昨日で、歌舞伎座の
「團菊祭五月大歌舞伎(12世市川團十郎一年祭)」
が終わった。相変わらず、
"プロ"の論評は海老蔵に手厳しい。そもそも、
演劇・舞台の評論家は反日左翼が多い。
こういった類にものの善し悪しなど解るはずもなく、
自分の"好き嫌い"イコール"評価"であることがほとんどである。
恵まれた出自の者に対しては異様なほどの妬みで
目の敵にする。が、そうしたいっぽうまた、
絶対的な最高権力には、一般には意外かもしれないが、
哀れなほどに弱く、露骨に擦りよる。ゆえに、
藤十郎・菊五郎・幸四郎などは手放しに褒めちぎる。だから、
こうした類の"評論家"御歴々の論評など、
一般のかたも屁とも思わないほうがいい。
シロウトの私には歌舞伎界に何の利害関係もない。だから、
虚心坦懐な姿勢で感想が書ける。
海老蔵の弁慶も富樫左衛門の菊之助も、
ともにすばらしかった。
菊之助は女形もできるし、こうした立役も巧い。
なんといっても声がいい。よく通る。
幸四郎や吉右衛門のような
くぐもって聞き取りにくい声が苦手な私にとって、
これはとくに重要なことである。
菊之助には及ばないが海老蔵もいい声をしてる。
いい声というよりは独特の艶がある声である。
海老蔵は菊之助よりもメリハリも利いたセリブわしをする。また、
"芝居として"故意に小声にすることがよくある。
これが常に観客に聞き取りやすいようにしゃべる相役
菊之助とのバランスを崩してしまうようにとられる場面もある。
幕が引かれる直前の、
花道の海老蔵弁慶と見送る舞台の菊之助富樫左衛門との
シンクロナイズド振りは、パリでの
團十郎弁慶と海老蔵富樫左衛門に並ぶほど絶妙である。
幕引き後に、六方を控えた海老蔵は花道でその荒れた息を整えるのだが、
その姿がまた傷ましいまでに美しい。そして、
幕の向こう(の菊之助富樫左衛門)に再び一礼する姿が
海老蔵の場合はじつに感動的である。
客席への礼が済むといよいよ飛び六方である。
海老蔵の六方は右手の振りにキレがあり、
ツケや太鼓とのシンクロも鮮やかである。
海老蔵の六方は誰より気迫に満ちてる。
見てて涙が出てくるほどである。
右手足で進んで一旦制止し左手足に替えて進みまた戻り
最後の飛び六方で花道を高速で去ってく成田屋の弁慶は、
亡き12世團十郎より息子の海老蔵のほうがすでに
数段上である。たとえ母心にツッゴれたとしても、
海老蔵が史上最高の弁慶であることは間違いない。
「團菊祭五月大歌舞伎(12世市川團十郎一年祭)」
が終わった。相変わらず、
"プロ"の論評は海老蔵に手厳しい。そもそも、
演劇・舞台の評論家は反日左翼が多い。
こういった類にものの善し悪しなど解るはずもなく、
自分の"好き嫌い"イコール"評価"であることがほとんどである。
恵まれた出自の者に対しては異様なほどの妬みで
目の敵にする。が、そうしたいっぽうまた、
絶対的な最高権力には、一般には意外かもしれないが、
哀れなほどに弱く、露骨に擦りよる。ゆえに、
藤十郎・菊五郎・幸四郎などは手放しに褒めちぎる。だから、
こうした類の"評論家"御歴々の論評など、
一般のかたも屁とも思わないほうがいい。
シロウトの私には歌舞伎界に何の利害関係もない。だから、
虚心坦懐な姿勢で感想が書ける。
海老蔵の弁慶も富樫左衛門の菊之助も、
ともにすばらしかった。
菊之助は女形もできるし、こうした立役も巧い。
なんといっても声がいい。よく通る。
幸四郎や吉右衛門のような
くぐもって聞き取りにくい声が苦手な私にとって、
これはとくに重要なことである。
菊之助には及ばないが海老蔵もいい声をしてる。
いい声というよりは独特の艶がある声である。
海老蔵は菊之助よりもメリハリも利いたセリブわしをする。また、
"芝居として"故意に小声にすることがよくある。
これが常に観客に聞き取りやすいようにしゃべる相役
菊之助とのバランスを崩してしまうようにとられる場面もある。
幕が引かれる直前の、
花道の海老蔵弁慶と見送る舞台の菊之助富樫左衛門との
シンクロナイズド振りは、パリでの
團十郎弁慶と海老蔵富樫左衛門に並ぶほど絶妙である。
幕引き後に、六方を控えた海老蔵は花道でその荒れた息を整えるのだが、
その姿がまた傷ましいまでに美しい。そして、
幕の向こう(の菊之助富樫左衛門)に再び一礼する姿が
海老蔵の場合はじつに感動的である。
客席への礼が済むといよいよ飛び六方である。
海老蔵の六方は右手の振りにキレがあり、
ツケや太鼓とのシンクロも鮮やかである。
海老蔵の六方は誰より気迫に満ちてる。
見てて涙が出てくるほどである。
右手足で進んで一旦制止し左手足に替えて進みまた戻り
最後の飛び六方で花道を高速で去ってく成田屋の弁慶は、
亡き12世團十郎より息子の海老蔵のほうがすでに
数段上である。たとえ母心にツッゴれたとしても、
海老蔵が史上最高の弁慶であることは間違いない。
歌舞伎が大好きで永年見ており、ネット上でもいろいろな方の感想やら評やらを読ませてもらってます。
チャイコフスキー庵さんのご意見も批評にも共感いたしました。
その上で(だからこそかな)、「客席への礼が済むと・・・」の部分に誤解があることを申し上げたくなりました。
「毛抜」のように観客を巻き込む手法はいらないどころか、一刻も早く義経に追いつきたいはずの弁慶です。あの場面での礼は「神仏の加護への感謝」なのです。なので海老蔵はこの礼から飛び六法への懸りが非常に速いです。
天を仰ぐのも「口上」などで二・三階の観客を見回すのとは全く違うはずです。
次の機会にその心でご覧になっていただけたら嬉しいです。
コメント、ありがとうございます。
ご親切にお教えくださろうとなさってるので
あまりに恐縮で申しあげにくいのですが……
一般向け解説書ならどこにでも書いてある事柄ですので、
先刻存じております。
たしかに「神仏による御加護への礼」ではあるのですが……
ではなぜ、それが神仏による加護への感謝だとしたら
その一礼を客席方向にするのか、お解りになりますか?
故三波春夫のように、アタカも「お客さまは神様です」
であるかのごとくなのでしょうか。
半可通な評論家の御歴々の誰ひとり答えられないことでしょう。
私はこう考えてます。
神仏が宿る方角というのは、
家で神棚を置く位置でも判るように
「北西(天門)」(→さらに簡明にするために「北」)
というのが常識です。
冨樫氏はその家紋八曜からも判るように
妙見菩薩を信仰してました。つまり、
北極星+北斗七星=八曜、ということです。
弁慶が修行した比叡山では、
「天に在るときは北斗七星に、地に在るときは山王七社に」
とされてます。だから、
天と地とにぞれぞれお辞儀をしてるのだと思います。花道を、
「牛」若丸義経が逃れていく「丑」の方角へ向かう北陸の海岸線とみたてれば、
最初にお辞儀をする舞台上手方向は「北西」となり、
次いでお辞儀をする客席の方向は「北」となるのです。
いわば、舞台上(桟敷席)は天で客席(かつては土間席)は地、
ということで、土間の客が弁慶にお辞儀をされたと思っても
別段かまわないと思ってます。
歌舞伎というのは元来町人大衆向けの娯楽なので、
神仏へのお辞儀なのだから拍手(アプローズ)をしてはいけない、などと、
お偉い評論家の先生がたのように通ぶることが、
笑止千万にも野暮の極みになってしまうのではないでしょうか。