チャイコフスキー 1812年
昔は、
[風が吹けば桶屋が儲かる]
と言ったらしい。が、
昨今は黄砂を運ぶ西風が吹くと、
民主党が原発廃止という風潮を演出する
→ヒューマニスト、エコロジスト、左翼活動家、そのシンパなどが
ブログやツイッターで「原発廃止」を唱えたりデモをしたりする
→政治的にノンポリな一般的な人たちにも原発は悪だという思想誘導がなされる
→原発は確実に廃止されるという一般認識が定着する
→停電にされたら商売あがったりな企業がさらに国外に生産工場を移す
→国内雇用が減る
→GDPがさがる
→日本がさらに中国その他のアジア諸国より国力が下になる
→中国あるいは南北朝鮮のために働くなりすまし日本人政治家の思惑どおりになる
日本の危機は今まさにここにある。
やつらが本気で「復興」などするはずがない。なにしろ、
他国のために働くなりすまし日本人政党なのだから。
ナポレオンがロスィアに攻めてきた、どころではない。
チャイコフスキーの「1812年」は、
A=ラールゴ、3/4、3♭、「ロシア正教聖歌」
B=アンダーンテ、4/4、3♭、「進軍ラッパ」
C=アッレーグロ・ジュストのソナータ、4/4、6♭
第1主題
推移部挿入=「ラ・マルセイエーズ」
第2主題=破棄したオペラ「地方長官」の二重唱
第3主題=ロシア民謡「門の前で」
A´=ラールゴ、3/4、3♭、「ロシア正教聖歌」
B´=アッレーグロ・ヴィヴァーチェ、4/4、3♭、
「進軍ラッパ」「ロシア帝国国家」
という構成になってる。
このC部「ソナータ形式」の第2主題提示後半=
[Allegro giusto(アッレーグロ・ジュスト)、4分音符=138、4/4拍子、6♯]
(提示前半は調号どおりの嬰ヘ長調、後半は実質ト長調)
***♪……ソー│
<ラー・<ドー、・・>シー・>ラ>ソ、│
<『ドー・ーー』・・【ーー、(このドをシと置き換えて)シー】│
<ドー・>シー、・・シー・>ラー、│
ラー・<シー、・・シー・<ドー、│
ドー・>ソー、・・ソー・>ファー、│
ファ>ミ・<ラ>ソ・・>レー、<ソー│
<ドー・>シー、・・シー・>ラー、│
ラー・<シー、・・シー・<ドー♪
この第2主題前半の最後の小節の『前半』は、
木管群とホルン4管による『嬰ヘ長調の主和音』の2分音符、
という和音である。それが一転、
【後半(第3拍、第4拍)】に、
【ト長調の属7】の2分音符が吹奏され、第4拍から、
両翼vnとヴィオーラによる3オクターヴにわたるユニゾンの主題が
ト長調に転調されて歌われるのである。
[fis(嬰ヘ=ド)-ais(嬰イ=ミ)-cis(嬰ハ=ソ)](『嬰ヘ長調の主和音』)
→
[a(イ=レ)-c(ハ=ファ)-d(ニ=ソ)](【ト長調の属7】/第4拍に弦がfis(嬰ヘ=シ)を加える)
何の変哲もない和音と和音が繋がれてるだけなのに、
山頂に達して急に眼前に壮大な景観が開けたような、
脳が激しく揺さぶられるような感動が呼び起こされる。
チャイコフスキーの卓越した和声センスのなせる技である。
ト長調に替わっても、ここからもまた、
4拍子の前半2拍を「主和音」、後半2拍を「属7」、
という同型反復が重ねられる。ここでは、
第1ホルンの[ミー・ーー・・<ファー・ーー│>ミー・ーー・・<ファー・ーー]
という高音の響きがとくに効いてる。また、
この[前半2拍-後半2拍]という対称が、
旋律を弾く弦のボウイング(アーティキュレイション)が
前半2拍と後半2拍がそれぞれひとまとめにされてることも、
音楽の天分に恵まれたチャイコフスキーの策である。さらに、
前半は4拍のうちの第1拍だけに弱く打たれてた
[●ー・○○・・○○・○○]トライアングルが、後半からは、
[●ー・●●・・●ー・○○]というリズムで強く鳴らされる。
打楽器使いの名人チャイコフスキーの舌を巻く律動センスである。
ところが、
4分音符が2拍ずつに分けられてきた旋律が、
[《ファ》>ミ・<ラ>ソ・・>レー]の箇所でそれまでの
「まとまり」が破られる。そして、
その《ファ》が主和音の中で倚音効果を遺憾なく発揮するのである。
そこでまたさらに音楽を解する者たちの涙腺を緩ませるのである。さらに、
トライアングルにも強拍と中強拍だけに控えさせる、という
チャイコフスキーの気配りにとことん感嘆するのである。
ちなみに、
この第2主題では巷の指揮者なる者のほとんどが
テンポをかなり遅くしてしまう。が、
旋律の美しさだけでなく、和声による効果、さらに
律動にまで充分な配慮がされてることに気がつけば、
それが如何に愚かなことかが解るというものである。
遅くしてはこの律動感が著しく損なわれてしまうのである。
チャイコフススキーがこの第2主題が始まる箇所に「わざわざ」
[L'istesso tempo(リステッソ・テンポ=これまでと同じ速度で)]
(行き届かない神経の指揮者にも解るように言い換えれば、
「ここで遅くなんかするんじゃねぇぞ、このドアホウ」という意味である)
と記してることに何の注意も払わないお気楽な神経の持ち主が
音楽演奏に関わること自体、本来あってはならないことである。
一部に、
芸術作品はその意図や真理を追究しないで
ただ自分の感じたまま鑑賞すればいい、とか、
「音楽」はその"字の如く"「音を楽しむ」もの、
などという思慮に足りないことを言い張るむきがある。
最高の料理を味わうときに、
器や盛りつけなどどうでもいい、味がいいのだから、といって、
便器の中にぶちまけてごちゃまぜにしてそこに顔をつっこんで
口をとがらせて吸いとるようなものである。そういう輩は、
「楽」の字源を考えることもなく、短絡にそういう先入観を動員し、
音楽に正しい聴きかたなどない、という。
とんでもない。音楽には正しい聴きかたがある。いや、
正しい聴きかた以外では聴いたことにはならない。
もちろん、
お気楽な聴衆は音楽を"楽し"めばいい。が、
そんなむきには本来、音楽など必要ないのである。
真の音楽はただ美しいだけのものでも、ただ楽しいだけのものでもない。
感動するものである。
再現者は正しく聴衆を感動させなければいけない。
それから、
福島原発事故が菅の見栄と不手際によるものとはいえ、震災後に
放射線風評で来日をキャンセルした演奏家どもを、私はけっして忘れない。いっぽう、
スィンディ・ローパー女史、レイディ・ガガ女史、ジェイン・バーキン女史、
プラシド・ドミンゴ、バルバラ・フリットリ女史、ファービオ・ルイーズィ、など、
真の演奏家・歌謡歌手を日本人音楽ファンは見極めるべきである。
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