チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「明保野亭事件から150年/京都守護職と金戒光明寺と会津小鉄」

2014年07月13日 18時04分16秒 | 歴史ーランド・邪図
新撰組は池田屋事件の残党捕縛を京都守護職(幕府)から命じられた。
同事件の5日後に、聖護院で雑役をしてた2人が捕らえられ、
その自供から東山の料亭「明保野亭(あけぼのてい)」には
長州藩士および同藩浪士が出入りしてて現在は
20人ほどが潜伏してるという情報が上がった。
新撰組は池田屋事件で死傷者を出したため、
京都守護職である会津藩主松平容保は
自藩から5名の応援を附けた。
新撰組15名との合同で明保野亭へ捕縛に赴いた。
そうして同亭の1階を捜索したのだったが、
長州藩の連中は見つからなかった。が、
2階の座敷にいた者が2人、2階から庭先に逃げた。
新撰組の武田観柳斎は階下にいた
会津の応援隊に「逃がすな!」と声をかけた。
会津藩士柴司(しば・つかさ)が1人を垣根に追い詰めた。
柴は手槍を突いた。
突かれて負傷したため、逃亡者はやっと
「拙者は長州の浪人ではないぜよ。
土佐藩士麻田時太郎と申す」
と名乗った。捕縛方が土佐藩に照合した結果、
本人と確認が取れたため、土佐藩に引き渡した。

会津藩は柴への尋問を済ませ、
正当な職務遂行で問題なしとの結論を出した。そして、
土佐藩邸に見舞の使者を医師を随行させて送った。
土佐藩側は医師の手当てを受け入れ、また、使者に対しても
名乗らず逃亡した麻田に落ち度があることであり、
殊勝な態度だった。が、翌日、
再び医師を遣わすと、今度は一転して診療を拒んだのである。
逃走しようとして、武士として恥ずべき後ろ疵を受けたのだから
手当には及ばない、との屁理屈だった。

麻田は藩から咎められ、切腹処分となったのである。
土佐藩自体はこの時点で山内容堂が公武合体論者だったため、
佐幕派だった。が、中には狂信的な
倒幕派もウヨウヨしてたのである。
会津藩にも責任を取らせろだの、
会津藩の陣や新撰組の屯所に討ち入ろうだの、
不平藩士の突き上げが高まってしまった。それはともかく、
正当な任務を遂行した柴には本来、
なんの落ち度も責任もなかった。が、短慮だったことはともあれ、
土佐藩が麻田に腹を切らせてしまったことで、
"武家の世界"においては
事を丸く収めることが不可能になってしまったのである。
土佐藩としても麻田に腹を切らせるのが
"武士の筋"だったのである。そうすると、
片方が腹を切ったのだからもう一方も腹を切らなくては、
"武家の筋"が立たなくなる。
筋違いではあっても"喧嘩両成敗"という武家の掟が
前面に押し出された形になってしまったのである。

一旦問題なしと処断した以上(一事不再理)、
松平容保は柴に切腹を命じることはできない。かといって、
藩のために死んでくれ、とも無実の者に言うこともできなかった。
そうした"空気"を察した柴は兄に相談して、
自ら進んで死ぬことを決めたのである。
兄の介錯で21歳の柴は首と胴体が離れた"罪人"の遺骸となった。

こうした"理不尽"と一般人には思われるかもしれないのが
"武家の道理"なのである。たとえ、
土佐藩の判断が愚かだったとはいえ、そうした短慮は本質的ではない。
とくに現在の左翼思想の者にはけっして認められない思考なのである。

ちなみに、
京都守護職に任じられた会津藩主松平容保がその陣としてたのが
金戒光明寺である。その立地から
「黒谷」とも呼ばれてた。そして、その会津藩の
中間だったのが、のちに侠客となる上坂仙吉である。
そういった縁から会津小鉄と名乗ったのである。
金戒光明寺墓所には現在も、柴司をはじめとして
会津藩士352名の墓、そして、
初代会津小鉄の墓もある。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「池田屋事件から150年」 | トップ | 「ロリン・マゼールの死にあ... »

コメントを投稿

歴史ーランド・邪図」カテゴリの最新記事