さて、
三島の辞世の歌二首のうちのひとつ、
[益荒男が、たばさむ太刀の、鞘鳴りに、幾とせ耐へて、今日の初霜]
であるが、この歌には「技巧」「修辞」が施されてる。
そんな技巧を凝らさなければならなかったからこそ、
歌としてのレヴェルは低いのである。
【折句】
この歌の語句をすべて仮名に開くと、
[マすらをが、タばさむたちの、サやなりに、イくとせたへて、ケふのはつしも]
である。が、(現代短歌であるからとくに)「実際の音」にすれば、
[マすらおが、タばさむたちの、サやなりに、イくとせたえて、キょうのはつしも]
【マタサイキ】
という言葉が折り込まれてることが判る。
【マタサイキ】=【また再帰】
三島は自決の日、馬込の自宅でお手伝いさんに
「豊饒の海4部作」の「新潮」連載中の第4部「天人五衰」の最終稿を託し、
市谷へと発ってった。この最後の連作は、
三島が取り憑かれてた「輪廻転生願望」をベイスにしてる。つまり、
「再帰」を願ったのである。
「天人五衰」のエピローグ。
本多が83歳になってる綾倉伯爵家令嬢聡子を月修院に訪ねる場面である。
60年前に聡子が愛し別れたのち、皇族とコンヤクした身でまた
不貞の子を宿し堕胎・剃髪したその相手、
松枝清顕のことを本多は話そうとしたのである。ところが、
[「いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。
しかし、松枝清顕さんという方は、お名前を聞いたこともありません。
そんな方は、もともとあらしやらなかったのとちがいますか?
なにやら本多さんが、あるように思うておられて、実ははじめから、
どこにもおられなんだということではありませんか?」]
という言葉が返ってきたのだった。そして、この大河ドラマの最後。
[これと云って奇功のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。
数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
そのほかには何ひとつ音とてなく、寂莫を極めている。
この庭には何もない。
記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりを浴びてしんとしている]
これがつまり「豊饒の海」なのである。
海といったってH2Oがあるわけではない。
玄武岩で覆われた月の平原である。
「何もない」のである。
「もともとあらしやらなかった」のである。ちなみに、
この[あらしやらなかった]の[あらし]が、
辞世二首のうちのひとつの結句、
[吹く小夜嵐]の[あらし]と掛けられてるのである。ともあれ、
はじめから何もなかった……
三島は自分の生を御破算、クリア、リセット、
pokerの無役の手札を全取っ替え、したかったのである。
いっぽうで、
この「境地」は、芭蕉の俳句の世界でもある。
[数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
そのほかには何ひとつ音とてなく]は、
[閑さや。岩にしみ入る、蝉の声]
の散文版である。
芭蕉は源氏の義仲に憧れた。かたや、
三島には祖母の旗本永井家が入ってもいる。つまりは、
源氏三好家の血が流れてたのである。
ところで、
[益荒男が、たばさむ太刀の、鞘鳴りに、幾とせ耐へて、今日の初霜]
の結句の「初霜(はつしも)」に含まれる「はつし」という音は、
和歌の技巧のひとつである「物名(もののな)」である。
「はつし」は「はっし」。丁々発止の発止である。この発止とは、
硬い物同士がぶつかるときの擬音であり、転じて、
相手の太刀を鍔で受け止める、つまり、
真剣勝負をする、という意味である。三島の場合、
この短歌に込めた意味は、
腹かっさばいたのち、介錯の刃を頸にハッシと受ける、
というものである。
ともあれ、
物名といえば、藤原輔相(ふじわら・の・すけみ)である。
号は【藤六】。
拾遺和歌集には輔相の物名歌が37首採られてる。その一つ。
(巻第七-0399 こにやく)
[野を見れば、春めきにけり。青つづら、籠にや組ままし、若菜摘むべく]
この第4句の[かゴニヤグまし]に、
「コニヤク」=「蒟蒻(コンニャク)」が詠まれてるのである。
いっぽうで、
芭蕉にもコンニャクを詠んだ句がある。
[こにやくの、刺身も些し。うめの花]
元禄6年に向井去来宅で客死した図司呂丸を悼む手紙に添えられた句、
とのことである。「蒟蒻の刺身」とは、
伊賀で供物にする食べ物なのだという。ともあれ、
芭蕉は蒟蒻が好物だった。
蒟蒻は「砂おろし」「胃の箒」と言われて、
腸内をきれいにする食物と思われてたのである。
解剖に附された三島の胃にはコンニャクが残ってたという。
三島らの"最後の晩餐"は新橋の「末げん(すえげん)」だったそうである。
そのとき「今夜食うか」「こんにゃくうか」といって摂取したのかどうか、
三島がブランデーのコニャックが好きだったかどうかは、
「すえげん食わぬは男の恥」という諺があったかどうか判らない
拙脳なる私が知るべくもないが、
「困厄(コンヤク)」という語呂合わせで、コンニャクを閻魔さまに奉じて、
苦難・災難の厄除けにした、という迷信もあるのである。いずれにせよ、
三島の胃の中のコンニャクは、
胃が(伊賀)蒟蒻、→芭蕉の句の供物、
という意味だったのだと私は思ってしまうのである。
それにしても、
設定・文章・思想の荒唐無稽さはともかく、
三島の「何もなかったことに」という境地には、
涙が出るほど激しく心動かされるものである。が、
まともに転生を信じてたのだとしたら、
そこに三島の限界がある。オカルトの類は、
道理が解らない凡人の思考だからである。いずれにせよ、
三島は所詮、凡人である。たとえそれが偽装であろうと、
一般人のように家庭を持ち、子を残してしまったからである。
三島の辞世の歌二首のうちのひとつ、
[益荒男が、たばさむ太刀の、鞘鳴りに、幾とせ耐へて、今日の初霜]
であるが、この歌には「技巧」「修辞」が施されてる。
そんな技巧を凝らさなければならなかったからこそ、
歌としてのレヴェルは低いのである。
【折句】
この歌の語句をすべて仮名に開くと、
[マすらをが、タばさむたちの、サやなりに、イくとせたへて、ケふのはつしも]
である。が、(現代短歌であるからとくに)「実際の音」にすれば、
[マすらおが、タばさむたちの、サやなりに、イくとせたえて、キょうのはつしも]
【マタサイキ】
という言葉が折り込まれてることが判る。
【マタサイキ】=【また再帰】
三島は自決の日、馬込の自宅でお手伝いさんに
「豊饒の海4部作」の「新潮」連載中の第4部「天人五衰」の最終稿を託し、
市谷へと発ってった。この最後の連作は、
三島が取り憑かれてた「輪廻転生願望」をベイスにしてる。つまり、
「再帰」を願ったのである。
「天人五衰」のエピローグ。
本多が83歳になってる綾倉伯爵家令嬢聡子を月修院に訪ねる場面である。
60年前に聡子が愛し別れたのち、皇族とコンヤクした身でまた
不貞の子を宿し堕胎・剃髪したその相手、
松枝清顕のことを本多は話そうとしたのである。ところが、
[「いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。
しかし、松枝清顕さんという方は、お名前を聞いたこともありません。
そんな方は、もともとあらしやらなかったのとちがいますか?
なにやら本多さんが、あるように思うておられて、実ははじめから、
どこにもおられなんだということではありませんか?」]
という言葉が返ってきたのだった。そして、この大河ドラマの最後。
[これと云って奇功のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。
数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
そのほかには何ひとつ音とてなく、寂莫を極めている。
この庭には何もない。
記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりを浴びてしんとしている]
これがつまり「豊饒の海」なのである。
海といったってH2Oがあるわけではない。
玄武岩で覆われた月の平原である。
「何もない」のである。
「もともとあらしやらなかった」のである。ちなみに、
この[あらしやらなかった]の[あらし]が、
辞世二首のうちのひとつの結句、
[吹く小夜嵐]の[あらし]と掛けられてるのである。ともあれ、
はじめから何もなかった……
三島は自分の生を御破算、クリア、リセット、
pokerの無役の手札を全取っ替え、したかったのである。
いっぽうで、
この「境地」は、芭蕉の俳句の世界でもある。
[数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
そのほかには何ひとつ音とてなく]は、
[閑さや。岩にしみ入る、蝉の声]
の散文版である。
芭蕉は源氏の義仲に憧れた。かたや、
三島には祖母の旗本永井家が入ってもいる。つまりは、
源氏三好家の血が流れてたのである。
ところで、
[益荒男が、たばさむ太刀の、鞘鳴りに、幾とせ耐へて、今日の初霜]
の結句の「初霜(はつしも)」に含まれる「はつし」という音は、
和歌の技巧のひとつである「物名(もののな)」である。
「はつし」は「はっし」。丁々発止の発止である。この発止とは、
硬い物同士がぶつかるときの擬音であり、転じて、
相手の太刀を鍔で受け止める、つまり、
真剣勝負をする、という意味である。三島の場合、
この短歌に込めた意味は、
腹かっさばいたのち、介錯の刃を頸にハッシと受ける、
というものである。
ともあれ、
物名といえば、藤原輔相(ふじわら・の・すけみ)である。
号は【藤六】。
拾遺和歌集には輔相の物名歌が37首採られてる。その一つ。
(巻第七-0399 こにやく)
[野を見れば、春めきにけり。青つづら、籠にや組ままし、若菜摘むべく]
この第4句の[かゴニヤグまし]に、
「コニヤク」=「蒟蒻(コンニャク)」が詠まれてるのである。
いっぽうで、
芭蕉にもコンニャクを詠んだ句がある。
[こにやくの、刺身も些し。うめの花]
元禄6年に向井去来宅で客死した図司呂丸を悼む手紙に添えられた句、
とのことである。「蒟蒻の刺身」とは、
伊賀で供物にする食べ物なのだという。ともあれ、
芭蕉は蒟蒻が好物だった。
蒟蒻は「砂おろし」「胃の箒」と言われて、
腸内をきれいにする食物と思われてたのである。
解剖に附された三島の胃にはコンニャクが残ってたという。
三島らの"最後の晩餐"は新橋の「末げん(すえげん)」だったそうである。
そのとき「今夜食うか」「こんにゃくうか」といって摂取したのかどうか、
三島がブランデーのコニャックが好きだったかどうかは、
「すえげん食わぬは男の恥」という諺があったかどうか判らない
拙脳なる私が知るべくもないが、
「困厄(コンヤク)」という語呂合わせで、コンニャクを閻魔さまに奉じて、
苦難・災難の厄除けにした、という迷信もあるのである。いずれにせよ、
三島の胃の中のコンニャクは、
胃が(伊賀)蒟蒻、→芭蕉の句の供物、
という意味だったのだと私は思ってしまうのである。
それにしても、
設定・文章・思想の荒唐無稽さはともかく、
三島の「何もなかったことに」という境地には、
涙が出るほど激しく心動かされるものである。が、
まともに転生を信じてたのだとしたら、
そこに三島の限界がある。オカルトの類は、
道理が解らない凡人の思考だからである。いずれにせよ、
三島は所詮、凡人である。たとえそれが偽装であろうと、
一般人のように家庭を持ち、子を残してしまったからである。
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