旧暦で2月の呼称を「きさらぎ」と言った。それを
現行暦の2月にあてはめるのは筋が違うことは、
<寒さで着物を更に重ねて着ることから
「着更着(きさらぎ)」とする説が有力とされる>
という"後附け"理屈がまかりとおってることでも解る。
旧暦の2月は、ほぼ現在の3月の頃である。
<暖かくなりかけてたのに寒さが戻って重ね着をする>
という奇怪な説明である。といって、
「きさらぎ」の語源が何であるか、
女優松永京子女史とユン・ソナ女史の顔の区別が
6回に1度はつかなくなる拙脳なる私に
解るはずもない。一説に、こうある。
中国の歴史書「魏略」の"倭人"に関する記述に、
「其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀」、つまり、
倭人の風習では四季で一年ということを知らないから、
春の田植え時期と秋の収穫でそれぞれ年を加算する、
すなわち、秋の8月で1歳、春の2月でまた1歳、と数える、
というものがある。まぁ、それはそれでいいかもしれないが、
少し勘違いがある。当時の中国が日本と思ってたのは
九州なのかもしれない。だとしたら、
当時の九州では台風を避けるために、
二期作だったのである。
ところで、
現在の千葉県、かつての上総国に、
木更津(きさらづ)という寂れた港町がある。
「【君去らず】。袖しが浦に、立つ波の、その面影を、見るぞ悲しき」
日本武尊が自分の犠牲になって江戸湾に沈んだ
最愛の女性へのメモリーを詠んだとされる歌である。
「日本書紀」によれば、日本武尊が東征に赴いたおり、
走水(はしりみず)の海(=現在の横須賀市観音崎前の海)を渡って
上総に向かおうとしたとき、
その軽はずみな言動が海神の怒りをかってしまった。
今ではその「狭さ」と浅さが航行を困難にしてる
浦賀水道である。が、ヤマトタケルは、
「こんな狭い海など一っ飛び」
という軽口を叩いてしまったのである。
海は荒れて渡航不能に陥る。そこで、
日本武尊の妃である弟橘媛(おとたちばなひめ)が、
人身御供となって(孫悟空とはならなくてよかった)
入水したのである。すると、凪って海は穏やかになり、
出航することができたのである。そして、
弟橘媛の袖が流れ着いた浦が袖ヶ浦となったのである。いっぽう、
7日後に弟橘媛の櫛が木更津に流れ着いた。ちなみに、
「古事記」では、イザナギ命は死んだ妻のイザナミ命に会いに
黄泉の国に向かうが、決して覗いてはならないという
鶴のようなイザナミとの約束を破ったイザナギは、
イザナミの醜い姿を見てしまう。その姿に
恐れをなしたイザナギは逃げ出すのだが、あとを
イザナミやその取り巻きが追ってくる。イザナギは
櫛から生まれた筍を投げつけて"追っ手"から逃れる。ときに、
その筍は孟宗竹である。筍の"旬"は現在の4月から5月であるが、
3月(旧暦の「如月」)のコロモすでに出始める。そして、その形状は、
何枚も皮を着たようになってる。なるほど、たしかに
【着更着】である。噺を戻すと、
<弟橘姫は浪の上に菅畳八重、皮畳八重、絁畳八重を敷いて、
その上に座って入水した>
ということである。何やら、
"ミルフィーユ"状のものが強調された噺なのである。
日本武尊の子である仲哀天皇が崩御するのも
「2月」。その次代である応神天皇の崩御も
「2月」。仲哀天皇の妃、神功皇后が
墨江三神の教示により三神の和魂を
大津の渟中倉の長狭(現在の大阪市住吉大社)に鎮め、
往来する船の守護を願った、ということから
住吉神社が成立したのである。つまり、
「荒海を鎮める」ということである。上記が書かれてるのは、
「日本書紀」の神功皇后摂政元年(西暦200年相当)の
「2月」。
さて、
今日は旧暦の1月7日。七草の日である。
「君がため、春の野に出でて、若菜つむ、わが衣手に、雪は降りつつ」
という「古今集」に撰ばれてる歌である。
(拙大意)あなたのために、春の野に出かけて、春の野七草を摘んでる、
私の袖に、雪が降り、雪が降りと、降りつづけてることだ。
「百人一首」の#015に採られてるこの歌は、55歳で天皇になった
光孝天皇(830-887)が皇子時代に詠ったとされてるものである。
光孝天皇は自ら料理をしたらしい。
七草粥を愛しい女性に作ってあげたのかもしれない。
男女機会均等同権の現代ならば、
カユいところに手が届くいい旦那さん、となったことであろう。
ともあれ、
「百人一首」15番の歌の「雪」は"春"の「雪」である。ちなみに、
「百人一首」には8天皇の歌が撰ばれてる。その中で、
院号ではなく天皇の名で採られてるのは、
天智・持統の父娘両天皇、そして、光孝天皇、の3帝のみである。
01番)"秋"の田の、かり穂の庵の、苫をあらみ、わが【衣】手は、露に濡れつつ
02番)"春"すぎて、"夏"来にけらし。白妙の、【衣】ほすてふ、天の香具山
15番)君がため、"春"の野に出でて、若菜つむ、わが【衣】手に、雪は降りつつ
【衣】が共通してるのである。
「衣」という漢字は両腕と背中の
三方からエリを隠す布の象形だという。いっぽう、
三首に共通するのは、"春夏秋"という四季である。
冬だけない。が、
上記三首、とくに光孝天皇の歌と多くの
『共通項』を持つ山辺赤人の歌が補完されてるのである。
04番)田子の浦に、うち『出でて』みれば、『白妙』の、富士の高嶺に、『雪は降り『つつ』』
「秋風乃、寒朝開乎、佐農能岡、将超公尓、【衣】借益矣」
ところで、
「百人一首」の#042の清原元輔の歌は、
「契りきな。かたみに袖を、絞りつつ、末の松山、波越さじとは」
である。袖、という、衣、の一部が出てくるのである。ちなみに、
末の松山、塩釜、多賀城、などはほとんど同じ地にある。さらに、
#065の歌は、
「恨みわび、ほさぬ袖だに、あるものを、恋に朽ちなむ、名こそ惜しけれ」
(拙大意)恨む気もなえてしまい、涙を乾かす暇もない袖さえ惜しいのに、
まして、この失恋でへこんでしまったという
浮名を流して評判を落としてしまったことが悔やまれることだわ。
これを詠んだのは、大江公資の妻である。大江公資は
相模守だったので、この夫人は
「相模」と呼ばれてる。日本武尊が駿河から向かったのは
相模。そして、相模の走水で最愛の妃を失うのである。他に、
「一首」の中で「袖」が入ってる歌は、
#072、#090、#092、#095、などがある。
#090で詠われてる「雄島」はやはり塩釜近く、
松島湾に浮かぶ島である。いっぽう、
「衣」が入ってる歌は他に、
#091と#094がある。
「日本書紀」においては、日本武尊はその東征において、
倭→伊勢→駿河→相模走水→上総→陸奥、と進み、蝦夷と戦った。
「百人一首」の#[014]であり、「百人秀歌」では#0017となり、
「一首」#[015]で「秀歌」では#0018となった光孝天皇の歌と並べられたのは、
「陸奥の、シノブもぢずり、誰ゆゑに、乱れソメにし。我ならなくに」
(拙大意)みちのくのシノブ(信夫、にもかけてる)モジズリという、
現在の福島県の信夫の特産だった乱れ模様の擦り衣ではないが、
誰のために、心がこれほど乱れはじめてしまったのだろうか、
私のせいではないのに(あなたのせいにきまってるじゃないか)。
という、河原左大臣(かはらのさだいじん)の歌である。
河原左大臣とは、嵯峨天皇の皇子で臣籍降下した源融のことである。
塩釜の風景を模して作庭した六条河原院を造営し住んでたので
河原左大臣と呼ばれた。ちなみに、
Vestaはローマ神話のカマドの女神である。いっぽう、
vesteは衣裳を表すラテン語系の語である。それはともあれ、
源融の子孫には、慶應女子高がある三田の綱坂の名のもとになった
源(渡辺)綱、平戸を領した松浦家、筑後の蒲池家(歌手の松田聖子も一族)、
などがある。そして、
源融は紫式部の「源氏物語」の「光源氏」のモデルと言われてる。
陽成天皇が藤原基経に退位を迫られて譲位した際、
「如何は。近き皇胤をたづねば融らもはべるは」
と、その塩竃ではなく後釜に名乗りをあげた。もちろん、
基経に臣籍降下した者は帝になれないと突っぱねられた。が、
基経自身は臣籍降下して源定省となってた宇多天皇を担いだ。が、
基経は宇多天皇に対しても自分の権力を思い知らせるために、
出仕せず「関白」にいちゃもんをつける
アコウ事件を起こした。
「ちっ、うぜぇーな。ウダウダ言ってんじゃねぇよ」
ってなもんである。
ちなみに、
仲哀天皇は第[14]代天皇、
応神天皇は第[15]代天皇、である。
現行暦の2月にあてはめるのは筋が違うことは、
<寒さで着物を更に重ねて着ることから
「着更着(きさらぎ)」とする説が有力とされる>
という"後附け"理屈がまかりとおってることでも解る。
旧暦の2月は、ほぼ現在の3月の頃である。
<暖かくなりかけてたのに寒さが戻って重ね着をする>
という奇怪な説明である。といって、
「きさらぎ」の語源が何であるか、
女優松永京子女史とユン・ソナ女史の顔の区別が
6回に1度はつかなくなる拙脳なる私に
解るはずもない。一説に、こうある。
中国の歴史書「魏略」の"倭人"に関する記述に、
「其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀」、つまり、
倭人の風習では四季で一年ということを知らないから、
春の田植え時期と秋の収穫でそれぞれ年を加算する、
すなわち、秋の8月で1歳、春の2月でまた1歳、と数える、
というものがある。まぁ、それはそれでいいかもしれないが、
少し勘違いがある。当時の中国が日本と思ってたのは
九州なのかもしれない。だとしたら、
当時の九州では台風を避けるために、
二期作だったのである。
ところで、
現在の千葉県、かつての上総国に、
木更津(きさらづ)という寂れた港町がある。
「【君去らず】。袖しが浦に、立つ波の、その面影を、見るぞ悲しき」
日本武尊が自分の犠牲になって江戸湾に沈んだ
最愛の女性へのメモリーを詠んだとされる歌である。
「日本書紀」によれば、日本武尊が東征に赴いたおり、
走水(はしりみず)の海(=現在の横須賀市観音崎前の海)を渡って
上総に向かおうとしたとき、
その軽はずみな言動が海神の怒りをかってしまった。
今ではその「狭さ」と浅さが航行を困難にしてる
浦賀水道である。が、ヤマトタケルは、
「こんな狭い海など一っ飛び」
という軽口を叩いてしまったのである。
海は荒れて渡航不能に陥る。そこで、
日本武尊の妃である弟橘媛(おとたちばなひめ)が、
人身御供となって(孫悟空とはならなくてよかった)
入水したのである。すると、凪って海は穏やかになり、
出航することができたのである。そして、
弟橘媛の袖が流れ着いた浦が袖ヶ浦となったのである。いっぽう、
7日後に弟橘媛の櫛が木更津に流れ着いた。ちなみに、
「古事記」では、イザナギ命は死んだ妻のイザナミ命に会いに
黄泉の国に向かうが、決して覗いてはならないという
鶴のようなイザナミとの約束を破ったイザナギは、
イザナミの醜い姿を見てしまう。その姿に
恐れをなしたイザナギは逃げ出すのだが、あとを
イザナミやその取り巻きが追ってくる。イザナギは
櫛から生まれた筍を投げつけて"追っ手"から逃れる。ときに、
その筍は孟宗竹である。筍の"旬"は現在の4月から5月であるが、
3月(旧暦の「如月」)のコロモすでに出始める。そして、その形状は、
何枚も皮を着たようになってる。なるほど、たしかに
【着更着】である。噺を戻すと、
<弟橘姫は浪の上に菅畳八重、皮畳八重、絁畳八重を敷いて、
その上に座って入水した>
ということである。何やら、
"ミルフィーユ"状のものが強調された噺なのである。
日本武尊の子である仲哀天皇が崩御するのも
「2月」。その次代である応神天皇の崩御も
「2月」。仲哀天皇の妃、神功皇后が
墨江三神の教示により三神の和魂を
大津の渟中倉の長狭(現在の大阪市住吉大社)に鎮め、
往来する船の守護を願った、ということから
住吉神社が成立したのである。つまり、
「荒海を鎮める」ということである。上記が書かれてるのは、
「日本書紀」の神功皇后摂政元年(西暦200年相当)の
「2月」。
さて、
今日は旧暦の1月7日。七草の日である。
「君がため、春の野に出でて、若菜つむ、わが衣手に、雪は降りつつ」
という「古今集」に撰ばれてる歌である。
(拙大意)あなたのために、春の野に出かけて、春の野七草を摘んでる、
私の袖に、雪が降り、雪が降りと、降りつづけてることだ。
「百人一首」の#015に採られてるこの歌は、55歳で天皇になった
光孝天皇(830-887)が皇子時代に詠ったとされてるものである。
光孝天皇は自ら料理をしたらしい。
七草粥を愛しい女性に作ってあげたのかもしれない。
男女機会均等同権の現代ならば、
カユいところに手が届くいい旦那さん、となったことであろう。
ともあれ、
「百人一首」15番の歌の「雪」は"春"の「雪」である。ちなみに、
「百人一首」には8天皇の歌が撰ばれてる。その中で、
院号ではなく天皇の名で採られてるのは、
天智・持統の父娘両天皇、そして、光孝天皇、の3帝のみである。
01番)"秋"の田の、かり穂の庵の、苫をあらみ、わが【衣】手は、露に濡れつつ
02番)"春"すぎて、"夏"来にけらし。白妙の、【衣】ほすてふ、天の香具山
15番)君がため、"春"の野に出でて、若菜つむ、わが【衣】手に、雪は降りつつ
【衣】が共通してるのである。
「衣」という漢字は両腕と背中の
三方からエリを隠す布の象形だという。いっぽう、
三首に共通するのは、"春夏秋"という四季である。
冬だけない。が、
上記三首、とくに光孝天皇の歌と多くの
『共通項』を持つ山辺赤人の歌が補完されてるのである。
04番)田子の浦に、うち『出でて』みれば、『白妙』の、富士の高嶺に、『雪は降り『つつ』』
「秋風乃、寒朝開乎、佐農能岡、将超公尓、【衣】借益矣」
ところで、
「百人一首」の#042の清原元輔の歌は、
「契りきな。かたみに袖を、絞りつつ、末の松山、波越さじとは」
である。袖、という、衣、の一部が出てくるのである。ちなみに、
末の松山、塩釜、多賀城、などはほとんど同じ地にある。さらに、
#065の歌は、
「恨みわび、ほさぬ袖だに、あるものを、恋に朽ちなむ、名こそ惜しけれ」
(拙大意)恨む気もなえてしまい、涙を乾かす暇もない袖さえ惜しいのに、
まして、この失恋でへこんでしまったという
浮名を流して評判を落としてしまったことが悔やまれることだわ。
これを詠んだのは、大江公資の妻である。大江公資は
相模守だったので、この夫人は
「相模」と呼ばれてる。日本武尊が駿河から向かったのは
相模。そして、相模の走水で最愛の妃を失うのである。他に、
「一首」の中で「袖」が入ってる歌は、
#072、#090、#092、#095、などがある。
#090で詠われてる「雄島」はやはり塩釜近く、
松島湾に浮かぶ島である。いっぽう、
「衣」が入ってる歌は他に、
#091と#094がある。
「日本書紀」においては、日本武尊はその東征において、
倭→伊勢→駿河→相模走水→上総→陸奥、と進み、蝦夷と戦った。
「百人一首」の#[014]であり、「百人秀歌」では#0017となり、
「一首」#[015]で「秀歌」では#0018となった光孝天皇の歌と並べられたのは、
「陸奥の、シノブもぢずり、誰ゆゑに、乱れソメにし。我ならなくに」
(拙大意)みちのくのシノブ(信夫、にもかけてる)モジズリという、
現在の福島県の信夫の特産だった乱れ模様の擦り衣ではないが、
誰のために、心がこれほど乱れはじめてしまったのだろうか、
私のせいではないのに(あなたのせいにきまってるじゃないか)。
という、河原左大臣(かはらのさだいじん)の歌である。
河原左大臣とは、嵯峨天皇の皇子で臣籍降下した源融のことである。
塩釜の風景を模して作庭した六条河原院を造営し住んでたので
河原左大臣と呼ばれた。ちなみに、
Vestaはローマ神話のカマドの女神である。いっぽう、
vesteは衣裳を表すラテン語系の語である。それはともあれ、
源融の子孫には、慶應女子高がある三田の綱坂の名のもとになった
源(渡辺)綱、平戸を領した松浦家、筑後の蒲池家(歌手の松田聖子も一族)、
などがある。そして、
源融は紫式部の「源氏物語」の「光源氏」のモデルと言われてる。
陽成天皇が藤原基経に退位を迫られて譲位した際、
「如何は。近き皇胤をたづねば融らもはべるは」
と、その塩竃ではなく後釜に名乗りをあげた。もちろん、
基経に臣籍降下した者は帝になれないと突っぱねられた。が、
基経自身は臣籍降下して源定省となってた宇多天皇を担いだ。が、
基経は宇多天皇に対しても自分の権力を思い知らせるために、
出仕せず「関白」にいちゃもんをつける
アコウ事件を起こした。
「ちっ、うぜぇーな。ウダウダ言ってんじゃねぇよ」
ってなもんである。
ちなみに、
仲哀天皇は第[14]代天皇、
応神天皇は第[15]代天皇、である。
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