今年は、
ピピン3世
(cf; 「この顔にピピンときてから1300年/ピピン3世(小ピピン)とカロリング朝」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/7c40c52463f9d7024564f0dfd2035c09 )
の子の、
Karl der Grosse(カール・デア・グローセ。
ラテン語=Carolus Magnus(カロルス・マグヌスあるいはマンニュス)、
フランス語=Charlemagne(シャルルマニュ)、742または747もしくは748-814)、
いわゆるカール大帝の没後1200年の年にもあたる。
カールは当初、父ピピン3世(小ピピン)から引き継いだフランク王国を
フランク族の慣習どおり兄弟分割統治した。が
弟のカールマンがすぐに死んでしまった(謎の死)ため、
統合統治することとなった。そして、
政略婚の妻の実家のロンゴバルド王国がまたローマに侵攻したため、
遠征して教皇領を保護した。また、
ザクセン族に対しても遠征を行い(史上最大のザクセン、とは呼ばないらしい)、
結果として804年に完全服属させるに至り、
キリスト教信仰を強要した。それから、
イスラム勢力が治めるイベリア半島方面にも遠征した。が、
その話を語ルーニヤ、"La Chanson de Rolandラ・ションソン・ドゥ・ホラン(ローランの歌)"
という叙事詩として伝えられた。そこでは
ローランはカールの甥ということになってる。カールとともに
キリスト教徒としてイスラム勢力に立ち向かったのである。
真田十勇士みたいな配下とともに、カールから拝領した聖なる剣
Durandal(デュランダル)で池添謙一とともに勇猛に戦う。が、
窮地に陥っても援軍を頼むなどという
弱虫な根性はサラセンといって虚勢を張り、
みすみす配下の将を失い、自らも討ち死ぬのである。ちなみに、
Durandalとはラテン語のdurus(ドゥールス=強い)という形容詞から派生した
動詞duro(ドゥーロ=強固にする)の受動態未来形
durandus(ドゥーランドゥス)から派生した語である。
durusのそのまた元はサンスクリットのドゥルーヴァで、原義も強固さ・強さを表す。
上記のごとく、
カール(やその父小ピピン)に助けられたローマは、教皇レオ3世が
800年の暮、カールをローマに招待する。そして、
12月25日の朝の礼拝時に、レオ3世はサプライズ的にカールの頭に加冠し、
「(5世紀に崩壊した西)ローマ帝国皇帝」の座を授けたのである。が、
じつはカールにとってはこうした拙攻はありがた迷惑だった。
西ローマ帝国は滅んでもまだ東ローマ帝国は存続してたからである。
東への根回しなしに強行に加冠されたことで、歴戦の士でもあるカールは
体感的に東側との軋轢を心配したのである。いっぽう、
ローマ側(法王庁側)にとっては、帝国の首都がローマではなく
元々は異教徒の地であったコンスタンティノポリスでは都合が悪かったのである。
神の威光・権威はローマにあり、皇帝の任命権も含まれる、
というデモンストレイションである。
カールは自らが宮廷をパリから移したアーヘンで死に、
棺はその大聖堂に安置された。アーヘンは
現在のベルギーやオランダと国境を接するドイツの町である。
のちに(クラ音界の)帝王と呼ばれることになる
若き日のカラヤンが歌劇場の音楽監督として
ベルリンへの足がかりとした町でもある。ところで、
トランプのハートのキングはカール大帝を表すのだという。ちなみに、
スペイドのジャックは「ローランの歌」でその側近剣士として活躍した
オジェ・ル・ダノワとされてる。それはともかくも、
カールの領土は子のルートヴィヒ(ツイ)を経てフランク族の慣習どおり
3人の孫によって分割統治され、おおまかにはそれが
フランス・イタリア・ドイツという国のおおもととなるのである。
ピピン3世
(cf; 「この顔にピピンときてから1300年/ピピン3世(小ピピン)とカロリング朝」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/7c40c52463f9d7024564f0dfd2035c09 )
の子の、
Karl der Grosse(カール・デア・グローセ。
ラテン語=Carolus Magnus(カロルス・マグヌスあるいはマンニュス)、
フランス語=Charlemagne(シャルルマニュ)、742または747もしくは748-814)、
いわゆるカール大帝の没後1200年の年にもあたる。
カールは当初、父ピピン3世(小ピピン)から引き継いだフランク王国を
フランク族の慣習どおり兄弟分割統治した。が
弟のカールマンがすぐに死んでしまった(謎の死)ため、
統合統治することとなった。そして、
政略婚の妻の実家のロンゴバルド王国がまたローマに侵攻したため、
遠征して教皇領を保護した。また、
ザクセン族に対しても遠征を行い(史上最大のザクセン、とは呼ばないらしい)、
結果として804年に完全服属させるに至り、
キリスト教信仰を強要した。それから、
イスラム勢力が治めるイベリア半島方面にも遠征した。が、
その話を語ルーニヤ、"La Chanson de Rolandラ・ションソン・ドゥ・ホラン(ローランの歌)"
という叙事詩として伝えられた。そこでは
ローランはカールの甥ということになってる。カールとともに
キリスト教徒としてイスラム勢力に立ち向かったのである。
真田十勇士みたいな配下とともに、カールから拝領した聖なる剣
Durandal(デュランダル)で池添謙一とともに勇猛に戦う。が、
窮地に陥っても援軍を頼むなどという
弱虫な根性はサラセンといって虚勢を張り、
みすみす配下の将を失い、自らも討ち死ぬのである。ちなみに、
Durandalとはラテン語のdurus(ドゥールス=強い)という形容詞から派生した
動詞duro(ドゥーロ=強固にする)の受動態未来形
durandus(ドゥーランドゥス)から派生した語である。
durusのそのまた元はサンスクリットのドゥルーヴァで、原義も強固さ・強さを表す。
上記のごとく、
カール(やその父小ピピン)に助けられたローマは、教皇レオ3世が
800年の暮、カールをローマに招待する。そして、
12月25日の朝の礼拝時に、レオ3世はサプライズ的にカールの頭に加冠し、
「(5世紀に崩壊した西)ローマ帝国皇帝」の座を授けたのである。が、
じつはカールにとってはこうした拙攻はありがた迷惑だった。
西ローマ帝国は滅んでもまだ東ローマ帝国は存続してたからである。
東への根回しなしに強行に加冠されたことで、歴戦の士でもあるカールは
体感的に東側との軋轢を心配したのである。いっぽう、
ローマ側(法王庁側)にとっては、帝国の首都がローマではなく
元々は異教徒の地であったコンスタンティノポリスでは都合が悪かったのである。
神の威光・権威はローマにあり、皇帝の任命権も含まれる、
というデモンストレイションである。
カールは自らが宮廷をパリから移したアーヘンで死に、
棺はその大聖堂に安置された。アーヘンは
現在のベルギーやオランダと国境を接するドイツの町である。
のちに(クラ音界の)帝王と呼ばれることになる
若き日のカラヤンが歌劇場の音楽監督として
ベルリンへの足がかりとした町でもある。ところで、
トランプのハートのキングはカール大帝を表すのだという。ちなみに、
スペイドのジャックは「ローランの歌」でその側近剣士として活躍した
オジェ・ル・ダノワとされてる。それはともかくも、
カールの領土は子のルートヴィヒ(ツイ)を経てフランク族の慣習どおり
3人の孫によって分割統治され、おおまかにはそれが
フランス・イタリア・ドイツという国のおおもととなるのである。
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