2年前、"特発性両側性感音難聴"で休養、
という発表があったときに、
のんべえであることと考え併せて
咽頭か食道の癌のリンパ節転移で、
仮にそうだと3年ももたないだろうと思ってたら、
今年、やはり"初期の食道癌"と報道されてたので、
来春の新歌舞伎座は無理ではないかと危惧してた。
多くの人が言ってるように、残念である。
初代中村勘三郎(西暦およそ1598-同1658)は、
現在の京都市岩倉中町あたりの
中村郷の地侍の家に生まれた。一説に、
大阪夏の陣後に、北野天満宮で
「猿若」を舞ったのが、中村座の第一歩と言われてる。
少なくとも18世勘三郎はそう信じて、
死の床で息子たちと最期の会話ができるように
声が出せるようにしてもらったときにも、縁ある天神様、
「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の
科白を懸命に言ってたという。
天神様の数字「25」ではないが、
2と5が並んだ12月5日に死んだのである。
私は歌舞伎座以外での歌舞伎に興味がないので、
去る9月に新橋演舞場で行われた
「秀山祭九月大歌舞伎」は観てない。ちなみに、
秀山というのは初代中村吉右衛門の俳号である。
その養子である2世吉右衛門がすべての演目に出る、
というのがウリなのである。この昼の部の
「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」では、武部源蔵を吉右衛門が、
松王丸を染五郎が、それぞれ演じるはずだった。が、
染五郎が奈落転落事故で出演できず、
吉右衛門が松王丸をやったらしい。
2世吉右衛門と18世勘三郎はともに
3世中村歌六を祖父に持つ従兄弟同士である。
その3世中村歌六の父は、
大坂の越後屋三井両替店の番頭の倅ながら芝居の道に進み、
初代中村歌六(西暦およそ1779年-同1859)になった人物である。
現在の中村勘三郎(波野家)の血統の祖である。
「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」の見せ場をごく簡単にかいつまむと、
[松王丸は大恩ある菅丞相(菅原道真)の倅菅秀才の捕縛役として
武部源蔵の寺子屋に踏み込む。菅秀才を匿ってる源蔵は、
寺子屋に入門してきたばかりの小太郎を身代わりにして殺し、
その首を差し出す。が、それはそうなるだろうと
あらかじめ予想した松王丸が源蔵の寺子屋に
我が子を入門させたのだった。
実の我が子の生首を目の前にした松王丸だったが、
(源蔵に向かって)「菅秀才の首に相違ない」
(検分役に向かって)「相違ござらん!」
(にこりと笑って討たれたとあとで聞かされる我が子の首に向かって)「でかした」
(また源蔵に向かって)「源蔵、よく討ったぁ~~~~!」
と言い放って開いた右手を前に突き出して見得を切る]
というものである。おそらく、勘三郎はベッドで仰向けのまま
この場面の松王丸の科白を稽古してたのだろう。
そんな姿を想像するだけで、
実際の見事な「寺子屋」の芝居を観せてもらった気分になった。
源蔵は「せまじきものは宮仕え」と言うが、小太郎は武士の子として
家のために喜んで首を刎ねられたのである。
そうした武士の理解しがたい世界を垣間見れることで江戸時代の庶民は
歌舞伎に妖しい魅力を感じて愛でてたのである。
18世勘三郎は50代で死んだが、
二人の男子が成長して立派な役者となってるのである。
それ以上望むものはない。
それでいいではないか、と思う。
という発表があったときに、
のんべえであることと考え併せて
咽頭か食道の癌のリンパ節転移で、
仮にそうだと3年ももたないだろうと思ってたら、
今年、やはり"初期の食道癌"と報道されてたので、
来春の新歌舞伎座は無理ではないかと危惧してた。
多くの人が言ってるように、残念である。
初代中村勘三郎(西暦およそ1598-同1658)は、
現在の京都市岩倉中町あたりの
中村郷の地侍の家に生まれた。一説に、
大阪夏の陣後に、北野天満宮で
「猿若」を舞ったのが、中村座の第一歩と言われてる。
少なくとも18世勘三郎はそう信じて、
死の床で息子たちと最期の会話ができるように
声が出せるようにしてもらったときにも、縁ある天神様、
「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の
科白を懸命に言ってたという。
天神様の数字「25」ではないが、
2と5が並んだ12月5日に死んだのである。
私は歌舞伎座以外での歌舞伎に興味がないので、
去る9月に新橋演舞場で行われた
「秀山祭九月大歌舞伎」は観てない。ちなみに、
秀山というのは初代中村吉右衛門の俳号である。
その養子である2世吉右衛門がすべての演目に出る、
というのがウリなのである。この昼の部の
「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」では、武部源蔵を吉右衛門が、
松王丸を染五郎が、それぞれ演じるはずだった。が、
染五郎が奈落転落事故で出演できず、
吉右衛門が松王丸をやったらしい。
2世吉右衛門と18世勘三郎はともに
3世中村歌六を祖父に持つ従兄弟同士である。
その3世中村歌六の父は、
大坂の越後屋三井両替店の番頭の倅ながら芝居の道に進み、
初代中村歌六(西暦およそ1779年-同1859)になった人物である。
現在の中村勘三郎(波野家)の血統の祖である。
「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」の見せ場をごく簡単にかいつまむと、
[松王丸は大恩ある菅丞相(菅原道真)の倅菅秀才の捕縛役として
武部源蔵の寺子屋に踏み込む。菅秀才を匿ってる源蔵は、
寺子屋に入門してきたばかりの小太郎を身代わりにして殺し、
その首を差し出す。が、それはそうなるだろうと
あらかじめ予想した松王丸が源蔵の寺子屋に
我が子を入門させたのだった。
実の我が子の生首を目の前にした松王丸だったが、
(源蔵に向かって)「菅秀才の首に相違ない」
(検分役に向かって)「相違ござらん!」
(にこりと笑って討たれたとあとで聞かされる我が子の首に向かって)「でかした」
(また源蔵に向かって)「源蔵、よく討ったぁ~~~~!」
と言い放って開いた右手を前に突き出して見得を切る]
というものである。おそらく、勘三郎はベッドで仰向けのまま
この場面の松王丸の科白を稽古してたのだろう。
そんな姿を想像するだけで、
実際の見事な「寺子屋」の芝居を観せてもらった気分になった。
源蔵は「せまじきものは宮仕え」と言うが、小太郎は武士の子として
家のために喜んで首を刎ねられたのである。
そうした武士の理解しがたい世界を垣間見れることで江戸時代の庶民は
歌舞伎に妖しい魅力を感じて愛でてたのである。
18世勘三郎は50代で死んだが、
二人の男子が成長して立派な役者となってるのである。
それ以上望むものはない。
それでいいではないか、と思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます