チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「シューベルトのリート『魔王』」

2009年03月04日 18時09分26秒 | 説くクラ音ばサラサーデまで(クラ音全般
[Schuberts Erlkoenig und die Dreieinigkeit]

スギ花粉アレルギーがレヴェル5な私は、
pcのモニターを長時間見続けてたりすると涙が涸れて、
ドライアイ・ニヒ痒イトになってしまうのが常である。
昨日は雛祭りだったが、雛あられどころか、雪が
舞おうとしてた。寒さにも弱い私などは、
ゲーって叫んでしまったり、ギョエーテとも
魚エーッテとも喚いてしまうところだった。ところで、
初期キリスト教のスィンボルとされたのが、
イクトゥス生けるものの中でなぜ魚なのか、といえば、
2つの「弧」を反対向きにして、片方の端を合わせ、
もう一方の端は合わせないようにして「クロス」させると、
幼児が描く「おさかなちゃん」になるからである。また、
都合のいいことに、そのギリシア語のスペルは、
「イエス・キリスト・神の・子・救世主の」
という単語のそれぞれの頭文字になるからだという。
12使徒のうち、2組4人が漁師あがりである。すなわち、
スィモン(=ペテロ)&アンデレ兄弟とヤコブ&ヨハネ兄弟。とくに、
ペテロ、ヤコブ、ヨハネはイエスの弟子の中でも超側近である。

"Erlkoenig(エールケーニヒ)"の歌詞は、ドイツの大文豪ゲーテが
1872年に作った"Die Fischerin(ディ・フィッシェリン=漁師の娘)"
というズィングシュピールの中の歌のものらしい。それには当然
「モトネタ」がある(ギョエテには著作万引き癖あり……ファオストも然り)。
ヘルダーが翻訳したデンマークの民間伝承歌だという。そのデンマーク語の
"Ellarkonge"が電マー駆動の強烈なる刺激によって
"Erlkoenig"にされた由。
"Ellar"は「木の妖精(妖精といっても、
可愛らしいものを想像してはいけない)、
"konge"は「王」ということである。ちなみに、
益若つばさ女史と黒柳徹子女史の顔の
区別もできない拙脳な私には、
"Erlkoenig"が"Eelkoenig"に見えてしまって、
(巨大ウナギに首根っこなんか掴まれた気持ち悪かろう)
と思ってしまった。さて、

シューバートの「魔王」はト短調、ピアノの「3連符」で始まる。
歌は「語り部(エヴァンジェリスト)」のナレイトが先行する。
"Wer reitet so spaet durch Nacht und Wind? "
(ヴェール・ライテット・ゾー・シュペート・ドゥルヒ・ナハト・オント・ヴィント?)
「誰がそんなに慌てて馬を駆ってるのだ、
 夜、しかも風の中を?」
***♪シー|<ドー・ーー・・>シー・>ラー|<シー・ーー・・ーー・、
   シー|<ドー・ーー・・>ラー・ーー|<ミー・ーー♪
と、「シ」から開始される節なのである。
これは和声的にもト短調ではあるが、しかし、ニ短調の
***♪ミー|<ファー・ーー・・>ミー・>レー|<ミー・ーー・・ーー・、
   ミー|<ファー・ーー・・>レー・ーー|<ラー・ーー♪
と「見えて」しまう。それはともかく、次いで、
「親父」が登場する(ト短調)。
"Mein Sohn, was birgst du so bang dein Gesicht?"
(マイン・ゾーン、ヴァス・ビルクスト・ドゥー・ゾー・バング・ダイン・ゲズィヒト?)
「我が息子よ、なぜお前はそんなに怯えて顔を隠すのだ?」
***♪ミー|<ラー・ーー・・●●・>ミー|<ラー・ーー・・<シー・ーシ|
   |<ドー・ーー・・<♯ドー・ー♯ド|<レー・ーー♪
そして、「倅」が答える。
"Siehst, Vater, du den Erlkoenig nicht?"
(ズィースト、ファーテル、ドゥー・デン・エールケーニヒ・ニヒト?)
「見えるでしょう、おとうさま、魔王が……見えない?」
***♪レー、|<ミー・ーー・・ーー・>ラー、|<ファー・ーー・・ーー・>レー|
   |<ミー・ーー・・ミーー・>ラー|<ファー・ーー♪
そして、「親父」がそれを一笑にふしたあと、
いよいよ「魔王」の出番である。
"Du liebes Kind, komm, geh mit mir!"
(ドゥー・リーベス・キント、コム・ギー・ミット・ミール!)
「かわいい坊や、私と一緒に来ないかい!」
(変ロ長調=ト短調の平行調、調号が同じ)
***♪レー、|<ミー・ーー・・ーー・>ドー|>ソー・ーー・・ーー・、
  >レー|<ミー・ーー・・ーー・>ドー|>ソー・ーー・・ーー・♪
魔王だけ「長調」で書いてるのがまた効果的である。
シューバートはまだ18歳だったというのにである。ところで、
この「語り部」「親父」「倅」「魔王」の「入り」は、
どれもが4/4拍子の第4拍から、という
アオフタクトなのである。そして、いずれもが、
似通った節=動機から成ってることが解る。が、
「倅」と「魔王」がもっとも「近い」ということも解る。
そして、それが重要なことなのである。この
「倅」は「魔王」のもとに連れてかれることになる、
からである。つまり、
「倅」はもともと「魔王」と「同じ住処の住人」だった、
ということなのである。しかしながら、このリートは、
「親父」→「倅」→「魔王」という
「三者」が順に「連歌を詠い合っ」て、最後にまた
「語り部(エヴァンジェリスト)」のナレイトで締めくくられる。
その語り部の「序奏」と「結尾部」に挟まれた主部が、
「父」と「子」と「精霊」とのように
「三位一体」となって頻繁に転調を繰り返しながら
場面ばめんの状況を描写し、
一つの歌を繋いでくのである。さて、

やっと、ただならぬこと、倅の言ってることが
本当だ、と悟って親父はさらに馬を疾走させる。そして、
ナレイションが途絶え、pfが[c<des<d<es<e<f]と上昇すると、
曲は一変して穏やかそうな変イ長調に変わる。
"erreicht den Hof mit Muehe und Not;"
(エルライヒト・デン・ホーフ・ミト・ミューエ・オント・ノート)
「家にやっとのことで着くと、」
***♪ミー|ミー・ーー・・ーー・>ドー|<ファー・ー>レ・・>シー・<レー|>ドー♪
なにやら穏やかな曲想である。
ああ、これでなんとか無事に家に辿り着くことができた……
と安堵させるのである……が、
recit。という文字が添えられた締めは残酷である。
"in seinen Armen das Kind"
(イン・ザイネン・アルメン・ダス・キント)
「彼(親父)の腕の中で坊やは」
ちなみに、この「腕」の第4格"Armen"が、
狩野英孝の実家が由緒正しい神社ではなく、
ルーテル派の教会なんだと思いこんでたような拙脳なる私には、
「"Amen(アーメン)"、つけ麺、ボク池辺ン」
と聞こえてしまうのである。それはどうでも、ここは、
****♪●●●●・●ドド<レ・・<ミーーー・>レー>ドー|
   >シーーー・●●(8分休符にフェルマータ)♪
までが、変イ長調であるが、最後のフェルマータ附きのg音
Kind(キント)に、pf伴奏が半拍ずれて、
[cis(<)b(<)e(<)g]という減7を据えて(4分音符、フェルマータ附き)、
一抹の不安を残すのである。そして、そのフェルマータののちに、
"war tot."
(ヴァール・トート)
「死んでた」
と、突如、ト短調に戻って、
****♪♯レー<ミーーー♪
そして、それに追い打ちをかけるかのように、間髪いれず、
アンダーンテと速度を落とされたpf伴奏が、
♯ソ[d(<)a(<)c(<)d(<)fis](8分音符)=ト短調の属7
→ラ[g(<)b(<)d(<)g](4分音符)=ト短調の主和音、
というカデンツを効かせて曲を閉じるのである。
お見事! というしかない。以前、
このブログにコメントしてた御仁は、私が、
不自然な、無理した長短の転調に惑わされてる
シューバートの室内楽やpf独奏曲などを駄作、と言ったら、
「あなたはシューベルトの作品を体系的に聴いてないのでは?」
などと宣った。それ以前には、
「歌曲は別物です。歌曲は嫌いです。歌曲は聴きません」
などとその御仁はおっしゃってた、のにである。
私が所蔵するクラ音の録音物と楽譜は、おそらく、
その御仁のものより多く、私はクラ音にかぎらず
唱歌・童謡から流行歌までかなりな数を聴いてると思うが、
シューバートに関していえば、歌曲を聴かずして何が体系的だろう。
シューバートは歌曲にこそ、その天才を示した作曲家である。
歴史にタラレバはない、というが、シューバートは
ごく一部の管弦楽曲に歌曲同様の大傑作を残した以外は、
まだ「習作」の域を出てなかった。あと15年ほど
生きてたら違ったかもしれないが。いずれにせよ、
この「魔王」を筆頭に、シューバートはまぎれもない
天分をそのリート作品に残してったのである。

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