チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「チャイコフスキー『1812年』B部のソドレミ音型」

2009年06月25日 01時50分30秒 | 戦勝&大聖堂奉献式祝いに(イワイニ)1812年

チャイコフスキー 1812年


メシトモの物理のおねえさんは実に愉快である。
これまでもウスウスとは感じてたが、昨日、
シモネタもオヤジギャグもまったくok、
という言質が取れた。そこで早速、
馬鹿のひとつおぼえな自作オヤジギャグのひとつ、
「リョウシリキガク(量子力学)」を披露してみた。
チューソツ程度の頭の私にとっての認識の量子力学は、
以下のようなものである。
プチM変態ながら相手がいない私は、いつもは
しかたなく、床に両膝をついて頭を垂れて
片手を床に置いて体を支えた姿勢で
自分でスパンキングしようとする。が、それだと
片手で片方の尻タブしか叩けない。対して、
女性にスパンキングをされる至上の時があるとすれば、
その両方の尻タブを叩かれれることができる。そして、
ピシャーン・パシーンという音が出て、我が尻はれっきとした
打楽器となるのである。が、
手があたるごとに尻の皮膚・肉などの細胞、
その細胞の中の分子、さらに、原子核・電子などが
揺れ、振動する。すると、それらミクロな世界の運動は、
ニュートンの古典力学では説明できない。それを
「両尻器楽」と言うんでしょう? これで
「我が事象に不可能はない」ほど大笑いしてくれるのだから、
この物理おねえさんはまぎれもない善人である。ちなみに、
この物理おねえさんは絶対音感の持ち主だそうである。
ねえねえ、物理なら打つ理論も実験しないとだめだよ、
などとつまらない屁理屈をこねながら、今度、
私の両尻を叩いてその音を言い当ててくれる、
という約束を、彼女が酒に酔ったいきおいでした。仮に、
私の尻が彼女の平手で叩かれる音が、
変ロ音→変ホ音→ヘ音→ト音、だったら、
「完全なるSドァ~~(エスドゥアー、Es dur)」、
と叫んでみることにする。

A部最後の低弦のb音「ミ」が「ソ」と置き換えられて、
変ホ長調。4/4、アンダーンテ。
低弦のb音(属音)が通奏される中、小太鼓が、
****♪●●●●●●●●・(ソソソ)ソーーー●●●●・・(ソソソ)ソー●●ソー●●・ソーーー●●●●♪
というリズムをpで打ち出す。ここにも、チャイコフスキーの
打楽器使い名人ぶりが発揮されてる。この中には
「運命の動機律動」もが含有されてるのである。
この小太鼓の打ち出しに導かれて、
オーボエ2管+クラリネット2管+ホルン4管がmfで、
****♪●●ソソ<ドー<レー・<ミー>レー>ドー<レー・・<ミーーーッ>ドーーーッ・ドーーーーーーー│
  >●●ソソ<ドー<レー・<ミー>レー>ドー<レー・・<ミーーーッ>ドーーーッ・ドーーーーーーー│
  >●●ララ<レー<ミー・<レー>ラー>ファー<ラー・・<レー>ラー>ファー<ラー・<レーーーーーーー│
  >●●ソソ<ドー<レー・>ドー>ソー>ミー<ソー・・<ドー>ソー>ミー<ソー・<ドーーーーーーー♪
という主題を吹奏する。この
♪【ソソ<ド<レ<ミ】>レ>ド<レ<ミ>ドド♪の♪【ソソ<ド<レ<ミ】は、
チャイコフスキーにとってはおそらく「進軍ラッパ」だったのだろう。
♪このぉ~き、なんのき? きになるきっ♪
などとは発想しなかったことだろう。それはともかく、
「神曲」たる幻想曲「フランチェースカ・ダ・リーミニ」においても、
あま~いアン「ダンテ」・カンタービレの、
名残惜しい愛撫もしくはバーチョのような「愛の主題」が
なかなか終わらない中、4管のホルンが吹く「進軍ラッパ」、
****♪・・●●ソソ<ドー<レー・<ミー、>ソソ<ドー<レー│<ミーーー●●●●・●●●●●●●●♪
に促され、せきたてられるようにアッレーグロ・ヴィーヴォの煉獄へ引き戻されるのである。
この2曲への使用にはチャイコフスキーの共通意図が存在すると私は考えてる。ただし、
麻生太郎総理と反町隆史と田中勝春騎手の顔の区別がときどきつかなくなる程度の
拙脳なる私の考えである。断定もダンテいもできないことは言うまでもない。ときに、
「ソ<ド<レ<ミ」といえば、あまたの曲に採り入れられてる
定番中の定番動機・基本音型である。が、
「ソ<ド<レ<ミ」の大家、といえば、
クラ音における感傷音楽の大家でもあるリヒャルト・シュトラオスである。
「ティル」「ドン・フアン」「死と変容」……。また、シュトラオスといえば、
ヨーハン・シュトラオス2世の「春の声」の第2ヴァルツァー。
***♪【ソー・ー●・<ドー│ー●・<レー・ー<ミ】│>ミー・ー<ファ・<ソー│ーー♪
このワルツの声楽付き版の歌詞は、リヒャルト・ジュネが書いた。
「こうもり」の台本を手直ししたひとりである。ちなみに、
「こうもり」の原台本はメイヤクとアレヴィによるものである。このふたりは、
「カルメン」の台本を書いた人物である。さて、
チャイコフスキーは(現行暦換算)1876年1月に、パリで
「カルメン」を感激をもって観たのであるが、チャイコフスキーは、
同年夏以降に「リーミニのフランチェースカ」を作曲した。これは、
その「ハバネラ」の中の動機、
♪ソ<ドッ<レッ<ミッ♪
がチャイコフスキーの脳を支配してたことを如実に
物語る(tell)ものである。もっとも、
Prends garde a toi!(プロン・ガルド・ア・トゥワ)(気をつけなさいな!)を
「信じるな!」とアンリ・名訳(メイヤック)したロシア語屋亀山郁夫大先生の
大頭脳の足元にもチャイコフスキーごときは及ばないかもしれないが。
いずれにせよ、チャイコフスキーは「カルメン」を聴いた年の
「リーミニのフランチェースカ」と、その4年後に作曲した「1812年」に、この
"Zion hoert die Waechter singen(ツィオン・ヘルト・ディ・ヴェヒター・ズィンゲン"
(ユダヤの民は物見らが歌うのを聞く)という
"the time has come"な「進軍ラッパ」を起用したのである。

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