チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「モーツァルト交響曲第40番のMolto allegroとAllegro assaiはどちらが速いのか?」

2012年12月05日 18時44分33秒 | 説くクラ音ばサラサーデまで(クラ音全般
[モーツァルトの造語モルト・アレグロ/molto(モルト)とassai(アッサイ)の差異]

Johann Sebastian Bach(ヨーハン・セバスティアン・バッハ、
いわゆる大バッハ、1685-1750)頃は、速度標語は基本的になかった。
allegroはその本来の意味の「陽気に」「無鉄砲に」という
"表情標語"だった。
曲の内容と拍子と音符の粗密でおのずと決まったから。
もちろん、ときにより人により、同じ曲でも少しは差が出る。
ともあれ、しょせんはそれで事足りてた程度の時代の音楽なのである。
生前、とても偉大だった大バッハも死(1750年)後すぐに、
その引き出し仕事のような理詰めな作風と辛気くささが仇となって、
すっかり忘れられた存在になってた。18世紀後半から19世紀前四半に
マタイでぞんざいに扱われてた大バッハの権威を再興(1829年)したのが、
大金持ちのユダヤ人で一家をあげてプロテスタントに改宗した
メンデルスゾーン家の上品なイケメンお坊ちゃんフェーリクス君である。

ともあれ、
大バッハの死とバトン・タッチで、
Johann Quantz(ヨーハン・クヴァンツ、1697-1773)が
「フルート奏法試論」を表した。そこで同人は、
「テンポ」の一般的な統一認識を半定義した。
基準となるのは人の「脈拍」である。およそ
「1分間に80ドクン」という認識である。これは、
約半世紀後のメルツェルのメトロノーム開発に繋がった。それはさておき、
(ここでは当時の語と認識をそのまま書くと
煩雑になって理解しにくくなるため、
正確な語を意図的に避けて書くので了承されたい)
"4/4拍子1小節を基準"として、
「1ドクン間に半小節が進む速度=Allegro assai」(四分音符=160)
「1ドクン間に4分の1小節が進む速度=Allegretto」(四分音符=80)
「1ドクン間に8分の1小節が進む速度=Adagio cantabile」(四分音符=40)
「1ドクン間に16分の1小節が進む速度=Adagio assai」(四分音符=20)
という4段階に仕分けした。
近現代の意味でのアッラ・ブレーヴェだと当然ながら、4つはそれぞれ、
「1ドクン間に1小節が進む速度=Allegro assai」(二分音符=160)
「1ドクン間に半小節が進む速度=Allegretto」(二分音符=80)
「1ドクン間に4分の1小節が進む速度=Adagio cantabile」(二分音符=40)
「1ドクン間に8分の1小節が進む速度=Adagio assai」(二分音符=20)
となる。クヴァンツはフリートリヒ大王のお抱え音楽家である。
権威なのである。ここで、
"allegro"は「表情標語"ではなく、"速度標語"に生まれ変わった。
バッハ以降、音楽を担うのはすでにイタリア人ではなくドイツ人になってた。
だから、この時代以降の音楽の"allegro"を
「速く」ではなく「陽気に」だとぬかすのがいても無視していい。
モーツァルトの両ト短調の交響曲の"allegro"を「陽気に」と言いはるのが
愚かしいことを例示するまでもない。
とはいえ、クヴァンツはドイツ人だが、若い時分にイタリアに留学してるので、
実地でイタリア語を身につけてたと思われる。語彙に間違いはない。

このようにして"定義"された速度表示は、
18世紀ドイツ語圏の作曲家に一般化されたが、
そこから派生した速度標語群の中に、
"Allegro di molto"というのがある。
diは英語のof、moltoはmuchにあたるので、
「大盛りのアッレーグロ」といったところである。
ただのアッレーグロより速い。が、
アッレーグロ・アッサイよりは遅い。けっして同じではない。

イタリア語のmoltoはラテン語のmultus(ムルトゥス)が原語である。
multi-(いわゆるマルチ)も同源である。が、これは
multusの複数形からの派生語なので、
「量」の多さよりも「数」の多さの意味合いで、
「複数」「倍」を表すことになった。ともあれ、
multusの比較級はplusである。
multusは量的「附加」「上乗せ」を表すのである。
いっぽう、
イタリア語のassaiはラテン語のad satis(アド・サティス)が語源である。
フランス語ではassez(アセ)となった。ともあれ、
adは「~まで(ここでは容量)」を表す前置詞、
satisは「(容量を満たすほど)充分な」という意味の形容詞の対格。
英語のsatisfy、satisfactionなどはこれから派生した。また同様に、
英語のsate(セイト)は「充分に与える」という意味の動詞である。
そこから「飽きあきさせる」という意味も派生した。ちなみに
tが有声化したsadeも同じ意味であるが、
プロヴァンスの名門貴族の爵名Marquis de Sade(マルキ・ド・サド=サド侯爵)の
sadeも同義である。領地La Costeのコストとは壁・囲い、広さのことで、
範囲を表す。

つまり、
moltoは形容詞(副詞)のあとについて、
そのさまが加重されることを表す。
盛るということである。
「今なら20パーセント増量」
という謳い文句の流通商品と同じである。
けっして「今なら2個おつけします」にはならない。対して、
assaiは形容詞(副詞)のあとについて、
そのさまの極限まで引き伸ばされることを表す。
上記クヴァンツの定義ではallegro assaiもadagio assaiも
極端に速く、あるいは、遅く定義されてる。

さて(sate)、
モーツァルトの「交響曲第40番(ト短調)」(k.550)は4つの楽章から成ってる。
その第1楽章は2/2拍子でMolto allegro、
第4楽章も2/2拍子でAllegro assai、
と表記されてる。ところで、
副詞allegroを修飾するmoltoという副詞が
被修飾語であるallegroの前に置かれる例を
私はモーツァルト以外に見たことがない。同様に、
adagio di moltoではなくMolto adagioというのも、
19世紀後半以降の3流以下の作曲家の曲を除いては、
ベートーヴェンの弦楽四重奏第15番しか知らない。ともあれ、
少年時代にモーツァルトの家に住み込みで修業した
Johan Hummel(ヨーハン・フンメル、1778-1837)がのちに
モーツァルトの「交響曲第40番」を室内楽に編曲したものの
メトロノーム表記見てみると、
Molto allegro:二分音符=108、
Allegro assai:二分音符=152、
となってる。この152という数字は、
クヴァンツの定義に当てハメルと非常に近い。そして、
対比させるように第1楽章は、明らかに、というより、
ことさら終楽章のほうが速いことを示すがごとく、
108という数字で表されてる。これでモーツァルトが意図した
Allegro assaiのアッサイの
熊蜂の飛行がごとき「慌しさ」がよく判る。
ここで、同じくフンメルの
「交響曲第38番」のpf編曲では、その第1楽章の主部を
Allegro:二分音符=88、
「交響曲第41番」のpf編曲では、その第1楽章を
Allegro vivace:二分音符=96、
という整合性のある数字を附してることから、
フンメルが勝手なメトロノーム表示をしたという疑惑は否定されていい。
モーツァルトが意図したテンポからはそうかけ離れてないと思われる。
いっぽうで、同じくフンメル編曲の
「交響曲第41番」の終楽章は、
Molto allegro:二分音符=144、
としてるのである。
これでは一貫性に欠けると主張するむきもあるだろう。が、これは、
第1楽章の主要主題には8分音符を3つに分ける3連符が含まれ、
終楽章の主要主題(いわゆるジュピター音型)の前半(冒頭4楽章)がすべて
全音符であることが関係してるのである。

ちなみに、
フンメルの室内楽編曲版「モーツァルト交響曲第40番」の
第2楽章Andante(6/8拍子)は八分音符=116、
第3楽章Menuetto, Allegroは附点二分音符=76、
と記されてる。トスカニーニのもっともポピュラーな
1950年も含めその他の年の録音すべてが
いかに真っ当だったかがあらためて判る。
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