「デンマーク」と「江戸川区」をしょちゅう聞き違える拙脳なる私は、
「白檀に非ずは双葉より芳しからず」という諺どおり、
高2の1学期までの成績が10段階評価でたとえば、
現代国語が1、古文が2、漢文が1、音楽が10、美術が10、体育が9、
という惨憺たるものだったので、御茶の水にある有名な
S台予備校の夏期講習に行かされた。といっても、
私が行ったコースは今は浜松町に移転してしまった
文化放送の近くにあった四谷校舎である。
町名の若葉が屋号の不味い鯛焼き屋もすぐそばだった。
そのときの古文のテキストに載ってて、すっかり魅了されてしまったのが、
「建礼門院右京大夫集」の中の、
右京大夫がかつての女主人建礼門院徳子を
大原は寂光院に訪ねるくだりだった。そして、
そのときの講師が、当時清泉女子大教授だった、
「大和物語」研究の権威のひとり、
故高橋正治(たかはし・しょうじ)師(1925–1995)だった。
生まれてから感銘を受けた教師はこの人だけである。残念ながら、
女装に失敗して清泉女子大は受験できずに終わった。
女院、大原におはしますとばかりは聞きまゐらすれど、
さるべき人に知られでは、まゐるべきやうもなかりしを、
深き心をしるべにて、わりなくてたづねまゐるに、
やうやう近づくままに、
山道の気色よりまづ涙は先立ちていふかたなきに、
御いほりのさま、御すまひ、ことがら、
すべて目もあてられず。
昔の御ありさま見まゐらせざらむだに、
おほかたの事がら、いかがこともなのめならむ。
まして、夢うつつともいふかたなし。
秋深き山おろし、近き梢にひびきあひて、
筧の水のおとづれ、鹿の声、虫の音、
いづくものことなれど、ためしなきかなしさなり。
都は春の錦をたちかさねて、
さぶらひし人々六十余人ありしかど、
見忘るるさまにおとろへたる墨染めの姿して、
わづかに三、四人ばかりぞそぶらはるる。
その人々にも、「さてもや」とばかりぞ、
われも人もいひ出でたりし、
むせぶ涙におぼほれて、言もつづけられず。
「今や夢、昔や夢と、まよはれて、いかに思へど、うつつとぞなき」
「あふぎみし、むかしの雲の、うへの月。かかる深山の、影ぞかなしき」
花のにほひ、月の光にたとへても、
ひとかたにはあかざりし御おもかげ、
あらぬかとのみたどらるるに、かかる御事を見ながら、
なにの思ひ出なき都へとて、さればなにとて帰るらむと、
うとましくく心憂し。
「山深く、とどめおきつる、わが心。やがてすむべき、しるべとをなれ」
(拙大意)
女院(にょういん=建礼門院)が大原においでになるということだけは
聞き申しあげたが、しかるべき人に道案内をしてもらわなくては、
おたずねするすべもなかったのを、女院に対する深い心を道しるべにして、
どうしようもない気持ちでお訪ねしていくと、
だんだん近づくにつれて、山道の様子からまず涙が先に立って、
表現のしようがないところに、
ご庵室の様子やお住まい、ご生活すべてが、すべて目もあてられない。
昔のご生活を拝見しない人でさえ、おおよその有様など、
どうして普通だと言えるだろうか、いや、いえない。まして、
(昔を知る私などには)夢とも現実とも言いようがない(ほどひどいものだ)。
秋深い山から吹きおろす風が、近くの梢に響きあい、
雨樋の水の音、鹿の声、虫の音など、どこでも同じことだけれども、
(私には)例がない悲しさだった。
(都は春の錦=見渡せば、柳桜を、こきまぜて、都ぞ春の、錦なりける(素性法師))
都においでの頃は春の錦の衣を重ねて、お傍に仕えたた女房が六十余人いたけれど、
(いまは)顔を見忘れるほどやつれたモノトーン染めの喪服(あるいは僧衣)の姿で、
わずかに三、四人だけが、お仕え申しあげてる。
その方々にも、「それにしてもまあ」とだけ、
私もその方々も言いだしたただけだったのが、
むせぶ涙に溺れ(たような状態になっ)て言葉も続けれない。
「今が夢なのか、あの頃が夢だったのかと、思い悩んでも、
現実とはとても思えないことであるよ」
「かつて宮中でまばゆい月のように雲の上に仰ぎ見申し上げた女院だったことだなあ。
それがいま、このような深い山の影とおなりなことは、たいそうお気の毒なことであるよ」
春の花の輝きや秋の月の光にたとえるにしても、
どちらか一方のたとえでは不充分だったお姿が、
別のかたではないかとばかりあれこれ考えてしまうほどだけれども、
このようなご様子を見申し上げながら、どうして
何の思い出もない都に帰れるだろう、いえ、帰れないと、いやでつらい。
「大原の山深くにお訪ねして残してきた私の心よ。
すぐに出家するにちがいない手引きとね、なっておくれよ」
建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)とは、
藤原氏の中の書家の家の娘である。
久寿2年(概ね、西暦1155年)の生まれともいわれてる。
平清盛の娘で高倉天皇の中宮徳子(のちの建礼門院)に
18歳のときから6年仕えた。そのときの女房名が
「右京大夫」だった。ともあれ、その間に、
徳子の甥資盛といい仲になる。それは、
資盛の入水死(=平家滅亡)まで続く。徳子から
後鳥羽上皇とその母七条院に出仕替えをするのだが、おそらく、
資盛との仲を資盛の正室に疎まれたからだろう。
平資盛は「平家の悪行のはじまり」として知られる。が、
そんな男に「右京大夫」はゾッコンだったようである。
源平合戦では平家一門の中では最後まで奮戦したが、ついに、
壇ノ浦で源家に敗戦し退路を断たれ、その海中に入水自殺した。
建礼門院も子の安徳天皇と入水したが、自分だけ
源家に救われてしまい、都に戻されて、大原の寂光院で
安徳天皇以下平家一門の菩提を弔う余生を送った。
寂光院には本堂の横に桜が1本だけ植わってる。
後白河院が建礼門院徳子を訪ねたおりに詠んだ
「池水に、汀の桜、散り敷きて、波の花こそ、盛りなりけり」
(拙大意)
池の水際に植わってる桜が散ってその花が
池の水に敷き詰められてるかのごとくであるが、
そのまさに波の花がね、満開であることよ
という歌にちなんで「汀(みぎわ)の桜」と呼ばれてる。が、
現在の桜が当時の桜のはずはない。ともあれ、
何とも辛辣な歌である。壇ノ浦の荒波に散った幼帝安徳天皇を、
波が白く泡立つことを花にたとえた散り桜と詠ってるのである。
寂光院の本堂は平成12年に放火で焼失し、5年後に再建はされた。
悲しい歴史に彩られた寺に追い打ちをかける心ない下手人は
見つからないまま、公訴時効となってしまった。
「白檀に非ずは双葉より芳しからず」という諺どおり、
高2の1学期までの成績が10段階評価でたとえば、
現代国語が1、古文が2、漢文が1、音楽が10、美術が10、体育が9、
という惨憺たるものだったので、御茶の水にある有名な
S台予備校の夏期講習に行かされた。といっても、
私が行ったコースは今は浜松町に移転してしまった
文化放送の近くにあった四谷校舎である。
町名の若葉が屋号の不味い鯛焼き屋もすぐそばだった。
そのときの古文のテキストに載ってて、すっかり魅了されてしまったのが、
「建礼門院右京大夫集」の中の、
右京大夫がかつての女主人建礼門院徳子を
大原は寂光院に訪ねるくだりだった。そして、
そのときの講師が、当時清泉女子大教授だった、
「大和物語」研究の権威のひとり、
故高橋正治(たかはし・しょうじ)師(1925–1995)だった。
生まれてから感銘を受けた教師はこの人だけである。残念ながら、
女装に失敗して清泉女子大は受験できずに終わった。
女院、大原におはしますとばかりは聞きまゐらすれど、
さるべき人に知られでは、まゐるべきやうもなかりしを、
深き心をしるべにて、わりなくてたづねまゐるに、
やうやう近づくままに、
山道の気色よりまづ涙は先立ちていふかたなきに、
御いほりのさま、御すまひ、ことがら、
すべて目もあてられず。
昔の御ありさま見まゐらせざらむだに、
おほかたの事がら、いかがこともなのめならむ。
まして、夢うつつともいふかたなし。
秋深き山おろし、近き梢にひびきあひて、
筧の水のおとづれ、鹿の声、虫の音、
いづくものことなれど、ためしなきかなしさなり。
都は春の錦をたちかさねて、
さぶらひし人々六十余人ありしかど、
見忘るるさまにおとろへたる墨染めの姿して、
わづかに三、四人ばかりぞそぶらはるる。
その人々にも、「さてもや」とばかりぞ、
われも人もいひ出でたりし、
むせぶ涙におぼほれて、言もつづけられず。
「今や夢、昔や夢と、まよはれて、いかに思へど、うつつとぞなき」
「あふぎみし、むかしの雲の、うへの月。かかる深山の、影ぞかなしき」
花のにほひ、月の光にたとへても、
ひとかたにはあかざりし御おもかげ、
あらぬかとのみたどらるるに、かかる御事を見ながら、
なにの思ひ出なき都へとて、さればなにとて帰るらむと、
うとましくく心憂し。
「山深く、とどめおきつる、わが心。やがてすむべき、しるべとをなれ」
(拙大意)
女院(にょういん=建礼門院)が大原においでになるということだけは
聞き申しあげたが、しかるべき人に道案内をしてもらわなくては、
おたずねするすべもなかったのを、女院に対する深い心を道しるべにして、
どうしようもない気持ちでお訪ねしていくと、
だんだん近づくにつれて、山道の様子からまず涙が先に立って、
表現のしようがないところに、
ご庵室の様子やお住まい、ご生活すべてが、すべて目もあてられない。
昔のご生活を拝見しない人でさえ、おおよその有様など、
どうして普通だと言えるだろうか、いや、いえない。まして、
(昔を知る私などには)夢とも現実とも言いようがない(ほどひどいものだ)。
秋深い山から吹きおろす風が、近くの梢に響きあい、
雨樋の水の音、鹿の声、虫の音など、どこでも同じことだけれども、
(私には)例がない悲しさだった。
(都は春の錦=見渡せば、柳桜を、こきまぜて、都ぞ春の、錦なりける(素性法師))
都においでの頃は春の錦の衣を重ねて、お傍に仕えたた女房が六十余人いたけれど、
(いまは)顔を見忘れるほどやつれたモノトーン染めの喪服(あるいは僧衣)の姿で、
わずかに三、四人だけが、お仕え申しあげてる。
その方々にも、「それにしてもまあ」とだけ、
私もその方々も言いだしたただけだったのが、
むせぶ涙に溺れ(たような状態になっ)て言葉も続けれない。
「今が夢なのか、あの頃が夢だったのかと、思い悩んでも、
現実とはとても思えないことであるよ」
「かつて宮中でまばゆい月のように雲の上に仰ぎ見申し上げた女院だったことだなあ。
それがいま、このような深い山の影とおなりなことは、たいそうお気の毒なことであるよ」
春の花の輝きや秋の月の光にたとえるにしても、
どちらか一方のたとえでは不充分だったお姿が、
別のかたではないかとばかりあれこれ考えてしまうほどだけれども、
このようなご様子を見申し上げながら、どうして
何の思い出もない都に帰れるだろう、いえ、帰れないと、いやでつらい。
「大原の山深くにお訪ねして残してきた私の心よ。
すぐに出家するにちがいない手引きとね、なっておくれよ」
建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)とは、
藤原氏の中の書家の家の娘である。
久寿2年(概ね、西暦1155年)の生まれともいわれてる。
平清盛の娘で高倉天皇の中宮徳子(のちの建礼門院)に
18歳のときから6年仕えた。そのときの女房名が
「右京大夫」だった。ともあれ、その間に、
徳子の甥資盛といい仲になる。それは、
資盛の入水死(=平家滅亡)まで続く。徳子から
後鳥羽上皇とその母七条院に出仕替えをするのだが、おそらく、
資盛との仲を資盛の正室に疎まれたからだろう。
平資盛は「平家の悪行のはじまり」として知られる。が、
そんな男に「右京大夫」はゾッコンだったようである。
源平合戦では平家一門の中では最後まで奮戦したが、ついに、
壇ノ浦で源家に敗戦し退路を断たれ、その海中に入水自殺した。
建礼門院も子の安徳天皇と入水したが、自分だけ
源家に救われてしまい、都に戻されて、大原の寂光院で
安徳天皇以下平家一門の菩提を弔う余生を送った。
寂光院には本堂の横に桜が1本だけ植わってる。
後白河院が建礼門院徳子を訪ねたおりに詠んだ
「池水に、汀の桜、散り敷きて、波の花こそ、盛りなりけり」
(拙大意)
池の水際に植わってる桜が散ってその花が
池の水に敷き詰められてるかのごとくであるが、
そのまさに波の花がね、満開であることよ
という歌にちなんで「汀(みぎわ)の桜」と呼ばれてる。が、
現在の桜が当時の桜のはずはない。ともあれ、
何とも辛辣な歌である。壇ノ浦の荒波に散った幼帝安徳天皇を、
波が白く泡立つことを花にたとえた散り桜と詠ってるのである。
寂光院の本堂は平成12年に放火で焼失し、5年後に再建はされた。
悲しい歴史に彩られた寺に追い打ちをかける心ない下手人は
見つからないまま、公訴時効となってしまった。
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