屋敷を拝領した。
現在の経済産業省、かつての商工省があった場所である。
「オー・ソーレ・ミーオのリフィウーティ耐用日数」は私の地口である。
南畝の墓は小石川本念寺にある。現在の住居表示でいえば、
文京区白山4丁目、小石川植物園の裏である。それはさておき、
東京には上の「入谷鬼子母神」の他に、
雑司ヶ谷にも鬼子母神はある。女優の松下奈緒女史もピアノ科に通ってた
東京音大のすぐソバである。ときに、
「鬼子母神」とは、インド仏教の神である。
500乃至1000人の子を持ち、いっぽうで、
他人の子を捕え殺し食べてた。それを知った釈迦は、
同女がもっともかわいがってた末の子を隠し、
子を失う母の気持ちを悟らせた。以後、
同女は改心し、「子授かり」「安産」「子育て」の神となった、
という。とうぜんながら、「子だくさん」「豊饒」、
「家系存続」「子孫繁栄」を祈念する対象となった。さて、
日本全国にどれほど鬼子母神があるかは、
松山千春と神津善行の顔の区別もままならない愚脳な私には
とうていわからないことではあるが、上記二つに加え、
現在の千葉県、下総の中山にある「中山法華経寺」にも
鬼子母神が祀られてることだけは知ってる。ここで、
この三つは、
雑司ヶ谷鬼子母神=豊島区雑司ヶ谷3丁目15番20号
=北緯35度43分08秒(東経139度43分00秒)
入谷鬼子母神=台東区下谷1丁目12番16号
=北緯35度43分00秒(東経139度47分10秒)
中山法華経寺=市川市中山2丁目10番01号
=北緯35度43分01秒(東経139度57分05秒)
(緯度・経度はいい加減である。だいたい、である)
と、ほぼ同緯度である。1秒の差が31mだとしても、
三つの鬼子母神は南北250m内に収まってることになる。ちなみに、
チャイコフスキーの父イリヤーは鉱山技師だった。技師、
というよりは、教官あるいは管理職だったが、いずれにしても、
鉱脈発掘の測量も経度や緯度を使ってたに違いない。
私の祖父は商工省の鉱山局や燃料局の小役人だったので、残念ながら、
ダイアモンドや石油を掘り当てたりはしなかった。さて、
中山は開催中ではないのでおいといて、
江戸の二つの鬼子母神に注目すると、
雑司ヶ谷の鬼子母神から南東、そして、入谷の鬼子母神から南西、
へそれぞれ直線を引いてくと、江戸城の北の丸あたりで交わる。
逆に言えば、入谷の鬼子母神は、江戸城北の丸からは
鬼門にあたる方角だということである。それはさておき、
現在、武道館がある江戸城北の丸は、江戸時代中期以降は、
吉宗の子や孫らに与えられた家、
田安家、清水家の屋敷が置かれてた。が、
それ以前には、斉藤福の城内屋敷があったのである。
第3代将軍家光は、両親が秀忠・お江与でなく、
父が家康であるか天海であるかはともかく、少なくとも、
母が斉藤福であったことはほぼ間違いないことである。
そのお福が「我が子」家光の「子安」を祈ったことは
想像に難くない。ちなみに、
家光の長男(のちの第4代将軍家綱)も幼名が
「竹千代」であったことに、お福や家光の「気持ち」が現れてる。
それはともかくも、上記二つの江戸の鬼子母神のうち、
入谷の鬼子母神はお福の死後に祀られたものではある。ただし、
この二つを直線で結んだ中点には、現在、東大附属の
「小石川植物園」があるのである。前身は、第8代将軍吉宗が築いた
「小石川養生所」である。そこは、
「小石川御薬園」の敷地内である。
家光が病に倒れたとき、お福は「我が子」の救命と引き換えに
自らは一生薬断ちをすると誓い、神仏に祈願した。この、
「小石川御薬園」は、さらにその前は、お福の孫のひとり綱吉が
まだ一介の「舘林殿」だった頃の屋敷だったとこである。
「小石川御殿」とか、白山神社が祀られてたので、
「白山御殿」とか呼ばれてた屋敷である。ときに、
白山神社は神社ながら比叡山(天台宗)と関係が深い。そして、
現在でも「岐阜県に多く展開」されてる、という具合である。また、
白山神社があるところ、そこには、書いたり言ったりすることが
タブーとされてるゾウンが存在してたのである。
明智光秀の奥方は同じく美濃の妻木氏の出である。
妻木氏は「勘解由」、つまり、
賀茂氏→勘解由小路家(陰陽道の暦係)(←→安倍氏)
→安倍氏に押され衰退→裏世界(草の者)
という、落人&忍者を扱う一族である。
美濃の奥はつまり隠れ「蓑」だったのである。なぜ、
美濃の「浪人」だったとされる光秀が有職故実に通じてたか、
歴史学者の先生方は気にも留めない。ここで、
話が前後するが、お福が屋敷を与えられてた北の丸には、
城外の九段に移転した築土神社という神社があった。そう、
将門を祀った神社である。ときに、現在の三井物産の一角に
カルガモ親子塚はないが「将門塚」はある。古くは
神田明神があったとされる場所である。
慶長5年(1600年相当)、天下分け目の合戦に臨んで、
家康が戦勝祈願をしたとされてる。果せるかな、
「神田祭」の当日、9月15日に関ヶ原で勝利を得る。ちなみに、
神田明神の祭は、かつて、収穫の時期である
9月15日に行われてたのである。
現在のように、5月になったのは明治時代で、
陰暦の月日をそのまま現行暦に移したために
台風の時期と重なってしまったことから
変更することになったのであり、本来、
5月では意味がないのである。5月といえば、
1840年当時のユリウス暦の5月7日は、
チャイコフスキーの誕生日である。いっぽう、
慶長20年(1615年当時)の宣明暦の5月7日は、
大阪夏の陣で徳川が最後の戦いに勝利した日である。私の先祖は、
豊臣方の有名な真田隊(もっとも、将以外は寄せ集め)ではなく、
徳川方の真田隊の一兵卒として参戦したので、いま、
私が存在してるのである(が、それも私の代で絶えようとしてる)。
先祖の殿は将軍家から霞が関に上屋敷を拝領した。
現在の経済産業省、かつての商工省があった場所である。
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