ぺるちえ覚書

兎追いしかの山… 懐かしい古里の思い出や家族のこと、日々の感想を、和文と仏文で綴ります。

Omerta「沈黙の掟」とNon-dit「暗黙の了解」そして「書くこと」について

2021-05-15 08:01:05 | 読書

昨年11月から2ヶ月ちょっと滞在した東京を発ち、パリに戻った今年18日のこと。CDG空港まで迎えに来てくれた夫の車の中でラジオから流れてきたのは前日7日に発売になったばかりのカミーユ・クシュナー(Camille Kouchner)著、ノンフィクション「ラ・ファミリア・グランデ」("La familia grande" éditions du Seuil 2021)の話題。「知ってる?こっちでいま大騒ぎになってる本だけど」作家業も兼ねる夫いわく、発売当日から書籍ボックス・オフィス1位で30万部を売るベストセラー本とのこと。もちろんフランスの出版のことなど日本で話題になるはずもなく、私はこの本のことは全く知らなかったけど、「クシュナー」の名前は知っていました。著者カミーユはあの「国境なき医師団」の創設者であり政治家でもあるベルナール・クシュナーの娘さんなのだ。帰宅後、私も早速読んでみた。


著者の母親は大学教授で政治学者だったエヴリン・ピジエ。女優のマリーフランス・ピジエは著者の叔母にあたる。いずれも既に故人のピジエ姉妹は女性解放の運動家でもあり、70年代には姉妹ともキューバに渡り、著者の母である姉エヴリンはフィデル・カストロの愛人になったという伝説的女性。後に夫となる著者の父であるベルナール・クシュナーとも同じ時にキューバで出会っている。著者の両親はいわゆる68年学生闘争・自由解放運動世代インテリゲンチャのエリート達なのだ。しかし本の内容はショッキングなもので、著者の双子の弟が義理の父から子供時代に被った性虐待の告発である。義理の父は本の中で名指しにこそされていないが、フランスの現知識階級や政界にも影響力を持っていた憲法学者のオリビエ・デュアメルである。現代フランスの上流社会での出来事であり、この本が社会に及ぼした波紋は大きかった。オリビエ・デュアメルは本書の出版後、告発の内容を認め「後悔はない」とした上で、全ての役職から退いている。


著者がこの本で告発するのは、もちろん子供の信頼を裏切る近親者からの性虐待そのものが第一であるが、その周りにひかれたOmerta「沈黙の掟」でもある。当時周囲にいたほとんどの人物にこの未成年への義理の父からの性虐待は知らされていた、にも関わらず、彼らは沈黙を守った。母親エヴリンに至っては、子供達の訴えを受け入れず夫の擁護にまわったのである。そんな母を傷つけるにおよばず、その死後にようやく告発するに至った著者は、本書の冒頭で「ママ、私達はあなたの子供だったのよ」と訴える。そして著者自身が長いこと「沈黙の掟」に逆らうことができなかった深い罪の意識も当書の中で語られている。


著者にこの本を出す決意を促したのは、政界にも多大な影響力をもつエリート・サークル「Le Siècle*」の会長に義父オリヴィエ・デュアメルが就任したことだそうだ。


L’injustice.


彼女にとってそれは許しがたい最後の一押しだったのである。


ペンは剣より強し。勇気を持って書くことの大切さを思う。世の中にいかにこのような「沈黙の掟」そして「暗黙の了解」の多いことか。そのほとんどが本来許されるべきではないコトである。しかし、それを書くには社会における正義を信じる勇気がいる。フランスに限らず、社会はその勇気に答えるべきであろう


(*) https://en.m.wikipedia.org/wiki/Le_Siècle_(think_tank)


マルグリット・デュラス 『絶対なる写真』 "La photo absolue" de Marguerite Duras

2021-03-31 02:43:13 | 日記/覚え書き

2021年の始め、2ヶ月滞在した東京からパリに戻ってすぐのある日のこと。「パリ市主催の文化講座の締め切りが延長になりました!」とママ友の一人、さやかさんからグループ・ラインで情報が届きました。さやかさんは普段から頼りになるしっかり者。おお、彼女はなんと向上心高く、常に行動的なことか!と感動。単純な私はすぐに感化されて昔を思い出し「私もフランス語作文が習いたいと思っていた!」と応えると、彼女はすぐに講座のリストをシェアしてくれました。ありがたいことです。


しかし、私がフランス語を真面目に習っていたのは写真学校に入る前のこと。もうン十年も前の話です。当時、確かソロボンヌ大学の外国人向け文化講座でB2クラスの証書を取ったのが最後。その後も学生時代は周りに助けられながらレポート出したり卒業論文を書いたりもしましたが、専門は語学力は二の次の写真でした。それからずっと日常生活で不便しない程度のかなりイイ加減なフランス語でなんだかんだ凌いで来てしまったのです。


ともあれシェアしてもらったパリ市文化講座のリストに目を通すと、実に様々な分野の文化講座が開かれていてビックリ。それも今はパリ市民でなくても受講でき(越境入学可=クールブヴォワ市民でもOK!)、かつ誰にでも手の届く良心的な受講料なのです。人気があるのも納得。講座リストのフランス語学習枠、外国人向け講座の中に「歴史と文化を学びフランス語力を高める」という講座と「創作フランス語書き方B2-C1レベル」というのを見つけて、取り敢えず急いで両方に申し込み手続きをしました。毎回ほとんどのクラスに定員を越える応募者数があるので選抜試験ありとのこと。数週間後、まずはサイト上の申込書に書いた数行の志望動機を元にした書類選考の結果が来ました。「歴史と文化」の講座はすでに定員いっぱいでテストも受けさせてもらえず、試験を受けても良いという返事を貰えたのは「創作フランス語」のクラスだけ。3月3日に試験を受けて合格すれば引き続き受講できるとのこと。あああ、でもフランス語の試験だなんて、もう何十年も勉強していないし、今更そんなの受けても無理だろうなあ、と。諦め半分だったのですが、当日は意を決してダメ元で試験会場へ。


コロナでマスク姿の受講希望者が二十五、六名でしょうか、年齢は二十代の学生さんから上は私とそんなに変わらないだろうと思われる姿もチラホラ。教室で担当教諭を待つことしばし。13時からのはずが先生が現れたのは20分後。3時間枠なので確かに時間はたっぷりあるのですが、何もせずに教室に座っているのは流石に。。。 にこやかに遅刻して入って来たクラスの先生は年のころ三十半ばと思われる大変チャーミングなヴィクトリアさん。ラジオ・フランスのフランス文化放送で放送作家をされているとのこと。まだ小学生の息子さんがいて、今日の授業の前は息子さんを学校に迎えに行ってサーカス・アトリエにドロップしてから来るので遅れてしまうけど申し訳ない、とのこと。その辺フランスはおおらかです。誰も文句を言わない。彼女の自己紹介を聞いている間にも、遅れてやって来た受講希望者が23人。コロナ規制で本当は椅子をひとつ置きに座らなくてはいけないのですが、教室は満杯で座る場所もないほどに。これでは無理だからと筆記試験は取りやめにして、空いている隣の教室で一人づつの面談試験に急遽変更。なんとラッキー!思わず胸を撫で下ろし、それなら受かるかも?と私にも一筋の光が。


順番を待ち隣の教室に入ると、教壇の前の席に座ったヴィクトリアさんはにっこり「どうぞ」と。勧められ彼女の前に座った途端、一気に数十年前の学生に逆戻りした感覚に襲われて一瞬、動揺。どう見ても先生の方が私よりずっとお若いのだ。そうね、年は気にしないこと。人間、幾つになってもその気があれば学べます。と自分に言い聞かせ、自分のバック・グラウンドは写真であること。結婚するまで写真作家として活動していたこと。出産を機に、不器用で一つのことしか出来ないので写真を辞めてしまったこと。辞めた時に作りかけていた作品があって、写真と文章で一冊の本にするつもりで写真は撮り終わったのだけど、どうしても文章が書けず、そのままにしてしまったこと。できればその文章を書けるようになりたいこと。。。などを一気に伝える。


「マルグリット・デュラスの『愛人』(L'Amant)は読んだ?あの小説、実は最初は写真アルバムとしての企画だったのよ。だから読むとわかるけど、すごく写真映像的な小説なの。」とヴィクトリア先生。『愛人』は元々はデュラスの少女時代の写真を集めたアルバムに彼女の文章を添えて出版する企画だった。本のタイトルは『絶対なる写真』(La photo absolue)。それは写真に写し撮られることのなかったデュラスの「運命の映像」のこと。ところが、デュラスが書き上げた自伝小説を読んだ出版社は「文章は要らない。写真だけで出版する。」と言ったそう。当然、作家デュラスがそんな話を受けるはずはなく、この出版社を断って企画をミニュイ社に持ち込む。写真アルバムと自伝小説を受け取ったミニュイは、先の出版社とは逆に写真なしの純文学として小説のみを出版することに決めます。1984年、デュラスは70歳で『愛人』によりゴンクール賞を受賞。


「写真と文章を一緒にするのは不可能なのよ。」とヴィクトリア先生。私が "Je voudrais trouver une sorte de résonance entre l'image et le texte" と言うと、彼女はちょっと「ふむ」というように微笑んで "C'est bon pour moi!"とのこと。来週も来ていいんですか?と聞くと笑顔が返ってきました。


次の日、さっそく図書館でデュラスの『愛人』を借りて一気に読み終わった私。自分にいま必要なエッセンスが全てそこに入っているような小説で、感動。実は映画でしか観たことがなかったデュラスの『愛人』。映画は至って凡庸な作品でしたが小説は別物です。監督の才能も問題なのでしょうが、いかに純文学の名作を映画にするのが難しいかが分かります。それにしても私にとっては恐ろしいほど全てがマッチしたタイミングなのです。起きるときには起きる、というアレです。すべてはお陰さまなのです。きっかけを作ってくれたさやかさん、そしてヴィクトリア先生に感謝です。


続きは多分またご報告しますね。


こちらもコロナはまだまだ衰えを見せません。

パリは来週からまたロックダウンの噂です。

皆さまもどうぞご自愛下さい。





天界の魂

2021-03-14 01:03:03 | 日記/覚え書き

夫の親友の息子さんが亡くなった。留学先のプラハで明け方に星を見ようと友達4〜5人と上った5階建てのアパートの屋根から、手から滑ったライターを取ろうとして落ちてしまったと言う。19歳だった。


お父さんに似て感受性豊かで繊細で、少年の頃から優しく物静かな微笑みが印象的なスラッと背の高い美しい青年でした。


夭折という言葉がある。語源が知りたくなって広辞苑を見ると「年が若くて死ぬこと。わかじに。夭逝。夭死。」とだけある。そこで字統で夭を引いてみる。*「夭 : ヨウ(エウ) 。くねらす、わかい、わざわい。形象: 人が頭を傾け、身をくねらせて舞う形。夭屈の姿勢をいう。(中略) 若い巫女が身をくねらせながら舞い祈る形で、両手をあげ髪をふり乱している形は芺で笑の初文。その前に祝祷を収める器である口(サイ)をおく形は若。いずれも若い巫女のなすことであるから、夭若の意がある。それで若死を夭折、夭逝という。(中略) ソク(頭を傾けて舞う人の形)が祝祷を収めた器の口(サイ)を奉じて舞う形は呉で、娯の初文。神を娯しませることをいう。笑もまた神を娯しませることであり、神楽の古い形式は『笑いえらぐ』ことであった。」とのこと。若い巫女が神さまに祈り舞う姿、夭という一字に秘められた意味を知り、大いに腑に落ちる。


学生時代に好きでよく読んだ作家 三島由紀夫は「夭逝に憧れていた」と、どこかで読んだことがある。澁澤龍彦だったかも知れない。天才は夭逝するものだから、と。それで彼はあのような死に方になったのか知ら? でもあれは夭逝ではなかったけれど。


実は夭折とは、神さまの目を盗んで天界からここ人間界に遊びに来ていた純真無垢の無邪気な魂が、遊んでいる途中で神さまに見つかってしまい、「いいから早く帰っておいで」と呼び戻されてしまう事なのではないか? 


きっとそうに違いない。


そうとは知らずに彼らの受け入れ先となっていた家族や友人達は、まだこれからという彼らの天への突然の呼び戻しにただ呆然となり、意味もわからないまま早すぎるお別れを強要される。残された私たちに「呼び戻し拒否」の選択肢は与えられていないから。どのように引きとめようとしてもかぐや姫が月に帰ってしまったように。


全て今だけの神さまからの預かりものだったことを思い出す。


かぐや姫と違い、私たちはどんなに悲しくても愛しい彼らと過ごした時間を忘れない。彼らは私たちの魂に深く刻み込まれて心の中で生き続ける。ずっと一緒に。


「彼ら」の思い出は「私」がいなくなった後も、今度は「私」と共に過ごした時を忘れずに覚え続けてくれる別の誰かの記憶のどこかに、「私」の思い出と共にこっそり刻み込まれはしないだろうか? 沈黙したまま引き継がれてゆく隠れた遺伝子のように、ひとつひとつ鎖の輪が繋がれていくように、人が出会い慈しみあう限り、いつまでも。


当たりまえに過ごしている愛しい人達との今をもっと大切に生きなきゃと思う。もったいない毎日を過ごしている。


ほんの束の間でも下界に降りて来た天界の魂たちへ感謝を捧げます。


皆さま、どうぞご自愛ください。



*新訂 字統 [普及版]著作者-白川静 出版-平凡社 2007年より


子供時代の思い出 その3

2021-01-30 00:30:02 | 思い出
岩本町

母方の実家は神田川沿いの岩本町にありました。今はもう現代的なビルに建て替えられてしまいましたが、当時はこじんまりとした屋上のある二階建てのビルで、確か下が会社の倉庫と車庫、2階が会社の事務所と祖父母の住居になっていました。おもてから会社のシャッターの横にある小さな扉を入って急勾配の細い階段をトントンと登って行くと踊り場に出ます。踊り場の右手には事務所に入るドアがあり、左奥には祖父母の家の玄関がありました。ビルの中はいつも会社独特の紙とインクと機械油の混ざった匂いが漂っていました。 

祖父母は本宅が湘南にあったのですが、母方の家族はみな東京住まいでしたし、祖母は季節ごとのお芝居や文楽を何よりも楽しみにしていて、歌舞伎座や国立劇場に行くのにも便利な岩本町の家に祖父と共に居ることがほとんどでした。ちなみに祖母は七代目菊五郎さんの大ファンでした。

どちらかと言うと湘南の家の方が別荘のようでした。湘南には私達もよくお休みの時に遊びに行きました。そんな時は母も祖母たちと共に潮風の香る家でゆっくりと休暇を楽しみ過ごしていたようです。海岸沿いをぶらぶら江ノ島まで散歩したり、建て替わる前の昭和のサザエさん水族館や、マリンパークに連れて行ってもらってオットセイに一皿10円のイワシの餌をやるのが楽しみでした。真夜中、湘南の家で眠っているとマリンパークのオットセイの鳴き声が海風に乗ってコダマして「オイ、オイ、オイ」と布団の中まで聞こえて来ました。

母の実家の祖父母はなかなかのお洒落で新しいもの好きの大正モボとモガだったそうです。祖父は大学では大会に出場する乗馬部の選手、祖母は学生時代は水泳が得意で確か江ノ島沖?の遠泳に選手として参加もしたそうです。祖母はおばあちゃんっ子だった私に、乗馬服姿で馬にまたがり颯爽と障害を越える若い祖父の写真や、祖父と二人で白いテニスウエアに身を包みコートでラケットを手にした写真を見せてくれたり、学友達との遠泳の思い出話しなどを面白おかしくしてくれました。また祖父は動物が大好きだったそうで、秋田犬やコリーなどの大型犬を飼って犬の品評会に出場したり、一時期は小さなお猿まで飼っていたそうです。 

祖母は源氏物語や枕草子をこよなく愛する元・文学少女でもありました。前にもお話ししましたが祖母は一族きってのストーリーテイラーで、子供時代の思い出から、私たち孫も含めた晩年の家族の思い出まで、その時々のさまざまな思い出を書き綴って残してくれました。それが素人の筆ながら気取らず、時には真摯に想いを綴り、時にはコミカルに軽妙なリズムで、なかなかどうして引き込まれてしまう文体なのです。子供の頃の思い出など、少女だった祖母の目を通した当時の様子が活き活きと描かれており、読むとまるで映画でも観るように幼い祖母や祖母の家族の姿が心に思い浮かび動き出します。

とても信心深くご先祖さまを大切にしていた祖母。祖母が書き残してくれた文章には彩り深い日本文化のDNAが流れています。遠い異国で暮らすおばあちゃんっ子だった孫の私にはひとしおの嬉しさです。私や息子の中にも祖父母から受け継いだ日本文化のDNAのカケラがきっとキラキラと流れているんだ!と。

そんな祖母は小さい頃から私の一番近くにいる憧れの女性でもありました。武家育ちの江戸っ子で気前よく、お洒落でカッコイイ祖母でした。孫達にはともかく優しくて、いつもお小遣いを用意して待っていてくれました 笑。私はたまに祖母の元にお泊りに行くのが本当に楽しみでした。そのような祖母の、孫達を目に入れても痛くない様子を見て母はよく「私にはとても厳しいお母さんだったのよお~」と、ちょっと厳しい目で遠くを見ながら私に言ったものでした… 汗。祖母は幼い頃、ご実家にいらした大叔母様から大変厳しく躾けられたそうなのですが(祖母の本による)、母も祖母から同じように厳しく躾けられたのだと思います。祖母はよく母のことを「とても我慢強い子だったのよ」と私に言っていました。身長約140cmと小柄な母は兄と二人兄妹のしっかり者。若い頃、母の兄の友人達からは「小粒でピリリと辛い!」と評されながら、皆の妹のようにとても可愛いがられていたそうです。そんな母は昔から天性のお転婆ジャジャ馬な私にも、いつもとってもピリリと辛口でした~  

岩本町の家はビルの中にくねくねと迷路のように作られた感がありました。玄関を上がって廊下に出ると、正面に洗面所とお風呂場のドア。廊下を左に行くとお茶の間と台所があり、そこを越えてさらに奥に行くと、茶室とおじの部屋だった和室があって向かいのビルの見える縁側も付いていました。玄関から廊下を右に行くと、コンクリートに黒石を嵌め込んだ三和土のような土間があり、そこには地下の倉庫に続いているという重々しい扉と屋上に上がる階段がありました。三和土には小さな手洗い用の洗面台が付いていて、その横には神田川を下に覗ける小さな細長い引窓もありました。この小さな引窓から黒々とした神田川の川面に向かって食べ残しのご飯粒を投げて、フナのような魚たちが水面を割ってたくさん寄ってくるのを祖母と一緒に眺めた記憶があります。

三和土を越えて右手の廊下をさらに進むと、会社側と繋がった応接間の扉がすぐにあり、廊下をさらに進んで行くと一番奥は祖父母の寝室でお仏壇と大きな神棚のある日本間と祖父の書斎の和室が二部屋続きでありました。大きな神棚には大黒さまがお祭りされていて、私が泊りに行く時はいつも大きな幕が引かれていました。孫たちは大黒さまの神棚の前では静かにするようにと教えられていました。騒ぐと母から叱られたものです。 

祖母は美しい木像の観音さまも大切にお祀りしていました。この観音さまは祖母がお嫁入りの時にご実家から頂いて来たものだそうで、いちど祖母の夢に出て来て「足が痛い」と訴えられたことがあり、確かめると木像の観音さまのお御足が痛々しく虫に喰われていたそうです。祖母から聞いた不思議話のひとつです~  

祖母の好きな花は梅雨に咲く紫陽花で、好きな色は紫色、藤色でした。そう言えば湘南の家には見事な藤棚もありました。そして好きな数字は13、十と三で「とみ」だからと教えてくれました。だから私もラッキー7や末広がりの8と並んで13が大好きな数字になりました。キリスト教文化圏では「13日の金曜日」で一見あまり印象の良くない数字ですが、こちらでも「ラッキーな日」という解釈もあるようで、この日に宝くじを沢山買う人もいるそうです。  

祖父は30年ほど前に、そして大好きだった祖母も2003年に他界しました。私め、オバケは怖くて大嫌いなのですが(私は見たことありませんが、祖母は霊感があったらしく、幽霊を見た話や不思議な話をよく聞かせてくれました)、でもご先祖さま方はあちら側から私たちのことをずっと見守って下さっていると、かなり本気で信じています。 

ちょっと不思議な後日談をひとつ。

5年ほど前の夏休み、東京の実家に帰省していた折のこと。 その頃まだ今よりずいぶん元気だった母が当時小6だった息子を預かってくれるというので、ひとりサクッと新幹線に乗って一泊二日のプチ旅行へ。大好きなお伊勢さんにお参りに行ったことがありました。

八朔参り当日(8月1日)の夕方に伊勢市に到着。参拝は明朝と決めて、その日は散歩がてら夕涼みの似合う浴衣姿の参拝客で賑わう外宮までぷらぷら歩き、参道から神さまへのご挨拶を簡単に済ませて伊勢名物「豚捨」へ。夕食にひとり牛丼した後は、ホテルへ帰って早寝。翌日、早朝の爽やかな澄んだ空気を吸い込みながら参道をテクテク歩き、昨晩の賑わいとは打って変わった静けさの外宮でまずはお参り。それから巡回バスに乗って内宮へ。内宮参拝の後、せっかく伊勢まで来ることが出来たのだから御神楽を奉納させて頂こう!と思い立ち、神楽殿の社務所で申し込みを済ませて待合所へ入りました。


内宮の神楽殿の待合室はずいぶん広くて何セットものテーブルと椅子が並んでいます。100人くらいは簡単に入れるでしょうか。おそらく八朔参りの昨日はこの待合室も朝から満杯だったはず。それが今朝はしーんと静まり返っていて、私ひとりなのです


まさか一人?とやけに広い待合室に居場所なくオロオロしていると、後ろから先ほど受け付けて下さった社務所の女性が「先ほどお渡しするのを忘れました!」と色の付いた紙でできた案内カードを持ってきて下さいました。混んでいるときは案内カードの色ごとにグループになって、毎回数組が一緒に神楽殿で神さまにお取り次ぎ頂くわけです。 


手渡されたカードは薄い紫色。一番上に「御神楽案内カード」その下に「※藤色でご案内をします」と書かれており、真ん中には藤の花の絵と丸の中に「藤」の字、そして一番下には「◎ご案内まで待合所でお待ちください     No. 13     1名 」と書かれているではないですか! 


そこに示されている、色も、数字も、実は「藤」という字さえも、すべてが祖母を表していました。ただの偶然かも知れませんが(アリエナイ~!)、私はそのとき大好きな祖母がすぐそばに居ることを確信しました。もしかしたら祖母だけでなく、その他のご先祖さまたちも多勢一緒にいらしてるのかも~ と。笑 


ひろーい神楽殿の畳の上にひとりポツンと座った私だけのために、御神前の舞台の上では六人ほどの楽師さんが奏でる雅楽の調べに乗って、二人の巫女さんが舞って下さり、禰宜さまが神さまにお取り次ぎ下さいました。ただただ勿体なくて、言葉に出来ない感動で涙が溢れて止まりませんでした。。。神楽殿で私はひとりでしたが、ひとりではありませんでした。


皆さま、どうぞご自愛下さい。


家族って、なに?

2021-01-20 01:23:37 | 日記/覚え書き

新型コロナ大流行のせいで、昨年(2020年)は毎年家族で楽しみにしている夏休みの日本帰省も叶いませんでした。実家の両親にとって唯一の孫である息子も、丸々一年以上も日本の祖父母に会えずさすがに寂しがっていました。😿


息子は小6から中学2年の一昨年まで、毎年6月の半ばにフランスの学校が終わると直ぐに東京の実家に戻り、実家のそばの公立校に仮入学をして一ヶ月ちょっとの間ですが日本での学校生活を享受していました。「日本の学校給食は美味しい!」と喜んだり、期末テストを皆と一緒に受けたり、放課後のクラブ活動(陸上部!)に参加したりと、日本で同い年の友達も沢山できてとても楽しかったようです。フランスのリセでも日本語バイリンガルのクラスに通っているので、高校一年生になった今も日本の漫画やラノベが大好きです。


...実は長年闘病していた父の容態が、昨年の夏以降かなり悪くなっていました。夏は無理だったけど10月の秋休みには帰省しておいた方が良いのでは?とも言われていたのですが、新型コロナの猛威は世界中で収まる様子もなく、移動中の感染リスクや到着後2週間の隔離期間などを考えるとやはり家族での帰省は難しいものでした。常から母には「必要だったらいつでも帰るから言ってね」と伝えていたのですが、母は「帰って来てくれたら助かるけど、長時間の飛行機はコロナ感染のリスクが怖いから無理しなくていい」と言い、父からも「恨まないから帰ってこなくていい」とまで伝えられて。。。 結局、秋も泣く泣く実家に帰ることを断念していました。


そうして2週間過ごした秋休みの終わり、11月のはじめにブルターニュの家からパリに戻る途中で「実家の父、危篤」の連絡が入りました。ノルマンディの義理の母の家を経由して総距離600Km強。軽自トヨタを運転してパリに帰宅したその足で独り飛行機に飛び乗り、羽田空港へ。「長くなるけど...」と言う私に「大丈夫!」と、年明けまでの長期の予定でパリを留守にする事を夫と息子は快く引き受けてくれました。(息子はちょっと不安そうでしたが... 笑) 


その日、私が羽田空港に到着して新型コロナのPCR検査の結果を待っている最中に「いま亡くなりました」の連絡が。ああ、私が日本の地に戻るのをギリギリまで頑張って待っていてくれたのかも、と最期に会えなかった父を思いました。


この一年新型コロナのせいで帰って来れず、最後にもう一度、孫の顔を見せてあげられなかった事だけは悔やまれました。この夏、いつものように実家に帰省していれば、もう少し最期の時間を一緒に過ごすことが出来たのにね...と。実は父は我儘放題生きてきた人だったので、最期のお別れもあまり悲しいと言う気持ちは湧いて来ませんでした。でも孫とは仲良しでした。最期に高校生に成長した孫に少しでも看病して貰えていたら、きっと喜んだろうなあ、と思わずにはいられませんでした。それは、どんなに辛く大変でも、息子にとっても祖父との大切な思い出になっていたに違いありません。普段離れていても、父と娘、祖父と孫、家族は家族なのです。


ひとつ残念だったことは、実家の家族の中に何を勘違いしてか、それが分からない者がいたこと。でも、理解できない者には何を言っても仕様がないから笑って諦めるしかない。どこにも理想の家族などなく、それぞれ自分のことで精一杯。凸凹なのです。


それにしても本当に自分の好きな様に生き切ったなあ、と思う父。「まだもう少し生きていたい」という思いはあったかも知れませんが、あまり後悔は無かったはず。お葬式でも家族は母も誰も泣いておらず、なんだか不思議でした。父が亡くなったのに悲しくない、と言うのも変ですね。お悔やみにいらした父の友人の中には、オイオイと涙して下さった方もいらっしゃいまいしたが。。。


父が亡くなったことで、今さらですが「家族ってなんだろう?」と、ふと思いました。父親と母親がいて、子供がいて、それが家族の最小単位でしょうか? でも、いろいろな形の家族があります。片親でも、夫婦だけでも、おばあちゃんと孫だけでも、兄弟姉妹だけでも、家族でありえます。再婚して家族が広がることもあります。我が家の夫もバツイチですが、クリスマスには夫の長男とそのお母さん(前妻)も一緒に集まって皆で祝います。大きな意味ではみな家族です。笑


もともと夫は7人兄弟の末っ子、フランスの大家族です。いとこやはとこも沢山いますし、姪っ子や甥っ子もわんさかといます。以前、義理の母の「いとこ会」にも出席しましたが、ヨーロッパ全土から150人ほど集まっていました! 日本にも昔はこういう大家族が沢山いたように思います。大家族が普通だったその頃は「家族って、なに?」なんて思うことも無かったかも知れません。


結局は自分が「家族だ」と思えば、それが家族なのかも知れませんね。

私にとって家族は「安心して帰れる場所」、シェルターです。そしてお互いに我儘を言い合えるのも、本気で喧嘩できるのも、信頼できる家族ならでは。笑


Ma petite famille comptes pour moi.

私の小さな家族に心からありがとう。

 

皆さまどうぞご自愛下さい。