チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「三島の首と辞世二首/ハラキリから40年(第1巻)」

2010年11月25日 01時51分56秒 | 歴史ーランド・邪図
昭和45年(1970年)11月25日は、作家三島由紀夫(1925-1970)が
自ら作った「楯の会」のメンバー4人を率いて
陸上自衛隊市ケ谷駐屯地(現在の防衛省)を訪問し、
総監に面談した際に愛刀「関の孫六」を見せた直後、
総監を縛り上げて室を"占拠"し、そのバルコニーから
憲法改正とそのための決起を訴える演説を自衛官らにしてから、
室に戻って切腹し、部下の会員に介錯させて果てた日である。ちなみに、
「バルコニー」という名称はこのときから一般的になった。ともかく、
ノーベル文学賞候補といわれ、世界、とくに白人社会にも
「インテリが読むポルノ」として実際に名が知られてた人気作家である。それが、
「ハラキリ」で自害したのだから、少なからず波紋を呼んだ。
三島がこの尾張徳川藩上屋敷跡地を死に場所に選んだのは、
そこが陸自の東部方面総監部(当時)だっただけではない。
「極東軍事裁判」が開かれたところだったからである。

この行動が何らかの影響を現在の日本に与えてるかといえば、
ほとんどなかったと言わざるを得ない。なぜなら、
劣る阿呆にヒール阿呆、同じ阿呆なら入れなきゃ損そんとばかりに、
"悪意を込めた誤訳語"「暴力装置」などと故意に自衛隊を呼び捨て、
これまでの日本を蔑視し、中国に媚びへつらい、
日本を亡きものにせんとするマルクス・レーニン主義思想かぶれな輩を
何度も国会議員に選出してきた徳島市民のようなのが
分厚い顔をして脳天気にのうのうと生活してるのである。

当時私は12歳だった。その頃、私は
「切腹」に関心を持っていた。三島由紀夫と俳優の三島雅夫の
区別もよくつかなかった拙脳なる私なりにも、
「切腹」についてはかなり調べていた。10歳のときには、
"赤穂義士"の切腹について当時手に入る文献をあたった。ともあれ、
三島の作品も解らないながらも新潮文庫で出てるものは
ひととおり本棚に揃えてた時期だった。だから、
この事件をTVで見て、おおいに衝撃を受けた。ただ、
私は男色の気はまったくないし、その作品にもなじまず、
それ以上の思い入れは芽生えなかった。三島の作品を
ひととおり読み終えたのはそれから5年もあとのことである。
私にはまったくつまらないものばかりだった。

辞世といわれる次の短歌二首も、素人並のものである。
「武士」として死にたかったのかもしれないが、そもそも、
現代人が短歌を詠むなんてこと自体ナンセンスなのである。
現代人が「調性音楽を"作曲"する」のと同じくらい。

[散るを厭ふ、世にも人にも、先駆けて、散るこそ花と、吹く小夜嵐]
[益荒男が、たばさむ太刀の、鞘鳴りに、幾とせ耐へて、今日の初霜]

載せといて拙大意も附さずコメントもしないというのもオバカではあるが、
コメントのしようがないほど「歌としては」低レヴェルである。そして、
当時、一部報道が新聞掲載し、あるいは、流された現場写真で、
介錯によって刎ねられた首と首なし死体が転がってる
総監室の光景は、小学生の私にはけっこう衝撃だった。が、
その晒し首のような三島の首の顔は、
上記の二首のお粗末な短歌同様、ミジメとしか言いようがなかった。が、
その憐れさは、実は三島自身が意図したものだったにちがいない、
と思うようになったのは、もっとあとのことだった。

三島は父方の出自のタブーを負い目に感じてた。
曾祖父太吉は現在の兵庫県加古川市で、
農民の倅として生まれた。御禁制の【鶴】を射て
「所払い」に処された。そして、
塩田の水番となり、小銭を貯めて金貸しを始めた。
そうして富を蓄え、【つる】という名の女性を娶り、
倅二人を塾に通わせ(江戸時代末期から明治にかけてのことである)、
明治になって平岡を名乗り、ついには、
倅二人を東京の学校に通わせる。長男は弁護士に、
次男(三島の祖父)は内務省に入省し、
福島県知事・樺太庁長官にまで出世した。が、
この三島の祖父は躓いた。
汚職嫌疑、アヘン密売による政治資金作り、詐欺、など。
莫大な借財・差押・家屋敷の売却という憂き目を見た
「平岡家」に三島は生まれたのである。
父梓は東大出だが、その出自を疎まれて、
大蔵省の面接官にはねられ、しかたなく、
農商務省の官僚になった。その劣等感から、
倅公威(三島)に対して東大法学部→大蔵省を
至上命令としたのである。

そんな出自の負い目に加え、さらに三島は、
自身の体躯と不器用さに切実な劣等感を抱いてた。ちなみに、
一部に誤解てるような極端な短躯というわけでなく、
体躯の劣等感とは、やせっぽち、という意味である。解剖所見では、
身長は163cm。大正14年生まれの日本人男性としては、
平均をやや上回るほどの数字である。ともあれ、
胃腸が弱く、食べ物はお茶漬けが好物で、他には
オニオン・グラタン・スープ、マドレーヌ、などという、
「男っぽくない」ものが好きだったらしい。長じてからは、
それを糊塗するために、好物はビフテキ、と答えたという。
やはり長じてからボディビルディング、剣道、居合、ボクスィングなど、
「力」「強さ」への希求に血道を上げた。これには、
正真正銘武士の娘である祖母からの偏狭な躾が、
三島の劣等感に拍車をかけ、追い込んだことが禍してる。
祖母は三島に、
"男の子らしい遊びはさせず女言葉を使わせ"
たのだという。
子供の頃の三島は猫が大好きだったそうである。
猫以外に「他人支配」できる相手がいない弱者だった。また、
父親には三島のカニ嫌いをおちょくってた様子が窺える。が、
おそらく三島はカニ・アレルギーがあったのだろう。
アレルギーを「根性無し」「めめしい」と決めつけられては、
かわいそう、あわれ、としか言いようがない。

作家となることでしか生きれなかったのである。
私が子供心に三島の小説に不快感を抱いたのは、つまるところ、
三島作品がマーラーやショスタコーヴィチの音楽に通じる、
強烈な劣等感の補償行為だったからである。いずれにせよ、
そんな動機で始めたものには限界がくる。それが、
自刃だったのである。しかし、そこにも三島は補償を引きずった。
先祖は処理するほうだったが、今度は、
自身が「もののふ」として腹をかっさばき、介錯人に頸を刎ねられ、
首と首なしになって「処理される」側になったのである。
慶大病院法医学解剖室で解剖に附された三島の胃には、
コンニャクが残ってたという。

ところで、
太平洋戦争のとき、それ以前からの研究を引き継いで、
帝国陸軍が開発した「兵器」に、
いわゆる「風船爆弾」というものがあった。別名、
「こんにゃく爆弾」。これは、
コウゾを漉いて作られた薄い和紙を5枚重ねにして
コンニャク糊で貼り合わせて作られた直径10mほどの球体で、
その中に水素が充填されてるものである。これを、
偏西風に乗せてアメリカ本土に"着弾"させた、のである。
10000発が作られ、そのうち9300発が飛ばされ、
1000発ほどがアメリカ本土に到達したという。
スミソニアンに保管されてる現在もその
コンニャク貼りの和紙は劣化してないそうである。
この製造にかりだされたのは女子学生だった。
製造中の事故で6名が亡くなったそうである。米国は、
そんなふうに万難(マンナンではなくバンナン)を排して作られた
風船爆弾の風船が紙製であることはすぐに判ったが、
その紙を貼り合わせている接着剤がコンニャクであることは
解明できなかったという。
アメリカが被害状況を秘匿したので、
オレゴン州で6名が落命したことと、
長崎に落とされた原爆のプルトニウムを精製してた
ワシントン州の軍需工場を3日間停電させたこと、
しか明らかではない。が、
こんな原始的な兵器ではあるものの、
実質的な被害はともかく心理的効果は
それなりにあったという。
白人にはこの一見稚拙に思われるが、高度調節装置など
効率的に工夫された日本人の知恵がウザかったのである。また、
これは正真正銘の史上初の大陸間弾道弾だった。
この風船爆弾製造・使用は、
「ふ号作戦」と呼ばれてたらしい。
三島の決起は自衛隊隊員には受け入れられなかったが、
その腹に残したものは、それなりの心的効果を社会に及ぼした。
二つのコンニャクは妙な符合である。
(時間が遅くなってしまったので、この続きはまた)
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