チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「瀕死の白鳥/谷桃子とマイヤ・プリセツカヤの死にあたって」

2015年05月05日 15時52分55秒 | 説くクラ音ばサラサーデまで(クラ音全般
4月26日に谷桃子(1921-2015)女史が94歳で、
5月2日にМайя Михайловна Плисецкая
(マーィヤ・ミハーィラヴナ・プリスィェーツカヤ、1925-2015)女史が89歳で、
亡くなった。

谷女史の実演はみたことはないが、
そのお弟子さんたちのバレエは子供の頃から
よくみてきたし、
目黒区中根の谷桃子バレエ団は、子供のときに乗ってた
東横線の都立大学から自由ケ丘の途中、
車窓から一瞬、斜めに見えたりした。

1970年の3月、
日比谷の有楽座でソ連映画「チャイコフスキー」が封切られた。
映画としては最低の出来に属する代物ではあったが、
小学校を卒業し中学に入学する前だった私は、
その映画でプリセツカヤ女史を初めてみた。
いちおうデズィレ・アルトー役だったが、出番はほとんど
踊りのスィーンだった。が、
その数年前にTVでやってた
「エロイムエッサイム」の「悪魔くん」の
「メフィスト(弟)」役の潮健児とプリセツカヤ女史の顔が
我が拙脳の中でオウヴァーラップしてしまった。ために、
同女史の顔が気持ち悪くて、
絶品とちまたでは言われてた
「瀕死の白鳥」もあまり好きではなかった。
バレエはやはりみてくれが重要で、
どんなに踊りが巧くても、西洋人としては胴長短足なうえに、
老体がありありと判る同女史の背中をみせられては
「瀕死の白鳥」というよりは「瀕死の醜いアヒルの子」
みたいな風情だった。

いずれにしても、
日劇ダンスィング・ティームの踊り子から、正式なバレエを習って
クラスィカル・バレエのダンサーとなったという経歴の谷女史も、
ボリショイ・バレエのプリマを張ってたプリセツカヤ女史も、
その全盛期には当時の最先端の技を持った、
秀でた踊り手だったことは間違いない。
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