チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「最後の三冠王カール・ヤストレムスキー/背番号8」

2011年04月13日 00時52分45秒 | 野球新陰流(上泉偐勢守のホウボウ剣
[Carl Yastrzemski(1939-), the last triple crown winner]

今スィーズンのボストン・レッドソックスは、
開幕6連敗、そして現在、2勝8敗、という
惨憺たる成績である。
開幕時のただの躓き、ではなさそうである。私が
MLBを知った頃の1965年あたりは、
ヤンキーズが落ち目になってたときである。それでも私は、
現役晩年のミッキー・マントルが好きだった。
MLB自体も本塁打が出ないような操作をしてた頃である。
1961年にNY・ヤンキーズの、人気選手ミッキー・マントルならまだしも、
ロジャー・マリスがベイブ・ルースの「聖域(154試合制で60本)」を
侵してしまったのである。この年から、
エクスパンションで8ティームから10ティームになって、162試合制になった。
ヤンキーズは引き分け再試合を入れて163試合。そのうち、
マリスが出場した試合は161試合。それで61本である。ちなみに、
「61」本めはヤンキー・ステイディアムでの最終戦。相手は、
ボストン・レッドソックスだった。

そんな時代、ボストン・レッドソックス一筋に大リーガーだった男がいた。
カール・ヤストレムスキー。愛称"Yaz(ヤス)"。
レーガンと愛称で呼び合った大勲位でも、ずんでも、
めぐみ女史でもない。
左打ち、右投げ。
サーネイムから瞭然なように、ポウランド系である。
整った顔をした野球選手だった。米tvドラマの
"The Odd Couple(邦題=おかしなカップル)"の「フェリックス」役だった
トウニ・ランドールを、文字通り「真面目」にしたような顔である。
身長約180cmという、現在のスラッガーからすれば大きくない体躯である。
打撃フォームは……構えはコロコロと替えた。現役最晩年には、
前傾姿勢で頭をホウム・プレイトぎりぎりまで突き出すスタイルが……
そのスウィングは、ひとことで言えば、
大型扇風機だった。昨今の筋肉増強剤野郎どもや、
マッチョな体でセンスのないスウィングをする者どもとはまったく違う。だから、
首位打者を3スィーズンも獲得した選手なのに、
通算打率は.285でしかない。ともあれ、
守備も巧く強肩でもあった。というか、
闘志あふれる守備、というような、イチローよりも"魅せる"捕球をした。

このヤストレムスキーが1967年のスィーズンに記録した、
打率.326、44本塁打、126打点、はそれぞれの部門で
リーグ・トップだった。つまり、三冠王を獲得したのである。
これは、前年のフランク・ロビンスンに次いで2スィーズン連続の記録である。

打率の次点はそのロビンスンで.311。その次はアル・ケイラインの.308
打率は2位以下にヤスヤスと差をつけた。

本塁打はハーマン・キルブルーの44本と同点である。が、
その次が翌1968年に本塁打王となるフランク・ハウアドが36本、
前年の三冠王フランク・ロビンスンが30本、というもので、
この二人が図抜けてたことが判る。

打点の次点はキルブルーの113。8点差であるから、これも
ヤスヤスだったといえる。3位がロビンスンの94、4位がハウアドの89、
という低い数字なのである。

ヤスは翌年の1968年にも打率.301で首位打者となった。が、それは
メイジャー・リーグ史上で(2010年スィーズン終了時点でも)
最低打率の首位打者記録でもある。このスィーズンが、
すでにヤンキーズからカーディナルズにトレイドされてたロジャー・マリス、
ヤンキーズのミッキー・マントルともに、現役最後の年となった。いずれにしても、
"古き良き"時代のベイスボールだった。
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