チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「大津事件、津田三蔵、織田信長、藤堂和泉守、御殿医、東大医学部」

2012年07月22日 23時02分22秒 | 歴史ーランド・邪図
昨日は大江戸探検隊の例会で、
豊島区駒込4丁目、台東区台東3丁目、千代田区神田和泉町、
墨田区両国1丁目、という場所を巡ってきた。
総理官邸前や代々木公園にはもちろん行ってない。
やや涼しかったが我々はブーデーが多いので、
"たかがガソリン"である、各車はエアコンをギンギンに入れたままだった。
昨夏、節電といってケチって熱中症死した人はいくらかいたが、
福島原発放射線被曝で死んだ人はおそらくまだ1人もいないと思う。
最近、大飯原発ではなく悠長に飛騨を遊山で訪れたという坂本龍一は、
キーボードを人力発電でまかなってみたらどうだろう。たしか、
NY市への電力供給の3割は原発だったと思うが、
NY市在住の坂本龍一はロングアイランドの風力発電の電力を買ってる、
のだという。てめぇだけは原発の電気は使わないとしても、
こいつがNYや米国の原発に抗議したとか、
NYへの原発電力供給に反対したとかいう話は聞いたことがない。
NYでセレブな生活を送ってるとそこここに
「日本製」の優れた電化製品が溢れてる、と宣う。
原発という電力の安定供給があったことで開発できた製品を
讃えるその舌の根の乾かぬうちに
そういった企業の首を絞めることになる原発再稼働を悪く言う、
支離滅裂な思考回路である。
日帝に協力したかどで囚人生活を送った溥儀の生涯を描いた
「(邦題)ラストエンペラー」に制作"協力"した"功績"で
アカデミー"作曲"賞を授与されたときも拒否せず、同じく原発大国である
フランス共和国から"芸術文化勲章"を下されたときにも
辞退することもなく嬉々として授かった御仁である。
大江健三郎は日本と真の日本国民を"侮辱"することに
ショウガイをとおして血道を上げてきたことが"世界的評価"を得たり、
音羽村の出版社に"受賞プロジェクト"を立ち上げさせるほどの圧力をかけて
選考委員らへの大ロビー活動をさせるようなことをするまでもなく、
ハエあるノーベル文学賞をその素晴らしい作品の正当なる評価で受賞した
"この国が誇る世界的大作家"先生である。ところで、
こいつが生まれた伊予国喜多郡大瀬村(現在の内子町)は、
徳川政権最初期には大洲城主藤堂高虎の所領だった。戦後まで
楮・三椏など和紙の材料となる木の集散地であり、
この野郎の家もその問屋として羽振りが良かった。
昭和10年生まれだが終戦の10歳まで一切戦禍にみまわれず、
父親も徴集されず、空襲されるような街でもなかったので、
戦争被害にはまったく遭ってない。
異国の地へ過酷な従軍をしてた国民とその家族や、
空襲で機銃掃射に遭い、または焼夷弾の熱の苦しみの中で息絶えてった人や
家を焼かれて行き場を失った人が大勢いた中、
こいつら一家は戦時中を愛媛の田舎でぬくぬくと過ごしてたのである。
そんな輩が「反戦」「反核兵器」「反原発」などとは
犠牲になった人々に対して無礼である。
障害ある倅の愚にも付かない"音楽作品"なるものを売り出させ、
てめぇは世田谷区成城4丁目、小田急成城学園前駅から徒歩8分の
豪邸(しかも屋根は美観を損ねるソウラーパネルではない)で
のうのうとセレブ生活を満喫しながら"民衆"を騙るなど、
国民を侮辱しバカにすること甚だしい。といっても、
マチュピチュとキャリーパミュパミュの違いがいまひとつ判らない
拙脳なる私の感想にすぎないが。

そもそも日本が電気を原発に多く依存してるのは
戦勝国米国の意向だから、それに従うしかないからである。
オスプレイ配備も同じことである。イヤだったら
戦略国家中国や極東ロシアの核兵器に丸裸でさらされてればいい。
人口比で100倍以上もあった"漢民族"が
"少数民族"だった満州族に支配されてもそれに従ったのは、
国民はたとえ搾取される立場でも、漢民族の官吏は
"特権階級"のままだったからである。実際に国を運営するのは
高級官吏だということは、民主党の、とくにミスター年金大先生の
長妻昭がいやというほど思い知ったことである。
敗戦国は言いなりになるしか生きる道がない。
いじめにあってる小学生でもわかる簡単なことである。
敗者が勝者に楯突けばすなわち一掃されることを意味する。
米国は日本を追い詰めて戦争に導いたし、
空襲で民間人無差別爆撃をしたし、原爆も落としたが、
対ソ政策とはいえ、日本を玉砕はさせなかったし、
天皇制(これをなくすことがすなわち日本の終焉ということを
理解してない"国民"は7割はいる)をそのままにしたし、
戦後の復興の手助けをした。
(経済)奴隷にしては厚遇だと思わざるをえない。
金曜の夜に徒党を組んで野田に抗議行動をするのも
生活に余裕があってお気楽でいいが、
道路交通上迷惑であり、それ以上に事の根本を理解してない。
そんな程度のオツムのものが何をしても所詮は無為である。
そんなに原発がイヤなら米国と一戦構えるのが筋である。そうすれば、
そうしたデモを煽動してる輩どもが
"母国"日本よりシンパシーを感じてるらしい中露朝が喜ぶぞ。
大津市の中学生も自分より強い3人に逆らえないから、
殴られても金品をせがまれても虫の死骸を食わされても
万引きを強要されてもオナニーを強制されても
パンツごとズボンをおろされても、従ってたのである。
そうした反社会勢力の人権を手厚く保護する非日思想一派が
行政機構の中に黴のように入り込んでるから
被害者はどうすることもできない。いやなら
相手と(暴力的な意味で)戦って勝つしかない。よく、
「いじめはどこにでもある」「いじめというものはなくならない」
などと言うむきがあるが、それは野放しにされるからである。
現にいじめがおこなわれてたときは何もしなかった者どもが
被害者が亡くなってしまった今になってから騒ぎだしても遅い。
自殺強要ではなく実際に手を下した他殺だったという説もあるらしい。
こうしたことまでする者はけっして更正しない。
言ってきかせて解る者ならはじめから一線を越えることはしない。
厳罰に処するしか道はないのに、人権とか将来性などといって
殺人鬼を野放しにする"善良な市民ども"のほうも怖い。
こうした殺人鬼は殺してもせいぜい数人だから、
自分と身のまわりに害が及ばなければ
ほっとけばいい程度にしか考えてないのである。が、
こういう輩はスターリンや毛沢東になる可能性が大きい、
ことを忘れてはならない。少年法を頑なに護りたいなら、
親・保護者・法定代理人を厳罰に処するようにすべきなのである。
大津市の公立中学では韓国語の授業を必須としてる、という。
その担当がいじめ事件当事者の担任だったというのだから呆れる。
そんなことを授業で教えるくらいなら、
道徳や基礎的な法律、交通法規などを取りあげるべきである。

先週は三重県津市の公立小学校でいじめ事件への対応に追われてた
54歳の校長が自殺した。いじめ事件とその自殺の
"因果関係は例によって不明"らしい。ときに、
「津」といえば、明治24年に日本を訪問してた(当時の)ロシア帝国皇太子
ニコライが警護の警察官にサーベルで斬りつけられたが、その警官は
伊勢国津城主藤堂家の御殿医の家に生まれた
津田三蔵(つだ・さんぞう、安政元年-明治24年)である。
安政元年(西暦1854年乃至1855年)生まれであって
万延元年(西暦1860年乃至1861年)ではないので、
アソウスィエイション・フットボールは嗜んでなかったかもしれない。
5月11日、ニコライとその従兄弟のギリシャ王子ゲオルギオスを
琵琶湖に歓待した滋賀県は、
県庁から旅館京都常磐(現在の京都ホテルオークラ)に戻る
ニコライとゲオルギオス、その接待係である有栖川宮威仁親王たちを、
馬場停車場(現在の膳所駅)までそれぞれ人力車で送らせた。
その"隊列"は、第1車が京都府警警部、第2車が滋賀県警警部、
第3車が滋賀県知事、第4車が宮内省特別御用掛万里小路通房、
第5車がニコライ、第6車がゲオルギオス、第7車が威仁親王、
第8車が内舎人、以下、ニコライの随行員、陸軍中将川上操六、
滋賀県警本部長、大津町議会議員など、100台以上が続く、
といったものだった。が、第4車までは
とっとと走り出してしまい、第5車のニコライ以下の
"第2集団"とは50mも間隔が開いてしまったという。ともあれ、
このルートの途中である下小唐崎町(しもこがらさきちょう)に
ニコライを乗せた人力車が差しかかった。そこには、
津田三蔵が警備の応援で配備されてた。それも、名字が同じ
「津田」岩次郎宅前だった。
津田三蔵はニコライに敬礼をした。が、
おろしたその手をサーベルの柄にかけ、抜いてニコライに走り寄った。そして、
斬りかかったのである。車を引いてる車夫は気づかず、
右後ろを押してた車夫が津田の脇腹を小突いた。
引いてた車夫が車を止め、ニコライは車から飛び降りた。
津田はニコライを追いかけたが、ニコライの車の左後ろを押してた車夫と
後続のゲオルギオスが津田を追った。ゲオルギオスが
県庁内の物産展所で土産に買ったばかりの竹杖で
津田の後頭部を殴りつけた。同時に、
ニコライの車の左後ろを押してた車夫が津田の足を取って
前のめりに転ばせた。そのはずみで津田が落としたサーベルを、
ゲオルギオスの車の後押しをしてた車夫が拾い上げた。そして、
津田の背を二太刀斬りつけた。そこにやっと、
第2車の滋賀県警警部が戻ってきて津田に馬乗りになって取り押さえた。
捕縄された津田は捕縄した巡査がたまたま泊まってた
家の裏の土蔵に連れていかれた。
ロシア公使が巡査にこの凶漢は何者だと問うように要請すると、津田は、
「元藤堂和泉守の藩士」と答えたという。
この言いかたには怪訝感を禁じ得ない。
「元」ではなく「旧」であり、「藩士」ではなく「家中」である。ただし、
津田は真正なる武士ではないし、幕末の人間なので、
そう言ったのかもしれない。ともあれ、
ロシア公使に「藩士」の意味は解らないと思った巡査が、
「昔の侍です」と補ったという。

津田三蔵は幕末の安政元年に江戸の
下谷窪町(現在の台東区台東3丁目。日比谷線仲御徒町駅東)の
津藩藤堂家中屋敷に藩医津田長庵の次男として生まれた。が、
長庵が勘気をこうむって隠居を申し付けられ、
藤堂家の領地内の伊賀上野に転居させられた。そこで
三蔵は育ち、藩校に通い、13歳で維新を向かえた。
明治4年に徴集され、同10年の西南の役に従軍し、勲章を受けた。
同15年に徴兵の期間が満了して除隊し、地元三重県警の巡査となった。
すぐに辞めたが、また巡査に復し、その間に結婚した。が、
同18年に横暴な上司を同僚巡査と暴行しようとして罷免される。
旧藤堂家家中で大尉となってた人物の口利きで4か月後に
また巡査に復帰したが、今度は滋賀県警の水口署に配された。そして、
速水署を経て守口署勤務となり、勤務態度良好で慰労金を下された。
倹約のために付き合いはよくなく、上野で単身暮らしてる老母への
仕送り以外は貯蓄に努めてたらしい。そして、
ニコライ警護の応援に駆り出されたことを「栄誉」に感じてたらしい。
そんな津田がなぜ凶行に及んだのか、数度にわたる取り調べでも
そのことになると津田の口はつぐみ、あるいははぐらかしたという。
名探偵湖南でも解明できない犯行動機である。おそらくは、
津田の敬礼に対してニコライが不遜な態度をとった
(と津田が思いこんだ)ことに、にわかにキレたのだろうが、
CIAに操られてレノンを射殺したマーク・チャプマンのごとき
不審な言動である。ちなみに、
津田を取り押さえる際に貢献したふたりの車夫、
向畑治三郎(さきはた・じさぶろう、ニコライの車の後部を押す役)と
北賀市市太郎(きたがいち・いちたろう、ゲオルギオスの後押し役)は、
一週間後に神戸停泊中の御召艦にニコライから招待されて大歓迎を受け、
勲章を下されたうえに、
2000円の報奨金と莫大な終身年金1000円を与えられたのである。
明治政府からも勲章とロシアの30分の1の年金38円が下された。当時、
津田の巡査初任月給が8円の時代である。が、
実際にはそれぞれの住居の県知事が管理して自由に使えなかった。
独身だった北賀市は嫁になりたいという女性が殺到した。
故郷の石川県江沼郡(現在の加賀市)に戻って田畑を買い、
文盲だったが努力して読み書きができるようになり、推されて
郡議にまでなり、子をもうけた。ただし、日露戦争が始まると、
ロシアを助けた国賊と蔑まれるようになってしまった。
比叡山の北側の花背村出身の向畑は前科者だったため、
とくに金の使い道には厳しく目を光らされた。そのために、
妻子持ちながら女義太夫を妾にして
賭博とという自堕落な生活に陥り、"事業"にも失敗して
紙屑拾いに身を落とした。日露戦争が始まって年金が停止されると、
前科者の本性を現してついに婦女暴行事件を起こしたのである。
津田三蔵は事件後4か月の9月29日未明、無期徒刑で収監された
釧路集治監において肺炎で死んだ。逮捕後、
ずっと自殺するつもりで遺書も残してたのである。

津田の父の代まで藩医として勤めてた
伊勢国津城主藤堂家は高虎を藩祖とする、
32万数千石の大身外様大名である。大津事件が起きた近江国の
犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪の子として
およそ1556年に生まれた。
浅井長政→その家臣だった阿閉貞征→同磯野員昌
→信長の甥織田信澄(あるいは【津田】信澄)
→秀吉の弟秀長→豊臣秀保、→徳川(家康)→秀忠、
というように主を替えた。ちなみに、
信澄をはじめとして織田信長の親族に津田という名があるとおり、
織田と津田は同族である。もしかすると、
茶の湯で織田信長に接近した津田宗及も繋がりがあるかもしれない。
その娘は医師半井云也の妻となってる。
半井氏は日本を救った和気清麻呂の子孫で、
"霊界"の丹波氏とともに朝廷の医薬事を司ってた家である。また、
前田家の御殿医の家に生まれた高峰譲吉の妻の家の
津田氏も同族かもしれない。それらはともかく、
藤堂高虎は晩年の家康の信頼がいちじるしく、
天海とともに江戸城の鬼門である上野を鎮護し、
そこに上屋敷を拝領してた。のちに
上屋敷は向柳原町(現在の千代田区神田和泉町)に移るが、
現在も、上野動物園内に藤堂家初期の当主の墓が残ってる。
この上屋敷跡は藤堂家当主が代々和泉守だったことから明治になって
和泉町と呼ばれるようになった。ちなみに、
安政5年(西暦およそ1858年)に神田お玉ケ池松枝町に
幕府の種痘所が開設された(漫画の「JIN」がワープした例の話)。
これが下谷和泉橋通りの医師伊東玄朴宅に移り、
文久3年(西暦およそ1663年)に幕府医学所となり、
明治2年(西暦およそ1869年)に下谷和泉橋通りの
旧藤堂家上屋敷跡に移転して
医学校兼病院・大学東校となった。そしてこれは、
本郷の旧金沢前田家上屋敷跡に移転し、
東大医学部のもととなったのである。かつて、
フランス人のバレエ関係者が"grand jete"と言うのを
「転んじゃって」と言ってるとしか聞こえない拙脳なる私が
2度も落ちたとこである(正しくは医学部ではなく理科三類だが)。
下谷和泉橋通りの旧藤堂家上屋敷跡は現在、
三井記念病院となって白内障の手術がさかんに行われ、
みえなかったものがよくみえるようになったカンジャさんたちに
「おうみえる」とよろこばれてるということである。
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