36歌仙のひとり藤原高光に、
(天暦の御時、神な月といふ事を上におきて、歌つかうまつりけるに)
[神無月。風に紅葉の散るときは、そこはかとなく、物ぞかなしき](新古今集#0552)
という秀歌がある。それを本歌に敷いた定家の歌に、
[秋の夜は、雲路をわくる、雁がねの、あとかたもなく、物ぞかなしき]
というものがある。また、その父も高光の歌を本歌にしてる。
[夕まぐれ。霧立ちわたる、鳥辺山。そこはかとなく、物ぞ悲しき]
(拙大意)薄暗い夕方時分。霧が一面に立ちこめてる鳥辺山なことだなあ。
そこだという見当もなく(→原因がはっきりしない)、
なんとなくであるが悲しいことであるよ。
「物悲し」だけで「なんとなく悲しい」という意味なのに、俊成は、その前に
「そこはかとなく」という理由・原因がはっきりしないという意味の形容詞を置き、
"ことさら"原因をぼかして表現してる。が、いうまでもなく、
「鳥辺山(とりべやま)」自体が、現在の東京でいえば、
「青山」「町屋」「桐谷」「代々幡」などというように、当時の「火葬場」の代名詞であるので、
その修辞に"本気で隠す"意味はもとよりないのである。すなわち、
立ちこめてる霧が、昼間の荼毘に付された遺体から上がる煙が
夕方になってもまだ残ってるかのようだ、と言いたいのを、
婉曲に表現したのである。いっぽう、
定家と時代が近い藤原成範の歌に、
(母の二位みまかりてのち、よみ侍りける)
[鳥辺山。おもひやるこそ、かなしけれ。ひとりや苔の、下にくちなむ](千載集#0591)
兼好法師も「徒然草」で書いてる。
[あだし野の露消ゆる時なく、
鳥辺山の煙立ちも去らでのみ、
住みはつるならひならば、
いかに物のあはれもなからむ。
世は定めなきこそいみじけれ。
命ある物を見るに、人ばかり久しきはなし。
かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。
つくづくと一年を暮らすほどにだにも、こよなうのどけしや。
飽かず、惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢心地こそせめ]
というように、
鳥辺(鳥戸、鳥部)山あるいは鳥辺(鳥戸、鳥部)野とは、
京の西の化野(あだしの)と並んで、
京の東の葬儀場だった地である(その昔はもっとあった)。
鳥辺、鳥戸、鳥部の違いは、
ダイワハウスのTVCMとEPSONカラリオのTVCMの両方とも
なぜ役所広司と黒木メイサ女史がいっしょに出てるのか解らない
拙脳なる私には区別できるはずもない。が、
現在の大谷本廟から清水寺、泉涌寺・東福寺一帯を
鳥部野と言ったらしい。物部氏の一庶流である
鳥部氏の本拠地だったというのが定説である。ちなみに、
物部氏は蘇我氏によって勢力を削がしてしまわれた一族である。
大和朝廷の軍事を担ってたといわれる。
武士を「もののふ」と言うのは、
物部を「もののべ」とも「もののふ」とも読んだからである。
ところで、
平安京が置かれる前は、現在の京都市街北東部は
山城国愛宕郡の一部だった。
紫式部の「源氏物語」でも光源氏が愛した女性たちが
鳥部野で荼毘にふされることが描かれてる。が、
光源氏の母である桐壺更衣が野辺送りされたのは、
「愛宕(おたぎ)といふ所」である。その設定箇所は現在の
「六道珍皇寺」あたりだと言われてる。ちなみに、
「を」は「高い場所→をか→丘」を表し、「たき」→焚き、である。
愛宕とはすなわち火打ち石の産地という意味である。
この「六道珍皇寺」は、小野篁が冥界に通ったという伝説で知られる
井戸がある。このあたりは、地下水が湧く地だったのかもしれない。
近くにある六波羅蜜寺へは、ガキのときと30代半ばのときの
2度行ったことがあるだけだが、ともにキョウのように
雨が降りしきる日だった。ガキのときは親といっしょ、
あとのときはオネエチャンといっしょだったので、
ガイドの人の話をろくに聞いてなかった。だから、
六波羅蜜寺の水掛不動の足下に流れ込む大量の水の出所について
聞き逃してしまった。ともあれ、ロクハラは後世、
平家から頼朝へ主が代わり、そして六波羅探題が置かれた地である。
ちなみに、
波羅蜜(はらみつ)とは般若心経の
♪ハンニャーハーラーミッターシンキョー♪のハラミッタである。
食うや食わずな飢餓状態で
♪ハーラーヘッター♪と唱えたときの
ハラミ(腹身)に至ったタ(状態)、ではない。つまり、
波羅蜜とは教義修行みたいなものである。そのうちの
「布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧」
とかいう小難しい屁理屈をこねたような
6種類の必須科目が「六波羅蜜」であり、
京都の六波羅蜜寺の名のもとである。
このあたりをそれで六波羅というようになったのか、
もともとロクハラみたいな地名で仏教の六波羅蜜と
こじつけたのかは、バイアグラとハルシオンを
間違えて飲んでしまうほどの拙脳なる私には
かいもく見当がつかない。
さて、
六道珍皇寺と六波羅蜜寺に挟まれた松原通は現在は
清水寺の参道ということになってるのであるが、
そのあたりは「六道の辻」と言われてた。つまり、
現在ではまったくナンセンスな話であるが、
「この世とあの世の境」という地、
ロクハラという地は葬儀場であるトリベノへの入口として
認識されてたのである。いずれにせよ、
ロクハラにはラクダが2頭いたわけでもないが、
六は三の倍数である。
(天暦の御時、神な月といふ事を上におきて、歌つかうまつりけるに)
[神無月。風に紅葉の散るときは、そこはかとなく、物ぞかなしき](新古今集#0552)
という秀歌がある。それを本歌に敷いた定家の歌に、
[秋の夜は、雲路をわくる、雁がねの、あとかたもなく、物ぞかなしき]
というものがある。また、その父も高光の歌を本歌にしてる。
[夕まぐれ。霧立ちわたる、鳥辺山。そこはかとなく、物ぞ悲しき]
(拙大意)薄暗い夕方時分。霧が一面に立ちこめてる鳥辺山なことだなあ。
そこだという見当もなく(→原因がはっきりしない)、
なんとなくであるが悲しいことであるよ。
「物悲し」だけで「なんとなく悲しい」という意味なのに、俊成は、その前に
「そこはかとなく」という理由・原因がはっきりしないという意味の形容詞を置き、
"ことさら"原因をぼかして表現してる。が、いうまでもなく、
「鳥辺山(とりべやま)」自体が、現在の東京でいえば、
「青山」「町屋」「桐谷」「代々幡」などというように、当時の「火葬場」の代名詞であるので、
その修辞に"本気で隠す"意味はもとよりないのである。すなわち、
立ちこめてる霧が、昼間の荼毘に付された遺体から上がる煙が
夕方になってもまだ残ってるかのようだ、と言いたいのを、
婉曲に表現したのである。いっぽう、
定家と時代が近い藤原成範の歌に、
(母の二位みまかりてのち、よみ侍りける)
[鳥辺山。おもひやるこそ、かなしけれ。ひとりや苔の、下にくちなむ](千載集#0591)
兼好法師も「徒然草」で書いてる。
[あだし野の露消ゆる時なく、
鳥辺山の煙立ちも去らでのみ、
住みはつるならひならば、
いかに物のあはれもなからむ。
世は定めなきこそいみじけれ。
命ある物を見るに、人ばかり久しきはなし。
かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。
つくづくと一年を暮らすほどにだにも、こよなうのどけしや。
飽かず、惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢心地こそせめ]
というように、
鳥辺(鳥戸、鳥部)山あるいは鳥辺(鳥戸、鳥部)野とは、
京の西の化野(あだしの)と並んで、
京の東の葬儀場だった地である(その昔はもっとあった)。
鳥辺、鳥戸、鳥部の違いは、
ダイワハウスのTVCMとEPSONカラリオのTVCMの両方とも
なぜ役所広司と黒木メイサ女史がいっしょに出てるのか解らない
拙脳なる私には区別できるはずもない。が、
現在の大谷本廟から清水寺、泉涌寺・東福寺一帯を
鳥部野と言ったらしい。物部氏の一庶流である
鳥部氏の本拠地だったというのが定説である。ちなみに、
物部氏は蘇我氏によって勢力を削がしてしまわれた一族である。
大和朝廷の軍事を担ってたといわれる。
武士を「もののふ」と言うのは、
物部を「もののべ」とも「もののふ」とも読んだからである。
ところで、
平安京が置かれる前は、現在の京都市街北東部は
山城国愛宕郡の一部だった。
紫式部の「源氏物語」でも光源氏が愛した女性たちが
鳥部野で荼毘にふされることが描かれてる。が、
光源氏の母である桐壺更衣が野辺送りされたのは、
「愛宕(おたぎ)といふ所」である。その設定箇所は現在の
「六道珍皇寺」あたりだと言われてる。ちなみに、
「を」は「高い場所→をか→丘」を表し、「たき」→焚き、である。
愛宕とはすなわち火打ち石の産地という意味である。
この「六道珍皇寺」は、小野篁が冥界に通ったという伝説で知られる
井戸がある。このあたりは、地下水が湧く地だったのかもしれない。
近くにある六波羅蜜寺へは、ガキのときと30代半ばのときの
2度行ったことがあるだけだが、ともにキョウのように
雨が降りしきる日だった。ガキのときは親といっしょ、
あとのときはオネエチャンといっしょだったので、
ガイドの人の話をろくに聞いてなかった。だから、
六波羅蜜寺の水掛不動の足下に流れ込む大量の水の出所について
聞き逃してしまった。ともあれ、ロクハラは後世、
平家から頼朝へ主が代わり、そして六波羅探題が置かれた地である。
ちなみに、
波羅蜜(はらみつ)とは般若心経の
♪ハンニャーハーラーミッターシンキョー♪のハラミッタである。
食うや食わずな飢餓状態で
♪ハーラーヘッター♪と唱えたときの
ハラミ(腹身)に至ったタ(状態)、ではない。つまり、
波羅蜜とは教義修行みたいなものである。そのうちの
「布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧」
とかいう小難しい屁理屈をこねたような
6種類の必須科目が「六波羅蜜」であり、
京都の六波羅蜜寺の名のもとである。
このあたりをそれで六波羅というようになったのか、
もともとロクハラみたいな地名で仏教の六波羅蜜と
こじつけたのかは、バイアグラとハルシオンを
間違えて飲んでしまうほどの拙脳なる私には
かいもく見当がつかない。
さて、
六道珍皇寺と六波羅蜜寺に挟まれた松原通は現在は
清水寺の参道ということになってるのであるが、
そのあたりは「六道の辻」と言われてた。つまり、
現在ではまったくナンセンスな話であるが、
「この世とあの世の境」という地、
ロクハラという地は葬儀場であるトリベノへの入口として
認識されてたのである。いずれにせよ、
ロクハラにはラクダが2頭いたわけでもないが、
六は三の倍数である。
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