チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「ベト7捕物帖」

2005年07月15日 16時46分42秒 | 内緒鏡で覗くイ長科クリニック
>yasunobuさん、こちらでよろしくお願いいたします。

<ヤフを見る人はほとんどいないので(とくにこういった内容を
 理解する人はいないと思われ)こちらで結構ですよ>
▲yasunobuさんにしては悲観的な見かたですね。

<ポジションを選択するための指針として、
(1)メロディーはつながりを良くするため出来るだけ同じ弦を使う。
(2)しっかりした音を出すために出来るだけ低いポジションを使う。
  この2つの原則から、このメロディーはA線で惹かれるべきでしょう。
   で、D線を使う根拠は?>
▲第1ポジションでA線で弾くと、
♪ミーー|>レ<ミ>レ|>【ドーー|ーー】【ド】|<ファーファ|>ミ<ファ<ソ|ソー>レ♪
は、【ド】がA線の開放弦になってしまいます。なにか特別な効果を狙う以外、
その音だけが異質になるようなそんな弾きかたは、普通、しないものではありませんか?

<たとえば、13/1の場合、最後の10小節ほどは4度上げるとフルートは高すぎるし
 ファゴットは演奏困難です。5度下げるとオーボエの音域を越えてしまいます>
▲たとえばにしても、なぜ、13-1を4度上げる必要があるのでしょうか?

<僕の考えでは全く関係ありません>
▲それがお訊きしたかったことです。ありがとうございます。

<それよりも、ある場合害が生じることもあります。
 「第八交響曲」の第1楽章第3主題について、とある評論家はブルックナーリズムであると
  解説しましたが、これは全くの誤解であって第3主題は6連符リズムを基礎としているのです。
   くだんの音形は休OOOOOという音形の連続です。音が5つあるから
    ブルックナーリズムだといってはいけません。休符も立派なリズムの一部です>
▲このお話はこれとしてわかるのですが、私が問題にしたのは、
「チャイコフスキーの場合は『6』→『5』」であるけれども、
「ブルックナーの(ちゃんとした)『2・3』『3・2』」には、
なんらかの『警告』のような意味あいがあるのかどうか」ということです。

<《イ長調の大系の中で響く》>
▲! この言葉はドンピシャと的を射てるのではありませんか?

<「白鳥の湖」が単なる短い曲の集積ではなく、全体が一つのまとまりを持っている
 ということが《交響的作品》ということの所以なのでしょう>
▲おっしゃるとおりです。

<<主調が「イ長」でなくても、「キンキン効果」は充分に現れてしまう>>
<@これはもともと、オーケストラによる作品に調性による違いが存在するのか?
 という僕の答えです。ご理解いただくためには相当の説明が必要ですよね。
 この点についてはヤフーでもう一度詳しく説明したいと思っているので、
 そちらで質問を続けてください。質問がないと説明しづらい面がありますので>
▲承知いたしました。

<まじめな思考を知識をひけらかすものと揶揄する人たちが発言するところですから>
▲付け焼き刃的知識をひけらかすのが趣味な私のような者と
一緒くたにされておしまいなのはじつにお気の毒です。
その「違い」が区別できない程度の面々なんでしょうね。もっとも、
私なんぞは龍円愛梨アナと中澤有美子キャスターの声の違いさえ区別できない
知能レヴェルですから、そういった手合いと同じアナの狢といったところです。

<話は飛びますが、パッシオンさんのような方なら、この部分ビゼーの
 「アルルの女」前奏曲の第2部分、《バカの弟》の旋律を思い出しませんか?>
▲♪お、フレェ~デリ、あなぁ~たの、おとぅとは、バカァ~?♪
という旋律ですか? それとも、
♪ソ・<ラ<シ<ド<レ|<ミー>ソー・>♯ファー……♪ですか?
合いの手の♪ソーーー・<シーー>ラ|>ソーー♪のことですか?
ところで、「私のようなものなら」ということについてですが、
私が「真っ当な作曲家たち」間の「類似性」を指摘する場合、
ただ「やみくも」に似てる、といってるわけではありません。
そこに、「意図」「意味の関連性」が認められる場合に話題にするのです。
いっぽう、「ドーデ」もいいようなエセ作曲家らの場合には、
「剽窃は事実より奇なり」と「皮肉」ってるだけです。

<当然属7にしてしまうことは《ネタばれ》をやってしまうことですよね>
▲おっしゃるとおりだと思います。が、だからこそ、逆も言えるわけです。
実際、私もここを「イ長でない」とは思ってません。ただ、「ホ調を匂わす」
「ホ長を意識させてる」「ホ長に身を変色させてる」というようなニュアンスで
捉えてるのです。「ベト9」の始まりが「属調イ短の側面を強調しながらも、
巧妙に決定的な証拠となるものを避け、主調ニ短に導く」式なのと同様。

<たしかにソーファミは第1主題を導くものとしての効果を発揮していますが、
 「5番」のどこと同じですか?>
▲ですから、ここを「ホ長」としてscanすれば、
♪【ドーーー・<ミー<『ソン>ファ|>ミ』】♪となって、
『』内は「ベト7」主部主主題の冒頭一部の先走りになります。いっぽう、
【】内全体としては、「ベト5」の終楽章主主題の冒頭一部でもあるのです。
♪【ドーーー・<ミーーー|<『ソーーーーー>ファ○|>ミ○』】
             (>レ○>ド○<レ○|>ドーーーーー)♪
そして、この【】内の和声が、
「ベト7」の木管(ファゴを除いた)のと「ベト5」の木金管のは同じなのです。
「永遠の恋人」ブレンターノ夫人との、おそらくは成就しない恋の行方を案じて、
自らを鼓舞する勢いで作ったのが「ベト7」なのではないでしょうか。
そこには「ベト5」の「悩みを突き抜けて歓喜に到れ」式の
勝利の凱旋音頭である終楽章の主題が必要だったのだと考えます。

<オーケストラの場合は、曲の構造も複雑なら、編成も複雑であり、
 そういった中で微妙に弦楽器の性格が出てくるからこそ
  調性の性格化に寄与するものだと思いますがいかがでしょう>
▲前にも書いたと思いますが、
yasunobuさんが投げかけた一文に興味を惹かれたのは、
以前から大作曲家の交響曲にはなぜ「イ長」が少ないのか、
という疑問を私も抱いてたからなのです。
yasunobuさんのご説のとおりの理由からかもしれません。
とすれば、作曲家たちはその「キンキン感」を強く感じてて、あるいは、
それが常識で、「イ長」を避けたのか? が、
それが立証されるためには、反証や瑕疵(があったとしたらそれら)を
一つひとつ否定して取り除いていかなければならないと思うのです。
私の無知や失礼はひらにご容赦ください。

■あらたな質問
・「ベト7」の主章序部は「イ長」に始まり、おおまかに抽出すれば、
「ハ長」「イ長」「ヘ長」(「ホ長」)「イ長」と進みますね。
これは同主部での主・対主題の調性が、
呈示時「イ長」・「ホ長」*、再現時「イ長」・「イ長」**という関係であり、
*と**は
♪ドーー・<ミン>ドド|<ファン>レレ・<ソンソソ♪のあとの
♪<ドンド>ソ・>ミンミ>ド♪で、そこがそれぞれ、
*:「ハ長」、**:「ヘ長」であるのを序奏で「先取り」したものだと思うのですが、
とすれば「属調ホ長」(を強く匂わせるもの)が序奏にあってもいいのではないでしょうか?
・ベートー神時代のコンバスは現在の調弦とは異なって、最低音がcだったのでしょうか?
・「ベト7」作曲当時のベートー神は、
すでにほとんど「聞こえない」状態だったのでしょうか?
また、「耳鳴り」は「ひどい」ものだったのでしょうか?
・全体が「イ長」の大系の中で響く、「キンキン感」を伴う調で、
ベートー神はなぜ交響曲を書いたのでしょうか?

まったく関係ない話ですが、私が「ベト7」を初めて聴いて惹かれたのは、
主章序部冒頭8小節のバスの出発進行、
a>gis>g>fis>f>e、という「魁!! クロマティ高校」ならぬ
「クロマテックな下降行」が訴える魅力でした。
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4 コメント

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「白鳥たちの踊り」 (vasunobuab)
2005-07-23 11:46:57
<その音だけが異質になるようなそんな弾きかたは、普通、しないものではありませんか?>



開放弦を弾きたくないということで、途中で移弦する人はいるでしょうが、全部をD線で弾く人はいないと僕は思いますよ。(あまり理由のないハイポジションは使わない原則ですから・・・・)



逆に開放弦を使うということで、イ長調の意味づけを強くするという効果があるのでは?



解放弦を使いながらD線のAを押さえて、それを<空ヴィブラート>するという方法を採って違和感を緩和することも出来ます。

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五連符 (yasunobuab)
2005-07-23 12:04:54
<▲たとえばにしても、なぜ、13-1を4度上げる必要があるのでしょうか?>



全くないですよ。この曲の半音移調が話題に出たからだけの理由です。半音移調は難しくなくとも、音程差の多い移調は困難だということを例示したまでです。



<▲このお話はこれとしてわかるのですが、私が問題にしたのは、

「チャイコフスキーの場合は『6』→『5』」であるけれども、>



チャイコの場合でも、休止符つきと5連符はまったく別のものですよ。



<「ブルックナーの(ちゃんとした)『2・3』『3・2』」には、

なんらかの『警告』のような意味あいがあるのかどうか」ということです>



これは全くありません。

例えば、「第八交響曲」の冒頭で、主要動機が何度も演奏されます。

ターータ・タータタ

これが3度目からは

タタ・タタタ(ブルックナーリズム)

に変えられています。

この曲ではターータ・タータタのリズムの方に標題的意図があるのであって、五連の音符にはその意図はありません。なぜ、3回目からブルックナーリズムに変えたかというと、そのことによって主題自体がメロディックになり、第1主題としての機能が確定するからです。実際、五連の音符付きの第1主題は、次には再現部にしか現れません。したがってこの不安定な第1主題の再現がリズム的要素によって確定するのです。

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「アルルの女」 (yasunobuab)
2005-07-23 12:40:16
<私が「真っ当な作曲家たち」間の「類似性」を指摘する場合、

ただ「やみくも」に似てる、といってるわけではありません。

そこに、「意図」「意味の関連性」が認められる場合に話題にするのです。>



パッシオンさんの洞察力にはいつも感服しています。



この部分を話題にしたのは、純粋に和声的な特徴についてであって、剽窃や意図的引用とは関係のないことです。



話題にした音形が、3度で重ねられていたとしても、なにかある種の《白紙の状態》というものをイメージするということが言いたかったわけです。ベートーヴェンの場合もそうですが、ビゼーの場合は標題音楽ですから、よりその意図が明白だから話題にしたのです。



「アルルの女」では10回♪ソーシーラソーが演奏されます(パッシオンさんならこの回数になにかネタをおもちでは?)。毎回チェロが違った風に和声付けしますが(これ分析すると非常に面白いです)、それに全く動じません。これが《馬鹿》を意味づけているわけですよね。そして、最後にクラリネットからフルートに変わったとき《馬鹿の弟》が正気に戻るということを暗示しているのです。そのとき、もちろんハープが決定的な雰囲気を出しますが、2番フルートの1つの半音違いの繰り返しも重要です。



もちろん、ご存知でしょうが、この話題は、一家に知恵遅れの子がいると、彼が一家の守り神になるという当時の南フランスでの言い伝えを基にしたもので、守り神が正気になってしまっていなくなったことで、この一家に不幸が訪れることを暗示しているというわけですよね。

ちなみに、前奏曲最後の2回の爆発は、フリートリッヒの墜死とその母親の後追いを意味します。
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yasunobuさん、 (passionbbb)
2005-07-29 17:09:56
レスは本日の新規投稿2題に分けて載せました。

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