ペットを飼わない私にしてはめずらしく、
風邪をひいてしまった。浮き世の義理で、
某病院に知人を見舞いに入って引き留められ、
風邪っぴきの中に2時間もさらされてたのが
ウィルス感染のもとだったと推測してる。
喉が変な感じになってきたと思ったら、
咳。いくらチャイ「コフ」スキー・マニアだからといって、
そんなに「堰」を切ったほど出なくてもいいだろうと思う。
おかげで寝床に体を「臥ステン」まつである。さらに、
大量のくしゃみにはなみず。
熱も出てきた。トウニ・マネーロな気分である。
日が暮れてまた日が昇るあしたにはなおるだろう……と、
おとといは思ってた。が、
半分(hemi)もよくならないどころか、
「日はまた昇る」というよりは、
「フィーヴァーはまた昇る」という具合である。
咽「喉が」「いが」いがするので、
食欲もかなり減衰してきた。しかたがない、
小麦粉をといて「すいとん」でも作ってみたら、
けっこう食べれてしまった。これが、
ずぶとい私の食い意地が張った本能である。
ときに、本能といえば、信長が
本能寺に討ち入られた天正10年(1582年相当)6月2日、
家康は堺にいた、とされてる。あるいは、
信長にまた返礼をするために堺から京に向かってる途中だった、
とも言われてる。後者の説では、
「一報」をひっさげて京から馬を駆ってきた商人
茶屋四郎次郎と、家康一行先導隊の本多忠勝が、
「四条畷」あたりで出会った、
ということになってる。それから、
後方の家康にどう伝わったかはわからないが、ともかく、
至急の談義がなされたのだろう。結局、「伊賀越えルート」で
国元(岡崎)に帰る、ということになった。
一行は宇治田原に向かった。が、ここで、
ときどき、天正14年(1586年相当)の
11月のときの家康の行動と混同してるむきがある。それは、
再三の上板要請に応じない家康は、妹朝日姫を正室に送り込まれて
やっと秀吉の臣に下ることになった。そのとき、
大阪城に赴いたついでに、義家の子孫頼朝そして尊氏の
清和源氏を称することになった以上、その「elder」系である
摂津多田源氏の縁の地を詣でなければならない儀式をも済ませた。
「佃島」の名の由来の話になってるものである。これを、
この「伊賀越え」のときと交錯させてしまってるのである。
天正13年(1585年相当)に家康の腹心のひとり、
石川数正が秀吉のもとに出奔する。が、これは、
河内源氏の本拠地の「石川」を名乗ってる同人を、
「大阪プロジェクト」の先導隊として送り込んだもの、
と私は感じる。加えて、「源氏長者」への根回し。後年に、
同人の「親戚」を、江戸の「石川島」の名に冠した。それはともかく、
「伊賀越え」をした家康一行は「影武者」で、本物の家康一行は
「光秀の追っ手から逃れるために反対方向の尼崎に向かった」
という論を、それが正しいと仮定して矛盾を引き出す
「背理法」によって検証してみることにする。まず、
「故事」によれば、神崎川で渡る舟に窮した家康一行に
佃島の漁民が進み出て舟を手配した、ということである。が、
堺から尼崎方面へは、
大阪城建設現場(旧石山本願寺)の西側を通り、
神崎川より前にまず、もっと太い淀川を渡らなければならない。
その舟はどうしたのか? まぁ、それは都合がついたとしよう。が、
そんな「目立つ」渡しでは、「光秀のヒットマン」が容易に見つける。
歴史がどう語っていようとも、光秀は秀吉がとって返すことを
知ってた……というより、それが常識である。すると、
安土と京を制圧してる光秀と、西から登ってくる秀吉とが対峙するのは、
摂津近辺である。当然、光秀軍は摂津に出張ってたはずである。
民にお触れも出してたはずである。そんなとこに、
命が狙われてるのを承知でノコノコ向かうだろうか? また、
家康が岡崎に到着したのは6月4日の夜遅く、だという。仮に、
それが虚偽であって、もう数日遅かったとしても、では、
「佃島」経由ではどうやって岡崎に戻ったのだろう。
ことが収まるまでそこに匿ってもらってた?
それは上記のとおりで無理である。簡単に見つかる。では、
海路? 南紀ルートで?
じつは海のルートのほうが危険なのである。
大阪の海にはどこぞの水軍だの郎党だのがウヨウヨいた。
反徳川な雑賀衆だってごっそりいるのである。
光秀軍も摂津平定に出張ってきてた。そして、
6月11日には秀吉も尼崎に到達してるのである。
堺にいた家康一行は「手勢たかだか30人程度」などと書かれる。が、
それは「将」の数であって、それぞれが臣下(家康からすれば陪臣)を
連れてるのである。しかも、その臣というのは、
石川数正、酒井忠次、本多忠勝、本多重次、榊原康政、大久保忠佐、
服部半蔵、内藤正成、井伊直政、
などという名だたる家臣らである。さらに、「伊賀越え」時には
伊賀衆、甲賀衆、その他が計400名近くが加わる。
ものすごい「御一行」である。ここで、
だからこそ、「伊賀」に向かった多数の軍団は「おとり」「影武者」で、
本者は極めて少人数で佃島に向かった、という説が浮上するらしい。が、
それでも、岡崎に遅くても1週間後までには戻れるはずもない。
どんなに「せっつ」いても無理なのである。
否。もとより、光秀は家康の命など狙うはずがない。仮に、
狙ってたとしたら、1万数千という「織田軍団」の主力部隊である
明智軍を、たかだか本能寺を囲むだけに総動員するはずもない。
念にはねんをいれても千の兵を堺に送り、
本能寺と同時多発にすればいいだけのことである。なにも、
ご親切にも信長落命の知らせを聞かせてから討つ、
なんてことをしなくてもいいのである。さて、
「伊賀越え」をした家康はまんまと岡崎に戻る。
「伊賀越え」ったって、京都のすぐ南を通るわけである。
そんなのを「討つ気充分」な光秀が見逃すだろうか? ときに、
途中で別れ家康のあとから伊賀に向かった穴山信君(梅雪)は、
誅される。おそらく、家康が謀ったものだろう。なぜなら、
梅雪は勝頼自害後の武田家の「跡目」が決まってたからである。
そこそこ有能な同人に武田家を嗣がれては、徳川に
甲斐の「金山」は手に入らない。経済面で、
秀吉に「タイコウ」できなくなってしまう。私見であるが、
この「変」のとき、偶然か必然か故意かは、
演歌歌手のジェロとお笑いコンビ「オセロ」の中島女史との
区別もつかない拙脳な私には知るよしもないが、
信長亡きあとには必ずや大阪開発に力を入れ、
またそこに拠点を置くだろう秀吉との「決戦」のとき、
攻略ルート及び退却ルートを「確保」するには
うってつけの「場面」だったことだろう。後年、伊賀出身の
松尾芭蕉が「みちのく・弟子と二人旅」を敢行したとき、
当初道連れに考えてた路通から、
伊勢長島藩士だった過去を持つ曾良に変更になったのも、
なにやら裏の意味ありげである。が、まあ、
歴史のドシロウトの私がどんなことを考えても、結局は、
堂々巡り、藤堂めぐり、である。おっと、喉の
イガイガだけでなく、
胃がキリキリしてきた。ちなみに、
現在の伊賀市は、律令時代には、伊賀国の
「府中=国府(こふ)」
が置かれてたようである。
ゴホゴホゴホ!
風邪をひいてしまった。浮き世の義理で、
某病院に知人を見舞いに入って引き留められ、
風邪っぴきの中に2時間もさらされてたのが
ウィルス感染のもとだったと推測してる。
喉が変な感じになってきたと思ったら、
咳。いくらチャイ「コフ」スキー・マニアだからといって、
そんなに「堰」を切ったほど出なくてもいいだろうと思う。
おかげで寝床に体を「臥ステン」まつである。さらに、
大量のくしゃみにはなみず。
熱も出てきた。トウニ・マネーロな気分である。
日が暮れてまた日が昇るあしたにはなおるだろう……と、
おとといは思ってた。が、
半分(hemi)もよくならないどころか、
「日はまた昇る」というよりは、
「フィーヴァーはまた昇る」という具合である。
咽「喉が」「いが」いがするので、
食欲もかなり減衰してきた。しかたがない、
小麦粉をといて「すいとん」でも作ってみたら、
けっこう食べれてしまった。これが、
ずぶとい私の食い意地が張った本能である。
ときに、本能といえば、信長が
本能寺に討ち入られた天正10年(1582年相当)6月2日、
家康は堺にいた、とされてる。あるいは、
信長にまた返礼をするために堺から京に向かってる途中だった、
とも言われてる。後者の説では、
「一報」をひっさげて京から馬を駆ってきた商人
茶屋四郎次郎と、家康一行先導隊の本多忠勝が、
「四条畷」あたりで出会った、
ということになってる。それから、
後方の家康にどう伝わったかはわからないが、ともかく、
至急の談義がなされたのだろう。結局、「伊賀越えルート」で
国元(岡崎)に帰る、ということになった。
一行は宇治田原に向かった。が、ここで、
ときどき、天正14年(1586年相当)の
11月のときの家康の行動と混同してるむきがある。それは、
再三の上板要請に応じない家康は、妹朝日姫を正室に送り込まれて
やっと秀吉の臣に下ることになった。そのとき、
大阪城に赴いたついでに、義家の子孫頼朝そして尊氏の
清和源氏を称することになった以上、その「elder」系である
摂津多田源氏の縁の地を詣でなければならない儀式をも済ませた。
「佃島」の名の由来の話になってるものである。これを、
この「伊賀越え」のときと交錯させてしまってるのである。
天正13年(1585年相当)に家康の腹心のひとり、
石川数正が秀吉のもとに出奔する。が、これは、
河内源氏の本拠地の「石川」を名乗ってる同人を、
「大阪プロジェクト」の先導隊として送り込んだもの、
と私は感じる。加えて、「源氏長者」への根回し。後年に、
同人の「親戚」を、江戸の「石川島」の名に冠した。それはともかく、
「伊賀越え」をした家康一行は「影武者」で、本物の家康一行は
「光秀の追っ手から逃れるために反対方向の尼崎に向かった」
という論を、それが正しいと仮定して矛盾を引き出す
「背理法」によって検証してみることにする。まず、
「故事」によれば、神崎川で渡る舟に窮した家康一行に
佃島の漁民が進み出て舟を手配した、ということである。が、
堺から尼崎方面へは、
大阪城建設現場(旧石山本願寺)の西側を通り、
神崎川より前にまず、もっと太い淀川を渡らなければならない。
その舟はどうしたのか? まぁ、それは都合がついたとしよう。が、
そんな「目立つ」渡しでは、「光秀のヒットマン」が容易に見つける。
歴史がどう語っていようとも、光秀は秀吉がとって返すことを
知ってた……というより、それが常識である。すると、
安土と京を制圧してる光秀と、西から登ってくる秀吉とが対峙するのは、
摂津近辺である。当然、光秀軍は摂津に出張ってたはずである。
民にお触れも出してたはずである。そんなとこに、
命が狙われてるのを承知でノコノコ向かうだろうか? また、
家康が岡崎に到着したのは6月4日の夜遅く、だという。仮に、
それが虚偽であって、もう数日遅かったとしても、では、
「佃島」経由ではどうやって岡崎に戻ったのだろう。
ことが収まるまでそこに匿ってもらってた?
それは上記のとおりで無理である。簡単に見つかる。では、
海路? 南紀ルートで?
じつは海のルートのほうが危険なのである。
大阪の海にはどこぞの水軍だの郎党だのがウヨウヨいた。
反徳川な雑賀衆だってごっそりいるのである。
光秀軍も摂津平定に出張ってきてた。そして、
6月11日には秀吉も尼崎に到達してるのである。
堺にいた家康一行は「手勢たかだか30人程度」などと書かれる。が、
それは「将」の数であって、それぞれが臣下(家康からすれば陪臣)を
連れてるのである。しかも、その臣というのは、
石川数正、酒井忠次、本多忠勝、本多重次、榊原康政、大久保忠佐、
服部半蔵、内藤正成、井伊直政、
などという名だたる家臣らである。さらに、「伊賀越え」時には
伊賀衆、甲賀衆、その他が計400名近くが加わる。
ものすごい「御一行」である。ここで、
だからこそ、「伊賀」に向かった多数の軍団は「おとり」「影武者」で、
本者は極めて少人数で佃島に向かった、という説が浮上するらしい。が、
それでも、岡崎に遅くても1週間後までには戻れるはずもない。
どんなに「せっつ」いても無理なのである。
否。もとより、光秀は家康の命など狙うはずがない。仮に、
狙ってたとしたら、1万数千という「織田軍団」の主力部隊である
明智軍を、たかだか本能寺を囲むだけに総動員するはずもない。
念にはねんをいれても千の兵を堺に送り、
本能寺と同時多発にすればいいだけのことである。なにも、
ご親切にも信長落命の知らせを聞かせてから討つ、
なんてことをしなくてもいいのである。さて、
「伊賀越え」をした家康はまんまと岡崎に戻る。
「伊賀越え」ったって、京都のすぐ南を通るわけである。
そんなのを「討つ気充分」な光秀が見逃すだろうか? ときに、
途中で別れ家康のあとから伊賀に向かった穴山信君(梅雪)は、
誅される。おそらく、家康が謀ったものだろう。なぜなら、
梅雪は勝頼自害後の武田家の「跡目」が決まってたからである。
そこそこ有能な同人に武田家を嗣がれては、徳川に
甲斐の「金山」は手に入らない。経済面で、
秀吉に「タイコウ」できなくなってしまう。私見であるが、
この「変」のとき、偶然か必然か故意かは、
演歌歌手のジェロとお笑いコンビ「オセロ」の中島女史との
区別もつかない拙脳な私には知るよしもないが、
信長亡きあとには必ずや大阪開発に力を入れ、
またそこに拠点を置くだろう秀吉との「決戦」のとき、
攻略ルート及び退却ルートを「確保」するには
うってつけの「場面」だったことだろう。後年、伊賀出身の
松尾芭蕉が「みちのく・弟子と二人旅」を敢行したとき、
当初道連れに考えてた路通から、
伊勢長島藩士だった過去を持つ曾良に変更になったのも、
なにやら裏の意味ありげである。が、まあ、
歴史のドシロウトの私がどんなことを考えても、結局は、
堂々巡り、藤堂めぐり、である。おっと、喉の
イガイガだけでなく、
胃がキリキリしてきた。ちなみに、
現在の伊賀市は、律令時代には、伊賀国の
「府中=国府(こふ)」
が置かれてたようである。
ゴホゴホゴホ!
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