ナポレオン 手を腹に
[Why had Napoleon made hidden-hand-pose?]
私がガキだった頃、早野凡平という、
「ホンジャマカ帽」芸人がいた。そのネタのひとつが、
「ナポレオン!」である。フェルト生地を
ビコルヌのように形作って頭に掲げるだけのことだったが。
ベートーヴェンはナポレオンに期待してたらしい。で、
"コルシカ"島の物語であるモーツァルトの
「バスティヤンとバスティヤンヌ」序曲の主題を、
「交響曲第3番」の第1楽章の主主題に引用した。
♭3つの「変ホ長調」である。いっぽう、
ナポレオンがロシアに攻め入ってきた故事を扱った
「1812年」を、チャイコフスキーはその調性に倣って
「変ホ長調」を主調として書いた、のではない。
3つのフラットは「至聖三者」である。1812年当時、
「ラ・マルセイエーズ」も「ボージェ、ツァリャー・フラニー」も
それぞれフランスとロシアの国歌ではなかった。が、
この「1812年」という音楽作品においては、
それらがフランスとロシアを表してる。方便である。
チャイコフスキーは「1812年」の中で「ラ・マルセイエーズ」を
「変ホ長調」で登場はさせなかった。最後にようやく、
ナポレオンが敗走する段になってはじめて、
「変ホ長調」で「歌わせた」のである。そして、
「スパスィー、ゴースパヂ、リューヂ・トヴァヤー」が再登場する
「前触れ」に飲みこまれてくのである。ところで、
「国をかけて戦った」といえば、
イチローは「胃潰瘍」になったと伝えられた。ちなみに、
以下、異様に聞こえるかもしれないが、
「ナポレオンはなぜ片手を服の前合せの中につっこんでるのか?」
と、平均的知能・教養程度の人に問うてみれば、そのほとんどが、
「胃潰瘍だったからじゃないの」
と答える。それはともかく、
アブキール湾でフランス海軍が英国のネルスンに大打撃を受けて
エジプトに孤立したときに疥癬にかかって以来痒かったとか、
乳癌で膿が出てたのを押えてたとか、
戦術や旋律を練るさいに一声の対位法なるものを想定してた、
なんて「珍説」もあるようである。いっぽう、
「そのように教育されたから」という
"エチケット"説を唱えるむきもあるらしい。すなわち、
3日後の4月7日が「聖人の日」である
ジャン・バティスト・ドゥ・ラ・サル(1651-1719)の著書、
"Les regles de la bienseance et de la civilite chretienne"
(レ・レーグル・ドゥ・ラ・ビアンセアンス・エ・ドゥ・ラ・スィヴィリテ・クレティヤンヌ)
「礼儀作法とカトリック教義的礼節(タイトル拙大意)」
に書かれてる、のだそうである。この
ドゥ・ラ・サルは、かの「ラ・サール」、つまり、
かつては東大合格人数を、灘・開成と競ってた
鹿児島の「ラ・サール高校」のおおもとである
ラ・サル修道会を設立した人物である。青少年の
「カトリック」教育に力を注いだことで、
聖人に列せられた。たしかに、
コルシカ島の「なりたて」貴族の子弟ナポレオンは、
10歳のときに陸軍幼年学校に入学する直前、
オタンの修道院で「洗練」されるべく「教育」を受けた。が、
それがラ・サール修道院だったかどうかは、
福田沙紀女史と上原多香子女史の声も聞き分けれない
拙脳な私には知る由もない。ただし、ひょっとすると、
その修道院での教育で「ある秘儀」を授けられた、
かもしれない。ちなみに、
そのオタンという町は川越と姉妹都市なんだそうである。
川越が小江戸なら、オタンはコタンではなく
小ローマである。他方、
ジャック・ルイ・ダヴィドが
ロシア遠征前のナポレオンを描いた肖像画がある。現在は、
2枚のうちその主作のほうがワシントンのナショナル・ギャラリにある
"Napoleon dans son cabinet de travail"
(ナポレオン・ダン・ソン・カビネ・ドゥ・トラヴァイユ)
「(テュイルリ宮殿の)執務室のナポレオン」
である。吉本芸人の焼肉屋たむらけんじ
みたいなヘアスタイルのナポレオンが左足を右足の前に出す
モデル様のポウズィングをしてる絵である。そして、
右手は服の前合わせにつっこんでるのである。
「胃潰瘍」だの「皮膚病」だのだったとして、
お抱え画家に肖像画を描かせるのに、
わざわざそんなことを思わせるようなポウズを
するはずもない。逆にいえば、
このポウズをとることは、
「あること」をアピールしてる、と考えれる。すなわち、
「フリーメイスン」のポウズなのだ、と。
片手を懐中に突っ込めば、肩・肘・手先は
コンパスもしくはディヴァイダーのごとき
「三角形」をなす。そして、小手と二の腕はそれぞれ、
四角錘の底辺と側辺である。つまり、
ピラミッドの一部をなしてる、という誇示である。
一般的にはこのポウズはナポレオンの専売みたいに認識されてる、
かもしれないが、けっこうな人物らが、
同様の姿勢をして肖像画を描かせ、写真を撮らせてる。
その筆頭が、アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンである。
やはり、フリーメイスンだった。それから、
カール・マルクス、ヴラヂーミル・ウリヤーノフ(レーニン)という
ロシア革命に関わる人物も、このポウズの写真が残ってる。
ロシア帝国はフリーメイスンの敵だった、
という単純なことでもないかもしれないが、
フリーメイスンもしくはロスチャイルドが、
革命派に資金援助してたようである。また、
晩年のモーツァルトがフリーメイスンに入会し、その秘儀を
「魔笛」でバラしたからバラされた、という説がある。が、
モーツァルトはその父レーオポルトが、
ガチガチのフリーメイスンだった。倅ヴォルフガングが
7歳のときの肖像画は、この
「片手を服の前合わせの中に突っ込んでる」
ポウズで描かれてるのである。さて、
最近では「非フリーメイスン」説がのしてきた
トーマス・グラヴァーであるが、同人と関係が深かった
坂本龍馬にもフリーメイスン説があった。ともあれ、
死の10か月前に長崎の上野彦馬写場で撮らせた
もっともポピュラーな写真では、龍馬は
「右手を懐中に突っ込んでる」
のである。ちなみに、
死ぬまで2日あった中岡の証言は、じつに
奇妙である。「こなくそ」と叫んで
斬りつけてきた、そうである。と証言したということは、
少なくとも「しゃべれた」というのに、
未だに犯人が判らない、ということは、
中岡は犯人が誰かについては言及してなかったか、
知らない人物だったか、何らかの理由で言えなかったか、
または、言ったのを聞きとった者が隠したか、
である。いずれにしても、敵を多く作りすぎたきに、
殺害状況がどんなに奇矯なものでも桔梗紋だったとしても、
「龍馬暗殺」は起コルシカなかったのである。
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