ぺるちえ覚書

兎追いしかの山… 懐かしい古里の思い出や家族のこと、日々の感想を、和文と仏文で綴ります。

子供時代の思い出 その2

2020-12-21 23:51:00 | 思い出

三筋町


父方の祖母の家は浅草の三筋町にありました。都営浅草線の蔵前駅からすぐでした。祖母の家は私が7歳の時に亡くなった祖父が会社の隣に自分の趣味で建てた木造の日本家屋で、家の中には古い木材と古畳の懐かしい香りがいつも漂い、四角い細身の柱や廊下の細長い床板はツルツルと黒光りしていました。家の奥が祖父母の寝室を兼ねた大きな日本間で、襖で仕切られたその隣には掘り炬燵のある茶の間がありました。おもての通りから社屋の横にある通用口を入って細長い通路をテクテク行くと、通路の突き当りがちょっと開けて祖母の家の裏口です。そこから上がるとすぐ目の前がこの茶の間でした。親戚やお馴染みさんは皆「こんにちは」とここから家に上がってきて掘り炬燵に足を突っ込み、祖母の入れるお茶を啜りながら、ヘビースモーカーだった祖母と一緒にセブンスターをふかしたり、四方山話に興じたりするのでした。


茶の間の奥の棚には分厚い大型テレビも嵌め込まれていて、この小さな部屋が祖母の家の中心でした。祖母の家に来ると私も皆と一緒になって掘り炬燵に足を突っ込み、祖母がお客さんや叔母たちとする世間話を耳にしながら、絵を描いたり、テレビを見たり、みかんを食べたりしました。おやつには祖母の好物だったペリカン食パンのバタ・トーストを、祖母と一緒にミルクティに浸して食べたりしました。当時、結婚前でまだ家に居た父の妹の叔母たち二人も、おばあちゃんっ子だった姪の私の面倒を随分よくみてくれました。


お茶の間を出て廊下を大きな日本間とは反対方向へ行くと、まず右手にお風呂場、左手には小さな洋間?があり、そこは結婚前の父の部屋だったそうで当時はもう誰も使っておらず、父の学生時代の写真が壁に掛かっていたり、薄暗い中に沢山の物だけが置かれていたように覚えています。廊下をさらに進むと右手が台所、左手は畳敷きの上がり間になっていて、その奥が滅多に使わない正面玄関でした。畳敷きの上がり間には洋式トイレと二階に上がる階段がありました。二階は叔母の部屋でした。


その頃の三筋町は日暮れ時になると、リヤカーのおでん屋さんや夜鳴きそばが笛を吹きながらやって来ることがありました。屋台がやってきた音を聞いて、いちど下の叔母のきよえちゃんと一緒におでんを買おうと器を持って外に走ったのを覚えています。屋台の上の大きな四角いおでん鍋のお出汁の中で、もうもうと立つ湯気の奥に色々な形の具がぐつぐつと煮えていて、それをドキドキしながらのぞき込んで選び、きよえちゃんに買って貰ったことが今でも忘れられません。下町の祖母の家ならではの、子供心にワクワクした楽しい思い出です。


記憶が遠すぎてもうあまりはっきりとは思い出せませんが、祖母の家は台所にも出入り口がひとつあって、そこから外に出ると、確か長屋のような家屋が数軒建っていました。そこには会社で働いていた旧知のおじさんの家などがあり、たまにそこのおばさんに「いらっしゃいな」と呼ばれて遊びに行くと、おやつに榮久堂のソフトをご馳走になったりしました。台所口の細い通路の奥には階段で登る高い物干し台があって洗濯物が竿にひらひらと舞っていました。これらの家屋と物干し台は何年か後に、父が会社の新社屋を建て増して無くなってしまいました。今はもうその社屋も祖母の家もありません。長屋の屋根が眺められる物干し台に登って遊んだのも、リヤカーで来る屋台のおでん屋さんも、昭和の子供時代の懐かしい思い出です。







ブルターニュの潮風にふかれて

2020-09-18 00:28:41 | 日記/覚え書き
前回、今年の夏休みは日本への帰省をあきらめて(涙)、一か月半を賑やかに北ブルターニュの家で過ごしたお話をしました。今日はその続きです。

ブルターニュ地方はフランスの北西部にあり、北をイギリス海峡、西をケルト海と大西洋、南をビスケー湾に囲まれた、ヨーロッパの北の海にグッと突き出た形の半島です。歴史的にも長く独立を保ってきたケルト系民族の地方で、ブルターニュ独自の文化と言語を持っています。半島は大きく5つの県に分かれていて、私たちの家はその西端にあるフィニステール県の北、"Aber"(アベール)と呼ばれる美しいリアス式海岸のL'Aber-Benoît(ラベール・ブノワ)沿いにあります。Finistère(フィニステール)はフランス語で "fin de la terre"、つまり「地の果て」ということ。ここは本当にフランスの最西端で、日没もパリより20分ほど遅いです。

家から最寄りの駅はBrest(ブレスト)なのですが、ブレストは中世からの軍港の街で今でもフランス海軍の重要な基地があり、有名な水族館のある海洋学研究所があったり、ブレスト大学もある大きな街です。パリからおよそ600㎞西にあり、フランスの新幹線TGVでなら今では4時間ちょっと、車でなら6時間ほど掛かります。余談ですが、輪型に焼いたシュウ生地にヘーゼルナッツを効かせたバタークリームを挟んだお菓子「パリ・ブレスト」の名前の由来である自転車レースは、パリからブレスト往復の1200㎞のレースだそうです。

ブレストから家までは北に約25㎞、車で約30分かかります。ブレストの街を出て、一つ、二つ、三つ、町をこえ、教会のある村をこえ、畑をこえ、林をこえて、海へ、海へと北に向かって進んでゆくと、だんだんと空間が開けてきて、まるで大空と大地と海とが一つにくっついたような風景になり、まさに「地の果て」というにふさわしい、感動に似た感覚にとらわれます。パリから始めてきた友達などはよく「おおお、地の果て~」と車の中で思わずつぶやきます(笑)。

私たちの家のある小さなコミューン(地方自治体)は元海軍関係の家族が多く、その多くが4世代5世代前からここに家を持っているそうです。彼らの曾お祖父さん、曾お祖母さん達がブレストから出て週末を過ごすために、ここに家を建てたのが始まりとのこと。彼らのほとんどがヨットを持っていて、コミューンのヨット・クラブがひとつのソサエティーになっています。ここではヨットが生活文化の一部になっていて、特に皆が集まる夏にはヨット・クラブの主催する数々のイベントが伝統となっています。例えば、毎金曜の18時はRégate(レガット)と呼ばれるヨット・レースのスタート時間(参加は任意です)。その年に選ばれた会員家族が企画運営する「チャレンジ」と呼ばれる、ヨットで移動する家族参加の謎解き競争、などなど。「チャレンジ」は毎回、企画者からテーマが与えられ、それに沿った仮装をして参加(笑)。レースの中でチームごとにテーマに沿った絵画作品も制作して、レース終了後にはヨット・クラブでそれらをオークションにかけて、集まったお金を海軍孤児の基金に寄付します。

もともと夫が「どうしても」ブルターニュに家を持ちたかった理由が実はヨット。夫も子供のころから家族でヨットをやっていて、両親の持っていたヨットを義理兄と二人で譲り受けて続けていたのですが、ヨットは両親の持っていた南ブルターニュの家をもう一人の兄と譲り受けた義理兄の所にずっと置いてあったので、いつかは自分もブルターニュに家を持ち、そこでヨットをやりたい!と思っていたのですね。

しかし、南のモルビアン県から北ブルターニュまで何日もかけて海路ヨットを持ってくるだけでもひと仕事。義理兄と「2年ごと」と取り決めて何年かは続けていたのですが、数年前に少し早すぎる季節に友人2名とモルビアンから海路に出た夫は途中で嵐にあい、危うく難破しそうになって…(涙) そもそもこのヨットは70年代に作られたプラスチック製のアルページュという型で良い船なのですが、リアス式海岸で遠浅のこちらの海には大きすぎて合わず、こちらで皆が持っているようなもっと小型のヨットが欲しいね、それもできればCotre(コートル)がいいね、と。

コミューンには家族経営の小さな造船所があって、そこの職人技で作られる木製のCotre(コートル)と呼ばれる小型の帆船を、古くからここにいる一族はみな持っています。でも、お金を出して注文すれば誰でも作ってもらえると言うものではなく(汗)、また注文を受けてもらえても数十年待ちとのことなのです。夫は諦めて小型で乗りやすければ何でもと、インターネットで手の出しやすい中古物件などを探し始めたのですが…。

ここでは、よい風が吹いているお天気の日など「ちょっと散歩をしてくる」という感じで、熟年のマダムがひとり颯爽と陽よけ帽と救命ベストを身に着けて、シンプルで美しい木製のコートルに乗り込み、白や臙脂の帆に潮風を腹ませてヨットを出します。そんなコートルがコバルトブルーの波間を悠々と進んでゆく姿は実に優雅で、ブルターニュならではの風情があって素敵です。

去年の春、夫はインターネットで見つけた中古の小さな "Caravelle"(カラヴェル)という型のヨットを買いかけていたのですが、私はどうも気が乗らず「待った!」を。そして8月にいつものようにブルターニュの家に行ったのですが、なんと、コミューンの友人が「自分のコートルを信頼できる人に売りたい、と言う知人がいるのだが、一緒に買わないか?」という話を持って来てくれたのです。これには私もひとつ返事で「OK」を出しました! 売り手は友人が家族同様に付き合っているコミューンの旧家の娘さんで、彼女のコートルは亡くなったお父さんが作らせたものだそうです。彼女の嫁ぎ先もブルターニュの人で、そちらでもヨットを数艘持っていて、もう手が回らなくなってしまったとのこと。でも、思い出のいっぱい詰まったお父さんのコートルなので、コミューンに家のある信頼できる人に譲りたいと言う話だったのです。

コートルを譲り受けて初めての夏。遊びに来てくれた息子の同級生たちも長男もコートルで海の散歩を楽しみ、夫は金曜のレガットにも参加(いつもビリッケツ~ 笑)。8月15日の聖母マリア昇天祭には元の持ち主を誘ってコートルで海上のおミサにも参列。ご近所さんたちとの海上ピクニックにも参加して、例年にも増して潮風を満喫した夏でした。



素晴らしいご縁に感謝です。
残暑厳しい折、皆さま、どうぞご自愛ください。













あっと言う間だった夏休み

2020-07-20 08:45:29 | 日記/覚え書き
実は夏休みのはじめに「子供時代の思い出 その2」を書きはじめたのですが、唯一の手持ちの端末だったiPadが故障。 書きかけた記事の下書きにアクセスできなくなってしまい、夏休みが終わる今までそのままに…涙(7月20日は下書きを始めた日付で、実は今日は9月2日です。)

いつもなら息子の学校がお休みになる6月中旬から東京の実家に帰省して息子とひと月半ほど日本で夏休みを過ごし、8月はフランスにもどって夫の好きな北ブルターニュにある海辺の家で過ごすのが、我が家のここ10年来の夏の過ごし方だったのですが。。。

今年は新型コロナのせいで東京到着時に空港で検査をしたうえ2週間の隔離期間… 高齢でハイリスクな実家の両親のことを考えても色々と難しく、息子も私も楽しみにしていた夏の日本帰省を泣く泣く断念することに。

その代わり、やはり周りのほとんどの日仏家庭が同様に日本への帰省を諦めてパリに残っていたので、息子のクラスメート3人と日仏家庭の友人一家も誘って、総勢10人の大所帯で賑やかに7月中旬からいざ!北ブルターニュの家へ~ 15歳の男子が5人、大人5人で毎日、海に庭仕事にと賑やかに2週間過ごし(私は友人と共に毎日給食のおばさんになった気分でした~笑)その後も引き続き8月後半まで夫の旧友夫婦や、長男がガールフレンドを連れて来たりと目まぐるしく楽しく、夏は海辺の家であっと言う間に過ぎて行ってしまったのでした。 夏休みって主婦にとっては全然お休みじゃないですね。 でも7人兄弟の大家族で育った夫は家が賑やかなのが大好きなので、とても嬉しい夏休みだったみたいです。

最後の一週間はようやく静かに家族三人で、大潮にヨットで潮干狩りにいったり、ご近所さんと夏の終わりを偲ぶ夕食会をしたりと、まったりのんびり過ごし、もう肌寒いほどになった海風に吹かれてからパリに戻ってきました。

一昨日パリに戻って来てびっくりしたのは街を行く歩行者がみなマスク姿なこと! 新型コロナが流行る前までは花粉症の季節でさえもマスク姿はめったに見かけないパリだったのに! 

皆さまもどうぞ引き続きご自愛くださいませ。



子供時代の思い出 その1

2020-06-18 07:17:45 | 思い出
久しぶりのブログ。
今日は子供の頃の思い出を書いてみたいと思います。

私は昭和の後半の東京に生まれ育ちました。 戦後のベビーブームも高度経済成長も終わってバブル経済が弾けるまでの、平和で豊かな時代の日本でした。。。

父のこと、母のこと、祖母のこと、

私の両親は戦中戦後に子供時代を過ごした世代なので東京の空襲を避けての疎開生活も経験しています。 駒形の父方の実家には大きな御蔵があったのだけど空襲ですっかり焼けてしまったそうです。 江戸時代からの家宝がずいぶんあったのに全部焼けてしまった~と、父はむかし残念そうにこぼしていました。 笑

私たちが子供だったころは母もたまに、疎開先の親戚の田舎で真っ暗な夜道をタヌキかキツネにばかされていつまでたっても家に帰り着けなかった話や、畑の大きな穴に落ちて出られなくなってしまった話、戦後すぐは白いご飯にバターを乗っけてお醤油をちょっと掛けて食べるのがこの上もない贅沢なご馳走だったことなど、当時の様々な思い出を話して聞かせてくれました。

おばあちゃんっ子だった私はきってのストーリーテイラーだった母方の祖母からも色々な話を聞かされました。 母方の祖父は母が生後1ヶ月ちょっとの頃に出征して終戦後にはインドネシアで捕虜になり、日本に戻ったのは5~6年経ってからだったそうです。 祖父の留守中、幼い子供二人と残された祖母は会社も預かって随分と頑張り大変だったそうです。 とても信心深かった祖母は、祖父が戦地から無事に戻ってくるようにとまだ寒い季節に真夜中の神社にお百度を踏みに行ったのよお(プルプル~)と幼かった私に話してくれました。 そうしてようやく戦地から帰って来た祖父は、その時もう小学校に上がるほどの年になっていた母にはまるで初めて会う知らないおじさんの様だったそうです。


そんな父母が子供だった時代や、新型コロナの世界的流行でますます将来への不安の多い現在と比べると、私の世代が育った昭和の後半は本当に平和で豊かでのんびりとした特別な時代だったのだなあと感じます。

父と母は当時には珍しい恋愛結婚で二十代の半ばに一緒になり、翌年には私が生まれました。 そして私が二歳の時にひとり目の弟が生まれたのですが、父は若い頃から仕事で留守が多く、家のこと子供のことは全て妻に任せっぱなしの家庭に不在型、昭和の父親の典型的なタイプでした。 なので子育ては母がひとりで奮闘せねばならず、私は小さいころから幼稚園や学校のない週末やお休みには父方か母方の祖母の元によく預けられていました。 ちなみに父方の祖母のところに一番最初に預けられたのは生後数ヶ月の時だったそうで、 父と母が一緒にどこかへ旅行に行くと言うので2週間ほど預けられたそうです。私は帰って来た母を見てもすぐには誰だか分からずにキョトンとしていたとのこと。


私は父方母方どちらにとっても初孫だったので、両方の祖母からずいぶん可愛がって貰いました。 だから生粋のおばあちゃんっ子なのです。 無口だった明治生まれの祖父達とはあまり話しをした記憶さえ有りませんが、祖母たちとは私が遊びに行くたびに沢山のお喋りを昼に夜にしてもらいました。 特に母方の祖母からは様々な昔話や不思議な神秘的なお話をたくさん聞かせてもらいました。


幼い頃に祖母たちと過ごした沢山の時間は、今も私にとって掛け替えのない宝ものです。





息子の学校

2020-06-15 18:49:05 | 日記/覚え書き

今日は息子の通っているパリの学校をご紹介します。


我が家の中3息子がいま通っているのは、パリの16区にある中・高一貫の公立マンモス校。全校生徒数は1300人程になるそうです。 こちらでは中学をCollège(コレージュ)と言ってSixième(小6)からTroisième(中3)までの4年間、高校がLycée(リセ)でSecond(高1)からTerminale(高3)までの3年間となります。 この学校、ちょっと特色のある学校で音楽学科、ダンス学科の他に東洋語学科があり、中国語、ベトナム語そして日本語が学べます。 特に日本語科にはインターナショナルのバイリンガル・クラス(OIB・日本語母国語クラス)が設置されていて、OIB中学部は日本政府の海外補習校の認定も受けています。 公立なので本来授業料は無いのですが、OIB中学部の日本語授業(国語・社会)のみはフランス教育省(アカデミー)の対象外なので、生徒の保護者で作るアソシエーション日仏友好協会(AAFJ)が日本人教諭の雇用も含めて運営しているので有料です。 それでも実質、保護者が負担するのは国語と社会の授業を担当される日本人教諭陣にお渡しする授業料のみで、会の運営自体は保護者自身が持ち回りのボランティアで行なっているので、パリの他のインターナショナル校に比べるとずっと学費がやすく、こちらで子育てをしている日日家庭、日仏家庭にとっては大変ありがたい学校なのです。


なのでパリで子育て中の日本人の親御さんには、お子さんをこの学校に入れたい!と思っている方がけっこういらっしゃいます。フランスで生まれ育ってもルーツ(のひとつ)である日本の言葉と文化は学んで欲しい!と、親としては自然と思うもの。。。 海外駐在のご家庭で数年間の限られた期間の滞在ならば、普通の現地校でその国の言葉と文化を経験させる、もよいかも知れませんが、我が家のようなこちらに定住の日仏家庭では、それだけだと子供の中身は純フランス人に仕上がってしまいます(半分はフランス人だし…)。 その場合、日本語力も日常会話はOKだけど読み書きはムリ、という辺りに落ち着くのが常。 もちろんそれでも子供は元気にスクスク育ってくれれば基本OKなのですが、我が子が母国日本の言葉と文化を受け継がないのは残念すぎるし勿体無い!と私もあのころ思ったのか。。。


そこまで深く考えたり思った記憶も無いのですが、息子が幼稚園に通う年になったら当然のように、現地校がお休みの水曜日に通わせるためにパリの日本人幼稚園を探して入園手続きをし、小学校に上がる時も同じで特に考えるまでもなく現地校に通わせながらパリにある小学生向け日本語教室の水曜日クラスに息子を入れました。


夫も私もぜんぜん教育熱心なタイプではないので、それまで特に息子の学校の勉強を見てあげたことも無かったのですが、小学校4年生の頃に日本語教室のママ友さんから今の学校の日本語科国際コースの話を聞いて、現地校で日本語教育も受けられてしまうなんて一石二鳥ではないか!と感動。 ただし入学試験があってハードルは高いと聞いて、そこから本人よりも親のモチベーションで息子の受験勉強を開始〜。 まさかパリで自分の息子にお受験させる事になるとは思ってもいなかったのですが、家庭教師の先生を紹介してもらったり漢検を受けさせたりと猛ダッシュ。 それまでのんびりと週一回のお教室で学年より1~2年遅れのペースで日本語の勉強をさせていたので、受験までの2年間で遅れを取り戻すために息子は本当に頑張って勉強しました。 幼稚園からずっと仲良しだった親友も一緒に受験したので、仲間と二人だったからあそこまで頑張れたのかもね。 まだ小さかったのにあんなに頑張れて偉かったなあ、と我が子ながら思います。


この中学の日本語科OIBクラスはひとクラス10~15人なのですが、日本語を外国語(LV)として学ぶ生徒達と一緒に30人弱のひとつのクラスに編成されていて、フランスの一般教科はクラス全員で受けて、LVの生徒達の日本語授業の間、OIBクラスの生徒は別れて日本の教科書で国語と社会を勉強する、と言うような仕組みです(正確にはちょっと違いますが)。 LVのカリキュラムと比べるとOIBのカリキュラムは週に数時間、授業量が多くなります。 勉強が比較的苦にならない子供でないとOIBについてゆくのは大変なようで、その点でもOIBクラスへの入学テストは意味があるようです。


受験させた親としては、このくらい早い時期(10~11歳)に受験勉強をガンバレタことは本人の自信にも繋がって、勉強がやり甲斐のある楽しいコトに思えるようになったのではないか?と見ています。 もちろんそういう受験勉強に向いていないお子さんもいると思うので、本人が無理をし過ぎずに頑張れるかどうかが一番大切だと思います。


そして息子がこの中学に入学して付いてきたオマケが、先ほどもちょっとお話ししたOIBの運営と学校内での日本文化活動を運営している生徒の保護者によるアソシエーションAAFJでの活動です。


OIB中学部の運営を担当している会のOIB事務局の役割は、学校側との様々な交渉や補習校としての日本政府との交渉、また日本人教師陣の雇用や入学テストの準備、助成金の申請など多岐にわたり、会長、書記、会計、教務担当、その他、ヘビーウエイトなお役ばかり。 完全なボランティア活動ですし、理想はOIB保護者全員が持ち回りでお役を引き受ける事なのですが、OIB事務局の仕事を実際にできる人はいつも限られてしまい、長期に渡って決まった人に負担が掛かってしまう傾向があるのが難しいところ。 それに保護者にも色々な考えの人がいますから、皆さんの意見をまとめるのも実に大変なこと。 お役に付いて下さっている方達には本当に頭の上がらない思いです。


かく言う私も息子の卒業までにはいつか一度はお役をお引き受けしなくてはと思いながらも、ヘビーウエイトなお役には覚悟も力も足らないので、息子が入学した年からずっと文化活動のアトリエ運営のお手伝いをさせて頂いてます。 毎年、学年度末に「日本祭」と呼ばれる日本語科の卒業生を送り出す卒業式典と在校生のパフォーマンスによるお祭りを会が主催してきたのですが、卒業式典に出席する卒業生の希望者に和装の着付けをしてあげる着物アトリエのほか、当校の卒業生の保護者でいらっしゃる池坊流の先生がみて下さる生け花アトリエ、フランス囲碁大会元チャンピオンのフランス人先生がご指導下さる囲碁アトリエ、その他にも新春かるた大会や俳句コンクールなど様々な文化活動を会で運営しています。


子供ができる前はこちらの日本人社会と特にご縁のない生活をしてきたので、息子のお陰で先祖返り?とでも言うのでしょうか、私自身がルーツに戻って母国日本の文化を再発見したような、嬉しいオマケを頂いた感じなのです。 息子の学校のお陰で振袖の着せ付けを習ったり、生け花を習ったり、子供達のかるた大会の練習にかるたを詠んだり(下手くそ~ 笑)、日本文化の素晴らしさを今頃になってパリで楽しませて頂いてます。 


母国日本の言葉と文化を、こうしてフランスの公立の学校で息子に学んでもらえるなんて、なんて幸運でありがたいことか!とつくづく思います。 息子はいま中3ですが、毎年のクラス替えがないOIB。 かれこれ4年来ずっと変わらないクラスメート達とは大の仲良し。 特にクラスの男子5人組はまるで兄弟のようです。 


COLLEGE ET LYCEE  JEAN DE LA FONTAIN


https://www.ac-paris.fr/serail/jcms/s6_224591/fr/en-savoir-plus-sur-le-japonais-a-la-fontaine


パリで子育てされている方のご参考になれば嬉しいです。


皆さまどうぞご自愛下さい。