["The Catch" by "Say Hey Kid" Willie Mays, at the Polo Grounds]
2010年のワールド・スィリーズは、
SFジャイアンツが4ゲイムズ・トゥ・ワンでテクサス・レインジャーズに勝って
NY時代の1954年以来、56年ぶりのワールド・チャンピオンに輝いた。
マッチョや人造マッチョなどがいない両ティームの組み合わせは、
それだけで観るに値するスィリーズだったが、やはり、
リンスカム投手が軸になったのは間違いない。ともあれ、
私はオウルド・タイムのベイスボールが大好きである。
1954年(昭和29年)は私はまだ生まれてなかったが、
あらゆる媒体でこのときの第1ゲイムの
有名なスィーンを見聞きした。
NYジャイアンツ対クリーヴランド・インディアンズ。1954年9月29日、
第1ゲイムはジャイアンツの本拠地、ザ・ポウロウ・グラウンズで行われた。
2対2で向かえた8回表、四球と単打で無死1、2塁。ここで打者は、
この日大当たりで1回表の攻撃では3塁打を放って2打点を叩きだしてた
クリーヴランドの5番打者Vic Wertz(ヴィク・ワーツ)1塁手である。すると、
NYは投手を先発右腕のマグリーから左腕のリドルに替える。が、
ワーツが放った大飛球は、センターフィールダーの定位置をはるかに越えて、
いわゆるポロ・グラウンズの深くまで飛んでく勢いだった。が、
中堅手ウィリー・メイズは後ろを向いて
後方頭上の飛球を確認しながら背走する。
最後の5mほどは飛球の軌道を予測して
走行方向を微調整して落下地点まで走りきる。そして、
グラブのパーム(手のひら)を天に向けて右手で支え、
物乞いが銭や物を恵んでもらうときのような格好で
打球をキャッチしたのである。
推定、本塁からの距離420フィート(約128m)。通常のボールパークなら、
本塁打になっててもおかしくない距離である。ともあれ、
メイズは「バスケット・キャッチ」で捕球するとすぐさま振り返って
内野に球を返した。
"A mays-ing catch"
といっても、
2塁走者のドウビーは帰塁してタギング・アップし3塁に進塁する。
これでもまだ、ワン・ダウン。走者1、3塁。
この回のジャイアンツのピンチはまだ続く。
交替したグリッソムが代打ミッチェルに四球を与え、結局、満塁。が、
そのあと、代打ポウプが見逃し三振、8番打者ヒーガンが
レフトへのファウル・フライで、クリーヴランドは無得点に終わる。
やはり、メイズの「捕球」がジャイアンツのピンチを救ったといえる。
試合は延長になり、10回裏、クリーヴランドの投手は
NYの先頭打者を三振に打ち取るものの、
メイズに四球を与え、そのメイズに2盗を許す。ここで、
クリーヴランドは打者を敬遠し、1死1、2塁として
ダブル・プレイを狙う。が、
代打ロウズが左打席から放った打球はライトスタンド深くに落下した。
下馬評ではクリーヴランド有利とみられてたものの、結果的には
4-0という"ワンサイド"でNYがワールド・チャンピオンになったのである。
ともあれ、
この第1戦で10回を投げて最後、
代打ロウズに3ラン・ホウムランを打たれて敗戦投手になったのは、
この年のレギュラー・スィーズン23勝7敗で最多勝投手、後年は、
NYヤンキーズの監督としてワールド・チャンピオンにもなった
Bob Lemon(ボブ・レモン)だった。ちなみに、
レモンはバッティングも得意で、投手としての通算ホウムラン
37本という記録を持ってる。これは、今でも
Wes Ferrell(ウェス・フェレル)投手の38本に次ぐ記録である。
ウィリー・メイズは1951年から1973年までメイジャーリーグでプレイし、
そのうち、兵役で朝鮮戦争に従軍して1スィーズン半をふいにしたが、
資格初年の1979年に票を得て殿堂入りした。が、
その年の暮れ、コミッショナーのボウイ・キューンは、
メイズをMLBから破門した。アトランティック・スィティのカスィノで
親善大使として雇われてたためである。が、
1984年LA五輪大会委員長としての手腕を買われて
次期コミッショナーとして迎えられたピーター・ユベロスは、
1985年、メイズに復権を与えるよう命ずるのである。
2010年のワールド・スィリーズは、
SFジャイアンツが4ゲイムズ・トゥ・ワンでテクサス・レインジャーズに勝って
NY時代の1954年以来、56年ぶりのワールド・チャンピオンに輝いた。
マッチョや人造マッチョなどがいない両ティームの組み合わせは、
それだけで観るに値するスィリーズだったが、やはり、
リンスカム投手が軸になったのは間違いない。ともあれ、
私はオウルド・タイムのベイスボールが大好きである。
1954年(昭和29年)は私はまだ生まれてなかったが、
あらゆる媒体でこのときの第1ゲイムの
有名なスィーンを見聞きした。
NYジャイアンツ対クリーヴランド・インディアンズ。1954年9月29日、
第1ゲイムはジャイアンツの本拠地、ザ・ポウロウ・グラウンズで行われた。
2対2で向かえた8回表、四球と単打で無死1、2塁。ここで打者は、
この日大当たりで1回表の攻撃では3塁打を放って2打点を叩きだしてた
クリーヴランドの5番打者Vic Wertz(ヴィク・ワーツ)1塁手である。すると、
NYは投手を先発右腕のマグリーから左腕のリドルに替える。が、
ワーツが放った大飛球は、センターフィールダーの定位置をはるかに越えて、
いわゆるポロ・グラウンズの深くまで飛んでく勢いだった。が、
中堅手ウィリー・メイズは後ろを向いて
後方頭上の飛球を確認しながら背走する。
最後の5mほどは飛球の軌道を予測して
走行方向を微調整して落下地点まで走りきる。そして、
グラブのパーム(手のひら)を天に向けて右手で支え、
物乞いが銭や物を恵んでもらうときのような格好で
打球をキャッチしたのである。
推定、本塁からの距離420フィート(約128m)。通常のボールパークなら、
本塁打になっててもおかしくない距離である。ともあれ、
メイズは「バスケット・キャッチ」で捕球するとすぐさま振り返って
内野に球を返した。
"A mays-ing catch"
といっても、
2塁走者のドウビーは帰塁してタギング・アップし3塁に進塁する。
これでもまだ、ワン・ダウン。走者1、3塁。
この回のジャイアンツのピンチはまだ続く。
交替したグリッソムが代打ミッチェルに四球を与え、結局、満塁。が、
そのあと、代打ポウプが見逃し三振、8番打者ヒーガンが
レフトへのファウル・フライで、クリーヴランドは無得点に終わる。
やはり、メイズの「捕球」がジャイアンツのピンチを救ったといえる。
試合は延長になり、10回裏、クリーヴランドの投手は
NYの先頭打者を三振に打ち取るものの、
メイズに四球を与え、そのメイズに2盗を許す。ここで、
クリーヴランドは打者を敬遠し、1死1、2塁として
ダブル・プレイを狙う。が、
代打ロウズが左打席から放った打球はライトスタンド深くに落下した。
下馬評ではクリーヴランド有利とみられてたものの、結果的には
4-0という"ワンサイド"でNYがワールド・チャンピオンになったのである。
ともあれ、
この第1戦で10回を投げて最後、
代打ロウズに3ラン・ホウムランを打たれて敗戦投手になったのは、
この年のレギュラー・スィーズン23勝7敗で最多勝投手、後年は、
NYヤンキーズの監督としてワールド・チャンピオンにもなった
Bob Lemon(ボブ・レモン)だった。ちなみに、
レモンはバッティングも得意で、投手としての通算ホウムラン
37本という記録を持ってる。これは、今でも
Wes Ferrell(ウェス・フェレル)投手の38本に次ぐ記録である。
ウィリー・メイズは1951年から1973年までメイジャーリーグでプレイし、
そのうち、兵役で朝鮮戦争に従軍して1スィーズン半をふいにしたが、
資格初年の1979年に票を得て殿堂入りした。が、
その年の暮れ、コミッショナーのボウイ・キューンは、
メイズをMLBから破門した。アトランティック・スィティのカスィノで
親善大使として雇われてたためである。が、
1984年LA五輪大会委員長としての手腕を買われて
次期コミッショナーとして迎えられたピーター・ユベロスは、
1985年、メイズに復権を与えるよう命ずるのである。
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