今土曜は大江戸探検隊の集いが雨天で順延になったので、
独り寂しく朝から煎餅を少し焼いた。TVをみながら。。。
NHKの「土ようマルシェ」である。それにしても、
神田愛花アナは素晴らしい。といっても、
その名のようにかんだりするのがいいのではない。
一般には失言の宝庫と言われてるらしいが、私には
心地好い「芸風」である。この3月で
同局を退社するそうである。フリーになったら、
「CMのオファー」もあるかもしれない。。。ときどき
神南の局内の食堂や喫茶室で局の人と会うのだが、
ついに同アナを一度も垣間見れなかった。ともあれ、
今日の放送では最後に、
「いま一番何がほしい?」
と徳井義実に訊かれて、
「ハイと」は返事しなかったが、
「身長」と答えてた。
♪金もいらなきゃ、女もいらぬ。
わたしゃもすこし背がほしい♪
という玉川カルテットなのである。ともあれ、番組内では
「小鳥喫茶」を取材に行ってた。そこで
鳥がケイジから店内に解き放たれて、
手乗りをさせてもらえたとき、
「触ってもいいんですか?」に続けて、
その店の女性経営者に向かって、
「お店違いますけど、お触りオッケーなんですね」
とかましてた。その鳥は当然ながら
ヤンバルクイナではなかったが、雄々しいというか、日々また
成長快調、清々しいほどである。そんないっぽうで、
めめしい政治家が民主党の政調会長にはいる。
♪ボクーのなーまえーは、ヤン坊ーっ!
キミーのなーまえーは、バー坊ーっ!
ふたーりあーわせーて、
八ツ場ーだーーー。
キーミとボークとで、
止ーめるんだーーー♪
「朝日1枚、毎日2枚、中日3枚、日経4枚、読売5枚、
聖教6枚、赤旗7枚、学級新聞8枚、瓦版9枚、……」
民主党の前原誠司政調会長の屋敷に
10枚めの産経がないのは、
女中のお菊が父の職業はホントウは家裁の庶務部職員で
妻子をのこして自殺して母が苦労したというのに
裁判官だったとウソをついたので
井戸に投げこまれてしまったからでも、
非日本人焼肉屋から不正誠司献金を受けてたわけでも、
南無阿弥陀仏をヤンバイダーと言ってたからでも、産経の言う
"言葉ばかりで結果が伴わない人"でもないらしい。
いずれにしても、
「ちっちゃい奴」である。
♪ミ(う)│<ド(し)ド(ろ)・>シ(か)<ド(ら)・・
<ミ(ま)ミ(え)・>レ(か)>ド(ら)│
●●・>シ(ど)>♯ラ(う)・・<シ(ぞ)●・●♪
畑中葉子女史のように、
うしろからでも前からでもどこからでも、
スリーサムでもokだからどんとかかってきなさい!
みたいな気概がないようでは、
たかが左翼売国・大きい政府思想でだけでは、
機関車の機関士さんにはなれない。ときどき、
タレントでも一般人でも、
「ブログ」でコメントを受けつけないのとか、
メンバーだけにしか投稿文を公開しないのとか、
狭量なのがいるが、そういった類は一様に、
「自己主張が強く、他人に認められないことを受け入れれない」
性質を異様なほど備えてる。たとえば、
他人が親切心で誤解や過ちを教えてあげても、それを
「荒らし」「悪意」として退ける。
自分が間違ったことを指摘されることを、
いたくプライドを傷つけられたととるのである。
こういう類の心理・行動というのは手に取るように解りやすい。
「すべてなかったことに」してしまいたい、してしまう、
「リセット」「ディリート」症候群の傾向が強いのである。だから、
自分にとって都合の悪くなった投稿や
ブログすべてを削除してしまう、なんてことをすぐにする。
ブログふぜいだからそれだけではたいした問題でもないが、
こういう類は一事が万事、同様の行為をとりやすい。つまり、
そういう行動は「ウソつき」「隠蔽体質」のなせるわざだからである。
「嘘つきは泥棒の始まり」とはよく言ったもので、
企業の諸問題の隠蔽、誣告、他人への罪のなすりつけ、殺人、といった、
重大な悪事に結びつきやすい。なにより、
「てめえのツケはてめえで払う、てめえのケツはてめえで拭う」
ということができない。
Guillaume de Machaut(ギヨム・ドゥ・マショ、1300頃-1377)の作品に、
"Ma fin est mon commencement"
という3声のRondeau(ロンド)がある。
Rondeauの形式はこの作品の詞を見れば一目瞭然である。
"Ma fin est mon commencement
et mon commencement ma fin,
Et teneure vraiement,
Ma fin est mon commencement
Mes tiers chans trois fois seulement
Se retrograde et einsi fin,
Ma fin est mon commencement
et mon commencement ma fin."
"ent"と"in"の2つの韻に、
最初の行がルフランされる。
((拙カタカナ発音)
マ・ファン・エ・モン・コモンスモン・
エ・モン・コモンスモン・マ・ファン、
トゥヌル・ヴレモン、
マ・ファン・エ・モン・コモンスモン・
メ・チエル・ション・トゥルワ・フワ・スルモン、
ス・ルトゥロガドゥ・エ・オンスィ・ファン、
マ・ファン・エ・モン・コモンスモン・
エ・モン・コモンスモン・マ・ファン。)
「(拙大意)
我が終わりは我が始まり、
我が始まりは我が終わり。
下音部(テノール)はそのままに、
我が終わりは我が始まり。
我らが第3声部は単に3回
(主声部に)逆行し、かく終わる。
我が終わりは我が始まり、
我が始まりは我が終わり。」
曲は詞の2行ずつが繰り返される。
その2行ごとのcommencement(始め)とfin(終わり)は、
【commencement】
第3声部=
♪ドー・ーー・・ーー・ーー│<レー<ミー・・ーー>・レー│
●>ド・>シ>ラ・・<レ>ド・ー>シ│●<ド・>シ>ラ・・>ソー・ーー♪
主声部=
♪ドー・ーー・・ーー・ーー│>シ>ラ・ー>ソ・・ー<ラー<シ│
<ド<ミ・>レ<ミ・・<ファ>ミ・ー>レ│>ドー<ミー・・ーー<ソー♪
テノール部=
♪(>)ドー・ーー・・ーー・ーー│<ソ>ド・ード・・ドー・<ソー│
>ドー・ーー・・<ソ<ラ・ー>ソ・・│>ドー・ーー・・ーー・ーー♪
【fin】
第3声部=
♪(<)ソー・>ミー・・ーー・>ドー│<レ<ミ・ー<ファ・・>ミ>レ・<ミ>ド│
>シ>ラ・ー>ソ・・ー<ラ・ー<シ│<ドー・ーー・・ーー・ーー♪
主声部=
♪ソー・ーー・・<ラ<シ・<ド●│>シ<ド・ー<レ・・>ラ<シ・<ド●│
<レー・<ミー・・ーー・>レー│>ドー・ーー・・ーー・ーー♪
テノール部=
♪(>)ドー・ーー・・ーー・ーー│<ソ<ラ・ー>ソ・・>ドー・ーー│
<ソー・>ドー・・ドド・ー<ソ│>ドー・ーー・・ーー・ーー♪
である。主声部が、
"Ma"~~~~~~と、マノビしたような詞で歌うが、
歌詞自体がこの音楽の構造を歌ってるのである。ともあれ、
この音楽は英語でいう"palindrome(パリンドロウム)"、つまり、
「回文」となってる。まさに、
魔性(マショウ)の音楽といえよう。のちには、
音楽という手段を用いて策を弄することばかりして、
風雅な遊びを楽しんでたヨーハン・セバスチャン・バッハが、
フリードリヒ大王に与えられたとされる節をもとに作曲したという
「音楽の捧げもの」において、「かに道楽カノン」のレシピを示した。
♪ラーーー・<ドーーー│<ミーーー・<ファーーー│
>♯ソーーー・●●<ミー│>♯レーーー・>Nレーーー│
>♯ドーーー・>Nドーーー│ーー>シー・>♭シー>ラー│
>♯ソー>♯ファ>ミ・<ラー<レー│>ドーーー・>シーーー│>ラー♪
その後、やはり
音楽に冗談を持ち込む傾向が強かったパパ・ハイドンが、
「交響曲第47番」の第3楽章のメヌエットを、トリオも含めて回文で作った。
♪ドー・ーー・ーー、│>シー・ソー、<レー、│
>ドーッ、・<レーッ、・<ミーッ、│<ファー・ーー・ーー♪
という冒頭に対して、
♪ファー・ーー・ーー、│>ミーッ、・>レーッ、・>ドーッ、│
<レー、・>ソー・<シー、│ドー・ーー・ーー♪
という終いである。冗談といえば、
モーツァルトである。ご多分に漏れず、
「楽譜を上からと同時に反対側の下から見てもいっしょに奏せる」
という形でその遊び心を満たした。2曲ある。
「音楽の冗談」とか「鏡」とか呼ばれてる。
上段からでも下段からでもどうぞ、というわけだが、
真作かどうか疑わしい。また、楽聖ベートーヴェンも、
「ハンマークラヴィーア・ソナータ」の第4楽章に回文を採り入れた。といっても、
音楽の質を落として全体を回文とするような、
バッハらのようにはしなかったが、
「3声のフーガ」ということで部分的に
「回文」を採り入れた、のである。ただ単に
「鏡」「蟹」構造にしたのではなく、さらに
「ひねり」が加えられてる。ラフマニノフの
「パガニーニ・ラプソディ」の第18変奏が
ちゃちにさえ思えてしまう。当然ながら、
音楽自体の出来映えが他者とは一線を画して、
見事というしかないほど素晴らしい。やっぱり、
ベートーヴェンは作曲家の最高峰、
「鑑」なのである。
独り寂しく朝から煎餅を少し焼いた。TVをみながら。。。
NHKの「土ようマルシェ」である。それにしても、
神田愛花アナは素晴らしい。といっても、
その名のようにかんだりするのがいいのではない。
一般には失言の宝庫と言われてるらしいが、私には
心地好い「芸風」である。この3月で
同局を退社するそうである。フリーになったら、
「CMのオファー」もあるかもしれない。。。ときどき
神南の局内の食堂や喫茶室で局の人と会うのだが、
ついに同アナを一度も垣間見れなかった。ともあれ、
今日の放送では最後に、
「いま一番何がほしい?」
と徳井義実に訊かれて、
「ハイと」は返事しなかったが、
「身長」と答えてた。
♪金もいらなきゃ、女もいらぬ。
わたしゃもすこし背がほしい♪
という玉川カルテットなのである。ともあれ、番組内では
「小鳥喫茶」を取材に行ってた。そこで
鳥がケイジから店内に解き放たれて、
手乗りをさせてもらえたとき、
「触ってもいいんですか?」に続けて、
その店の女性経営者に向かって、
「お店違いますけど、お触りオッケーなんですね」
とかましてた。その鳥は当然ながら
ヤンバルクイナではなかったが、雄々しいというか、日々また
成長快調、清々しいほどである。そんないっぽうで、
めめしい政治家が民主党の政調会長にはいる。
♪ボクーのなーまえーは、ヤン坊ーっ!
キミーのなーまえーは、バー坊ーっ!
ふたーりあーわせーて、
八ツ場ーだーーー。
キーミとボークとで、
止ーめるんだーーー♪
「朝日1枚、毎日2枚、中日3枚、日経4枚、読売5枚、
聖教6枚、赤旗7枚、学級新聞8枚、瓦版9枚、……」
民主党の前原誠司政調会長の屋敷に
10枚めの産経がないのは、
女中のお菊が父の職業はホントウは家裁の庶務部職員で
妻子をのこして自殺して母が苦労したというのに
裁判官だったとウソをついたので
井戸に投げこまれてしまったからでも、
非日本人焼肉屋から不正誠司献金を受けてたわけでも、
南無阿弥陀仏をヤンバイダーと言ってたからでも、産経の言う
"言葉ばかりで結果が伴わない人"でもないらしい。
いずれにしても、
「ちっちゃい奴」である。
♪ミ(う)│<ド(し)ド(ろ)・>シ(か)<ド(ら)・・
<ミ(ま)ミ(え)・>レ(か)>ド(ら)│
●●・>シ(ど)>♯ラ(う)・・<シ(ぞ)●・●♪
畑中葉子女史のように、
うしろからでも前からでもどこからでも、
スリーサムでもokだからどんとかかってきなさい!
みたいな気概がないようでは、
たかが左翼売国・大きい政府思想でだけでは、
機関車の機関士さんにはなれない。ときどき、
タレントでも一般人でも、
「ブログ」でコメントを受けつけないのとか、
メンバーだけにしか投稿文を公開しないのとか、
狭量なのがいるが、そういった類は一様に、
「自己主張が強く、他人に認められないことを受け入れれない」
性質を異様なほど備えてる。たとえば、
他人が親切心で誤解や過ちを教えてあげても、それを
「荒らし」「悪意」として退ける。
自分が間違ったことを指摘されることを、
いたくプライドを傷つけられたととるのである。
こういう類の心理・行動というのは手に取るように解りやすい。
「すべてなかったことに」してしまいたい、してしまう、
「リセット」「ディリート」症候群の傾向が強いのである。だから、
自分にとって都合の悪くなった投稿や
ブログすべてを削除してしまう、なんてことをすぐにする。
ブログふぜいだからそれだけではたいした問題でもないが、
こういう類は一事が万事、同様の行為をとりやすい。つまり、
そういう行動は「ウソつき」「隠蔽体質」のなせるわざだからである。
「嘘つきは泥棒の始まり」とはよく言ったもので、
企業の諸問題の隠蔽、誣告、他人への罪のなすりつけ、殺人、といった、
重大な悪事に結びつきやすい。なにより、
「てめえのツケはてめえで払う、てめえのケツはてめえで拭う」
ということができない。
Guillaume de Machaut(ギヨム・ドゥ・マショ、1300頃-1377)の作品に、
"Ma fin est mon commencement"
という3声のRondeau(ロンド)がある。
Rondeauの形式はこの作品の詞を見れば一目瞭然である。
"Ma fin est mon commencement
et mon commencement ma fin,
Et teneure vraiement,
Ma fin est mon commencement
Mes tiers chans trois fois seulement
Se retrograde et einsi fin,
Ma fin est mon commencement
et mon commencement ma fin."
"ent"と"in"の2つの韻に、
最初の行がルフランされる。
((拙カタカナ発音)
マ・ファン・エ・モン・コモンスモン・
エ・モン・コモンスモン・マ・ファン、
トゥヌル・ヴレモン、
マ・ファン・エ・モン・コモンスモン・
メ・チエル・ション・トゥルワ・フワ・スルモン、
ス・ルトゥロガドゥ・エ・オンスィ・ファン、
マ・ファン・エ・モン・コモンスモン・
エ・モン・コモンスモン・マ・ファン。)
「(拙大意)
我が終わりは我が始まり、
我が始まりは我が終わり。
下音部(テノール)はそのままに、
我が終わりは我が始まり。
我らが第3声部は単に3回
(主声部に)逆行し、かく終わる。
我が終わりは我が始まり、
我が始まりは我が終わり。」
曲は詞の2行ずつが繰り返される。
その2行ごとのcommencement(始め)とfin(終わり)は、
【commencement】
第3声部=
♪ドー・ーー・・ーー・ーー│<レー<ミー・・ーー>・レー│
●>ド・>シ>ラ・・<レ>ド・ー>シ│●<ド・>シ>ラ・・>ソー・ーー♪
主声部=
♪ドー・ーー・・ーー・ーー│>シ>ラ・ー>ソ・・ー<ラー<シ│
<ド<ミ・>レ<ミ・・<ファ>ミ・ー>レ│>ドー<ミー・・ーー<ソー♪
テノール部=
♪(>)ドー・ーー・・ーー・ーー│<ソ>ド・ード・・ドー・<ソー│
>ドー・ーー・・<ソ<ラ・ー>ソ・・│>ドー・ーー・・ーー・ーー♪
【fin】
第3声部=
♪(<)ソー・>ミー・・ーー・>ドー│<レ<ミ・ー<ファ・・>ミ>レ・<ミ>ド│
>シ>ラ・ー>ソ・・ー<ラ・ー<シ│<ドー・ーー・・ーー・ーー♪
主声部=
♪ソー・ーー・・<ラ<シ・<ド●│>シ<ド・ー<レ・・>ラ<シ・<ド●│
<レー・<ミー・・ーー・>レー│>ドー・ーー・・ーー・ーー♪
テノール部=
♪(>)ドー・ーー・・ーー・ーー│<ソ<ラ・ー>ソ・・>ドー・ーー│
<ソー・>ドー・・ドド・ー<ソ│>ドー・ーー・・ーー・ーー♪
である。主声部が、
"Ma"~~~~~~と、マノビしたような詞で歌うが、
歌詞自体がこの音楽の構造を歌ってるのである。ともあれ、
この音楽は英語でいう"palindrome(パリンドロウム)"、つまり、
「回文」となってる。まさに、
魔性(マショウ)の音楽といえよう。のちには、
音楽という手段を用いて策を弄することばかりして、
風雅な遊びを楽しんでたヨーハン・セバスチャン・バッハが、
フリードリヒ大王に与えられたとされる節をもとに作曲したという
「音楽の捧げもの」において、「かに道楽カノン」のレシピを示した。
♪ラーーー・<ドーーー│<ミーーー・<ファーーー│
>♯ソーーー・●●<ミー│>♯レーーー・>Nレーーー│
>♯ドーーー・>Nドーーー│ーー>シー・>♭シー>ラー│
>♯ソー>♯ファ>ミ・<ラー<レー│>ドーーー・>シーーー│>ラー♪
その後、やはり
音楽に冗談を持ち込む傾向が強かったパパ・ハイドンが、
「交響曲第47番」の第3楽章のメヌエットを、トリオも含めて回文で作った。
♪ドー・ーー・ーー、│>シー・ソー、<レー、│
>ドーッ、・<レーッ、・<ミーッ、│<ファー・ーー・ーー♪
という冒頭に対して、
♪ファー・ーー・ーー、│>ミーッ、・>レーッ、・>ドーッ、│
<レー、・>ソー・<シー、│ドー・ーー・ーー♪
という終いである。冗談といえば、
モーツァルトである。ご多分に漏れず、
「楽譜を上からと同時に反対側の下から見てもいっしょに奏せる」
という形でその遊び心を満たした。2曲ある。
「音楽の冗談」とか「鏡」とか呼ばれてる。
上段からでも下段からでもどうぞ、というわけだが、
真作かどうか疑わしい。また、楽聖ベートーヴェンも、
「ハンマークラヴィーア・ソナータ」の第4楽章に回文を採り入れた。といっても、
音楽の質を落として全体を回文とするような、
バッハらのようにはしなかったが、
「3声のフーガ」ということで部分的に
「回文」を採り入れた、のである。ただ単に
「鏡」「蟹」構造にしたのではなく、さらに
「ひねり」が加えられてる。ラフマニノフの
「パガニーニ・ラプソディ」の第18変奏が
ちゃちにさえ思えてしまう。当然ながら、
音楽自体の出来映えが他者とは一線を画して、
見事というしかないほど素晴らしい。やっぱり、
ベートーヴェンは作曲家の最高峰、
「鑑」なのである。
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