元治元年6月5日は、
今日から150年前の日にあたる。
その日の朝に、古道具屋を装った倒幕シンパの武器弾薬商人
古高俊太郎が新撰組に捕らえられた。
事件計画を疑った新撰組が尋問するも口を割らなかったので
土方が拷問を加えてゲロさせた。新撰組によると、
長州藩を中心とした倒幕派が
佐幕派公家の監禁、幕府方大名数名の暗殺、天皇拉致、
という同時多発テロを画策してることが判明した。同日夜、
京都の三条木屋町の旅館池田屋に集まって善後策を討議し、
新撰組屯所へ討ち入って古高奪還を画してた
長州藩や土佐藩などの藩士や浪士の倒幕派らが、逆に
新撰組に"御用改め"されてしまったのである。
新撰組は倒幕派の会合潜伏場所として二、三か所に山を張り、
三手に分かれて探索した。結果、
近藤・沖田・永倉という組内でも屈指の剣の使い手が多くいた
近藤組の10人余が担当した池田屋がビンゴだった。
のちの新撰組方の話としては、諸説あるが、
池田屋内に入ってったのは、
近藤、沖田、永倉、藤堂、の4名、
その他は池田屋の正面と裏での見張りとされてる。
倒幕派らは二階に集結してたが、二階に上がってったのは
近藤と沖田の二人だけである。近藤が、
「御用改めである。手向かうなら切り捨てる」
というような通告をいちおうした。実際には、
相手が斬りかかってくるとしか思ってなかったのだが。
倒幕派ら十数名のうち、半分ほどが外に逃げ出したという。が、
その他半分は斬りかかってきたのである。
現在の夜10時すぎの暗がりの中で長い斬り合いが始まった。結局、
鎖帷子を着てた新撰組によって
倒幕派の5人がその場で斬られて落命した。
逃亡しながらも途中で追いつかれて斬られたり、
深傷を負って自害した者があと数人。
新撰組方は、裏の見張りの3名が、
二階から逃亡してきた者に斬られて深傷を負い、のちに死亡した。
沖田は労咳で喀血し、藤堂は額を斬られ、永倉は右手甲に疵を負ったが、
池田屋内で斬り合った新撰組4名に死亡者はなかった。
池田屋内での騒動が収まったあとも、
テロ計画に加担した関係者20数人が
捕らえられあるいは斬られ、または刑死した。そして、
この騒動はそれだけでは済まず、5日後には、
明保野亭での倒幕派長州藩浪士捜索が佐幕同士であるはずの
会津藩と土佐藩との諍い・面子による事件に発展してしまう。
長州藩士らはますます徳川幕府と幕府方への恨みと憎しみを増大させ、
禁門の変、第一次長州征伐、薩長同盟、大政奉還、と、
怒濤の幕末へと進んでったのである。
こうした長州藩士らが中心となって作った明治政府の
司法・立法・行政組織構造が
対米英対戦を経てその敗戦国となった現在も基本的には続いてるのである。
今日から150年前の日にあたる。
その日の朝に、古道具屋を装った倒幕シンパの武器弾薬商人
古高俊太郎が新撰組に捕らえられた。
事件計画を疑った新撰組が尋問するも口を割らなかったので
土方が拷問を加えてゲロさせた。新撰組によると、
長州藩を中心とした倒幕派が
佐幕派公家の監禁、幕府方大名数名の暗殺、天皇拉致、
という同時多発テロを画策してることが判明した。同日夜、
京都の三条木屋町の旅館池田屋に集まって善後策を討議し、
新撰組屯所へ討ち入って古高奪還を画してた
長州藩や土佐藩などの藩士や浪士の倒幕派らが、逆に
新撰組に"御用改め"されてしまったのである。
新撰組は倒幕派の会合潜伏場所として二、三か所に山を張り、
三手に分かれて探索した。結果、
近藤・沖田・永倉という組内でも屈指の剣の使い手が多くいた
近藤組の10人余が担当した池田屋がビンゴだった。
のちの新撰組方の話としては、諸説あるが、
池田屋内に入ってったのは、
近藤、沖田、永倉、藤堂、の4名、
その他は池田屋の正面と裏での見張りとされてる。
倒幕派らは二階に集結してたが、二階に上がってったのは
近藤と沖田の二人だけである。近藤が、
「御用改めである。手向かうなら切り捨てる」
というような通告をいちおうした。実際には、
相手が斬りかかってくるとしか思ってなかったのだが。
倒幕派ら十数名のうち、半分ほどが外に逃げ出したという。が、
その他半分は斬りかかってきたのである。
現在の夜10時すぎの暗がりの中で長い斬り合いが始まった。結局、
鎖帷子を着てた新撰組によって
倒幕派の5人がその場で斬られて落命した。
逃亡しながらも途中で追いつかれて斬られたり、
深傷を負って自害した者があと数人。
新撰組方は、裏の見張りの3名が、
二階から逃亡してきた者に斬られて深傷を負い、のちに死亡した。
沖田は労咳で喀血し、藤堂は額を斬られ、永倉は右手甲に疵を負ったが、
池田屋内で斬り合った新撰組4名に死亡者はなかった。
池田屋内での騒動が収まったあとも、
テロ計画に加担した関係者20数人が
捕らえられあるいは斬られ、または刑死した。そして、
この騒動はそれだけでは済まず、5日後には、
明保野亭での倒幕派長州藩浪士捜索が佐幕同士であるはずの
会津藩と土佐藩との諍い・面子による事件に発展してしまう。
長州藩士らはますます徳川幕府と幕府方への恨みと憎しみを増大させ、
禁門の変、第一次長州征伐、薩長同盟、大政奉還、と、
怒濤の幕末へと進んでったのである。
こうした長州藩士らが中心となって作った明治政府の
司法・立法・行政組織構造が
対米英対戦を経てその敗戦国となった現在も基本的には続いてるのである。
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