和銅5年(西暦およそ712年)に、
「古事記」が編纂されたらしい。今年はそれから
1300年にあたる。その中に、
イザナキとイザナミによる「国産み」譚が描かれてる。
この2神は「大八島」を誕生させた。
1)淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)
2)伊予之二名島(いよのふたなのしま)
3)隠伎之三子島(おきのみつごのしま)
4)筑紫島(つくしのしま)
5)伊伎島(いきのしま)
6)津島(つしま)
7)佐度島(さどのしま)
8)大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)
1)乃至8)の順である。そして、この
1)淡道之穂之狭別島が、現在の
淡路島であるという。つまり、
イザナギとイザナミの第一子は淡路島だったのである。
ワンピースとNARUTOの区別がつかない
拙脳なる私は、素直なたちなので、
この記載を信じてしまう。
大和朝廷の発祥は淡路島で、
上記の順に従えてったのだと。
さて、
定家は「百人一首」に自身の歌を
097番に入れた。いっぽう、天皇を「8」名撰んだ。
そのうち、定家と同時代の後鳥羽院と順徳院はそれぞれ、
099番、100番である。
承久の乱の咎で後鳥羽院は隠岐=3)、
順徳院は佐渡島=7)、
咎無しながら自ら流罪を望んだ土御門院は2)、
定家の歌は1)、
である。数字を小さいほうから順に並べれば、
1237。
1237年はおよそ嘉禎3年にあたる。この年、
藤原家隆が死んだ。そして、百人一首の
098番は家隆である。
家隆の娘のひとりは土御門院に仕えてた。また、
1237年に定家は
歌学書「俊頼髄脳」を写した。
源俊頼(西暦およそ1055-1129)が伝えた
和歌についての覚書である。この俊頼は、
「百人秀歌」と「百人一首」とで同一人物で
採られてる歌が異なる唯一の歌人である。
なお、
「古今著聞集」の巻19、草木第29段662話は、こうである。
承元4年(西暦およそ1210年)正月の早朝に、
冷泉中将定家が内裏の南庭の左近の桜の枝を従者に折らせて
服に隠して持ち帰って家の庭に接ぎ木した。が、
蔵人らに一部始終見られてて、その話は広まり、
土御門天皇の耳にも入った。が、
帝は女房の建春門院伯耆にこう言った。
「わかってることを知らせてやろう。歌を詠むから代筆してくれ」
そこで、こう詠んで、
"くれなゐの薄様(くれないのうすよう=女房が使用する薄紅色の薄い紙)"
に女性の伯耆の文字で書かせて、さも伯耆が定家のもとに届けた体で送った。
[なき名ぞと、後にとがむな。八重桜。うつさむ宿は、かくれしもせじ]
(拙大意)無実であるなどとあとになって申し立てないでください。
八重桜を植え替えるような先の家は隠しようもないのですから。
それに対して定家は土御門帝の寛大さと心遣いに対してこう返答したという。
[暮ると明くと、君につかふる、九重の、やへさく花の、陰をしぞ思ふ]
(拙大意)暮れても明けても帝にお仕えする藤原北家の近衛の端くれの
冷泉家の私めでございますが、
宮中(九重=宮中、と近衛をかけてる)の花びらが重なって咲く
左近の桜のようにすてきなあなたの(あえて伯耆に言ってる体)の
傍らに侍らせていただけるのもすべて
あなたのおかげと心底感謝しております。
そんな心優しき、しかも承久の乱には無罪にもかかわらず
父(後鳥羽)と弟(順徳)が引き起こした乱に責任を感じて
自ら罰を申し出た土御門帝とももう「逢はじ」という定家は晩年、
「百人秀歌」そして「百人一首」を編んだのである。
「古事記」が編纂されたらしい。今年はそれから
1300年にあたる。その中に、
イザナキとイザナミによる「国産み」譚が描かれてる。
この2神は「大八島」を誕生させた。
1)淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)
2)伊予之二名島(いよのふたなのしま)
3)隠伎之三子島(おきのみつごのしま)
4)筑紫島(つくしのしま)
5)伊伎島(いきのしま)
6)津島(つしま)
7)佐度島(さどのしま)
8)大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)
1)乃至8)の順である。そして、この
1)淡道之穂之狭別島が、現在の
淡路島であるという。つまり、
イザナギとイザナミの第一子は淡路島だったのである。
ワンピースとNARUTOの区別がつかない
拙脳なる私は、素直なたちなので、
この記載を信じてしまう。
大和朝廷の発祥は淡路島で、
上記の順に従えてったのだと。
さて、
定家は「百人一首」に自身の歌を
097番に入れた。いっぽう、天皇を「8」名撰んだ。
そのうち、定家と同時代の後鳥羽院と順徳院はそれぞれ、
099番、100番である。
承久の乱の咎で後鳥羽院は隠岐=3)、
順徳院は佐渡島=7)、
咎無しながら自ら流罪を望んだ土御門院は2)、
定家の歌は1)、
である。数字を小さいほうから順に並べれば、
1237。
1237年はおよそ嘉禎3年にあたる。この年、
藤原家隆が死んだ。そして、百人一首の
098番は家隆である。
家隆の娘のひとりは土御門院に仕えてた。また、
1237年に定家は
歌学書「俊頼髄脳」を写した。
源俊頼(西暦およそ1055-1129)が伝えた
和歌についての覚書である。この俊頼は、
「百人秀歌」と「百人一首」とで同一人物で
採られてる歌が異なる唯一の歌人である。
なお、
「古今著聞集」の巻19、草木第29段662話は、こうである。
承元4年(西暦およそ1210年)正月の早朝に、
冷泉中将定家が内裏の南庭の左近の桜の枝を従者に折らせて
服に隠して持ち帰って家の庭に接ぎ木した。が、
蔵人らに一部始終見られてて、その話は広まり、
土御門天皇の耳にも入った。が、
帝は女房の建春門院伯耆にこう言った。
「わかってることを知らせてやろう。歌を詠むから代筆してくれ」
そこで、こう詠んで、
"くれなゐの薄様(くれないのうすよう=女房が使用する薄紅色の薄い紙)"
に女性の伯耆の文字で書かせて、さも伯耆が定家のもとに届けた体で送った。
[なき名ぞと、後にとがむな。八重桜。うつさむ宿は、かくれしもせじ]
(拙大意)無実であるなどとあとになって申し立てないでください。
八重桜を植え替えるような先の家は隠しようもないのですから。
それに対して定家は土御門帝の寛大さと心遣いに対してこう返答したという。
[暮ると明くと、君につかふる、九重の、やへさく花の、陰をしぞ思ふ]
(拙大意)暮れても明けても帝にお仕えする藤原北家の近衛の端くれの
冷泉家の私めでございますが、
宮中(九重=宮中、と近衛をかけてる)の花びらが重なって咲く
左近の桜のようにすてきなあなたの(あえて伯耆に言ってる体)の
傍らに侍らせていただけるのもすべて
あなたのおかげと心底感謝しております。
そんな心優しき、しかも承久の乱には無罪にもかかわらず
父(後鳥羽)と弟(順徳)が引き起こした乱に責任を感じて
自ら罰を申し出た土御門帝とももう「逢はじ」という定家は晩年、
「百人秀歌」そして「百人一首」を編んだのである。
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