現在の暦であるグレゴリオ暦をあてはめると、
永禄5年6月24日は1562年7月25日にあたる。
戦国末期の武将加藤清正が生まれた日である。近年、
歴史などには無関心ないっぽうで、新大久保に行って
「カンコクリョウリ、だーい好き!」などとほざいてる脳天気な婦女子でも、
代々木公園内の"パワースポット"という触れ込みの
「清正井(きよまさのいど)」でその名が知られてるが、
戦前戦中の世代には「虎退治」として有名だった。実際、
秀吉が目論んだ朝鮮出兵(秀吉自身は「唐入り」と称してた)のときに、
当時の朝鮮半島にも棲息してたアムールトラに小姓の一人が食い殺されて
清正が槍ひとつでその仇を討った、という噺になってる。
その内容はともかく、秀吉にその胆、
娘婿の徳川頼宣(紀伊家初代)にはその頭骨を贈ってるので、
虎をトラえたということ自体は本当の話のようである。ちなみに、
体躯がでかいアムールトラがいたということは、その頃の朝鮮半島が
いかに未開の地だったかということを表してる。それはともかく、
アムールトラはトラの中でももっともでかい図体をしてて獰猛だった。
当時の朝鮮人が相当被害にあってたということである。
ときに、
危険なことを認識することは大切である。
このトラはヒトを襲うので危険だということは
鳩山由紀夫や菅直人にも解る。
♪ある~ひ、もりの~なか、くまさんと~、であ~った♪
などというアメリカ民謡由来の童謡がある。この"訳詞者"である
馬場祥弘という輩が自分が"作詞作曲"したとウソをついたことで
JASRACから総スカンを食らったことで有名である。また、
編曲したのは今年死んだ玉木宏樹であるが、この御仁も
「アンチ・ヘイキンリツ」に偏狭にとらわれた人物である。が、
そんなことを知らない巷の幼稚園関係者がいまだに
この歌を「愛らしいうた」として採りあげる。が、
無垢な園児がこの歌の歌詞を覚えて、
(くまさんと出会っても、オトモダチになれる)
などと誤解させてしまうことになる。誠に罪深い。
テディー・ベアの"故事"もいわゆるセオドア・ルーズヴェルトを讃えるための
キャンペインの一環にすぎない。
即死してなかったのでとどめを刺さなかった、
という美談に仕立てられてるが、
熊狩りに行って銃弾を放ったくせに、
「殺すに忍びない」もないものである。現実には、
銃創による強烈な痛みで苦しんでる熊なのであるから、
とどめをさすほうがむしろ"人道的"なのである。ともあれ、
そんな熊もヒトや民家を襲う危険な動物なのである。
先日、
上野動物園の(ジャイアント)パンダに子が生まれ、そしてすぐに死んだ、
ということが話題になってた。
日本の教育のひずみのひとつに、
動物をやみくもに過度に「可愛い」とすることがある。
米TVドラマ「クリミナル・マインド」の第4スィーズンの第4話の最後に、
ローマの詩人Phaidros(ファイドロス)の言葉として、こんなものが
ホッジによって喩えられてた。
"Things are not always what they seem,
the first appearance deceives many,
the intelligence of a few perceives
what has been carefully hidden"
「物事は見かけどおりとは限らない。
見かけに騙される人間は多い。
ごく少数の知恵ある者が巧妙に隠された真実を見抜くのだ」
ピーテル・デ・ホーホとヨハネス・フェルメールの違いがまったく判らない
拙脳なる私はその出典を知らないが、あのグロテスクな
パンダが可愛い、という人らの感覚はさらに解らない。
子供にはきちんとこう教えるべきである。
「パンダは無駄に図体がでかく大量の食糧を要する穀潰しで、
子育て放棄をする、子も平気で押しつぶして窒息させる、
愚かなのに獰猛な獣である。そんな獣が可愛いなどと言うような
出来の悪い大人に育ってはいけない」
と。
上野動物園といえば、
このエントリの直前の
「大津事件、津田三蔵、織田信長、藤堂和泉守、御殿医、東大医学部」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/d157d165a28d4296b315816a406cc067
でも言い及んだように、そこは江戸時代初期、
藤堂高虎の上屋敷だった。寛永寺の天海とともに、
家康亡きあとの江戸城(の鬼門)を護るという意図である。
現在でも、高虎以下藤堂家当主の墓が園内にある。ときに、
高虎と並ぶ"築城の名手"といえば、加藤清正である。
家康は「寅年」生まれである。初めて江戸城に入ったとき、
「虎ノ門」を通ったくらい、「トラ」にこだわってた。
高虎を厚遇した理由のひとつである。だから、
「虎退治」をした清正はまさに、
「虎退治=家康封じ」
の象徴でもあったのである。清正は、
秀頼が家康と二条城で面会した際にそばに付き添ったのち
熊本に帰る途中に発病し、すぐに死んだ。
その跡取りである忠広は高虎が後見人とされた。そして、
21年後に忠広は秀忠の死後すぐに熊本52万石を改易された。
秀吉に繋がる加藤家のtragedyである。
改易された加藤家の江戸屋敷関連はほとんどが
井伊家に引き継がれた。代々木の清正井もそのひとつである。
現在の紀尾井町の清正の下屋敷は
井伊家の中屋敷となり、
明治維新後には伏見宮邸となり、
東京オリンピックの直前にはホテルニューオータニとなった。
ガーデンラウンジの前に広がる日本庭園は
清正の時代からの形を相当にどどめてるということである。
つい最近まで煎餅屋だった私は
30歳(trente ans)くらいから21世紀初頭くらいまでは
このラウンジで好んで打ち合わせをしてた。
甘いものも大好きな私はケーキと紅茶をたのむのが常だった。が、
そんな紅茶やコーヒー嗜好で周囲からもう
たいがいにしろといわれるほど口臭がきつい
歯槽膿漏(歯周病)となった私は、歯垢を
トラねばならないと遅まきながら発起して、
トラネキサム酸入りの歯磨き粉で歯磨きをする毎日である。
清く正しく美しく、これからの老後を過ごそうと思う。
永禄5年6月24日は1562年7月25日にあたる。
戦国末期の武将加藤清正が生まれた日である。近年、
歴史などには無関心ないっぽうで、新大久保に行って
「カンコクリョウリ、だーい好き!」などとほざいてる脳天気な婦女子でも、
代々木公園内の"パワースポット"という触れ込みの
「清正井(きよまさのいど)」でその名が知られてるが、
戦前戦中の世代には「虎退治」として有名だった。実際、
秀吉が目論んだ朝鮮出兵(秀吉自身は「唐入り」と称してた)のときに、
当時の朝鮮半島にも棲息してたアムールトラに小姓の一人が食い殺されて
清正が槍ひとつでその仇を討った、という噺になってる。
その内容はともかく、秀吉にその胆、
娘婿の徳川頼宣(紀伊家初代)にはその頭骨を贈ってるので、
虎をトラえたということ自体は本当の話のようである。ちなみに、
体躯がでかいアムールトラがいたということは、その頃の朝鮮半島が
いかに未開の地だったかということを表してる。それはともかく、
アムールトラはトラの中でももっともでかい図体をしてて獰猛だった。
当時の朝鮮人が相当被害にあってたということである。
ときに、
危険なことを認識することは大切である。
このトラはヒトを襲うので危険だということは
鳩山由紀夫や菅直人にも解る。
♪ある~ひ、もりの~なか、くまさんと~、であ~った♪
などというアメリカ民謡由来の童謡がある。この"訳詞者"である
馬場祥弘という輩が自分が"作詞作曲"したとウソをついたことで
JASRACから総スカンを食らったことで有名である。また、
編曲したのは今年死んだ玉木宏樹であるが、この御仁も
「アンチ・ヘイキンリツ」に偏狭にとらわれた人物である。が、
そんなことを知らない巷の幼稚園関係者がいまだに
この歌を「愛らしいうた」として採りあげる。が、
無垢な園児がこの歌の歌詞を覚えて、
(くまさんと出会っても、オトモダチになれる)
などと誤解させてしまうことになる。誠に罪深い。
テディー・ベアの"故事"もいわゆるセオドア・ルーズヴェルトを讃えるための
キャンペインの一環にすぎない。
即死してなかったのでとどめを刺さなかった、
という美談に仕立てられてるが、
熊狩りに行って銃弾を放ったくせに、
「殺すに忍びない」もないものである。現実には、
銃創による強烈な痛みで苦しんでる熊なのであるから、
とどめをさすほうがむしろ"人道的"なのである。ともあれ、
そんな熊もヒトや民家を襲う危険な動物なのである。
先日、
上野動物園の(ジャイアント)パンダに子が生まれ、そしてすぐに死んだ、
ということが話題になってた。
日本の教育のひずみのひとつに、
動物をやみくもに過度に「可愛い」とすることがある。
米TVドラマ「クリミナル・マインド」の第4スィーズンの第4話の最後に、
ローマの詩人Phaidros(ファイドロス)の言葉として、こんなものが
ホッジによって喩えられてた。
"Things are not always what they seem,
the first appearance deceives many,
the intelligence of a few perceives
what has been carefully hidden"
「物事は見かけどおりとは限らない。
見かけに騙される人間は多い。
ごく少数の知恵ある者が巧妙に隠された真実を見抜くのだ」
ピーテル・デ・ホーホとヨハネス・フェルメールの違いがまったく判らない
拙脳なる私はその出典を知らないが、あのグロテスクな
パンダが可愛い、という人らの感覚はさらに解らない。
子供にはきちんとこう教えるべきである。
「パンダは無駄に図体がでかく大量の食糧を要する穀潰しで、
子育て放棄をする、子も平気で押しつぶして窒息させる、
愚かなのに獰猛な獣である。そんな獣が可愛いなどと言うような
出来の悪い大人に育ってはいけない」
と。
上野動物園といえば、
このエントリの直前の
「大津事件、津田三蔵、織田信長、藤堂和泉守、御殿医、東大医学部」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/d157d165a28d4296b315816a406cc067
でも言い及んだように、そこは江戸時代初期、
藤堂高虎の上屋敷だった。寛永寺の天海とともに、
家康亡きあとの江戸城(の鬼門)を護るという意図である。
現在でも、高虎以下藤堂家当主の墓が園内にある。ときに、
高虎と並ぶ"築城の名手"といえば、加藤清正である。
家康は「寅年」生まれである。初めて江戸城に入ったとき、
「虎ノ門」を通ったくらい、「トラ」にこだわってた。
高虎を厚遇した理由のひとつである。だから、
「虎退治」をした清正はまさに、
「虎退治=家康封じ」
の象徴でもあったのである。清正は、
秀頼が家康と二条城で面会した際にそばに付き添ったのち
熊本に帰る途中に発病し、すぐに死んだ。
その跡取りである忠広は高虎が後見人とされた。そして、
21年後に忠広は秀忠の死後すぐに熊本52万石を改易された。
秀吉に繋がる加藤家のtragedyである。
改易された加藤家の江戸屋敷関連はほとんどが
井伊家に引き継がれた。代々木の清正井もそのひとつである。
現在の紀尾井町の清正の下屋敷は
井伊家の中屋敷となり、
明治維新後には伏見宮邸となり、
東京オリンピックの直前にはホテルニューオータニとなった。
ガーデンラウンジの前に広がる日本庭園は
清正の時代からの形を相当にどどめてるということである。
つい最近まで煎餅屋だった私は
30歳(trente ans)くらいから21世紀初頭くらいまでは
このラウンジで好んで打ち合わせをしてた。
甘いものも大好きな私はケーキと紅茶をたのむのが常だった。が、
そんな紅茶やコーヒー嗜好で周囲からもう
たいがいにしろといわれるほど口臭がきつい
歯槽膿漏(歯周病)となった私は、歯垢を
トラねばならないと遅まきながら発起して、
トラネキサム酸入りの歯磨き粉で歯磨きをする毎日である。
清く正しく美しく、これからの老後を過ごそうと思う。
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