デジブック 『明日への飛翔』
夏休みの宿題を先に済ませました。
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二重になってしまうようです。
では、また。
つる姫
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ついに最終章です
わが町出身者の有名人
http://www.loft-prj.co.jp/schedule/lofta/16962
8月6日追加です。
忘れてはいけない事だから。
被爆の苦しみ、寄り添い支え=夫と二人三脚、差別の言葉も―「ゲン」作者の妻・広島
時事通信 8月6日(火)8時0分配信
「放射能がうつるんじゃないの」。自身の被爆体験を基にした漫画「はだしのゲン」で知られ、昨年亡くなった漫画家中沢啓治さんを支え続けた妻ミサヨさん(70)。二人三脚で漫画を描き、被爆者の妻としていわれのない差別を受けたこともあった。夫の遺言を守り通すような気持ちで、戦争や原爆を知ることが平和への一歩と伝え続けている。
「主人と違って私は原爆を受けていない。だからこそ、被爆者を理解しなくてはと思った」。6歳だった中沢さんは、爆心地から約1.3キロで被爆。父と姉弟を亡くし、自身も頭や耳にケロイドとして残るやけどを負った。一方、ミサヨさんには戦争の記憶がない。2歳のとき、爆心地から離れた広島県呉市で終戦を迎えた。
48年前に出会った2人は、半年後に広島で挙式した後、東京で暮らし始めた。中沢さんは娯楽漫画で活躍。原爆の話は一切しなかった。
上京して8カ月、中沢さんの母が死去した。被爆しており、火葬すると骨も残らなかった。これが転機となった。中沢さんは広島から戻ると、見たことのない重苦しい様子で、初めて原爆を題材にした漫画を一気に描き上げた。
ミサヨさんが「あの日」について直接聞いたのは、結婚から6年が過ぎたころ。被爆体験を題材にした読み切り漫画の仕事がきっかけだった。仕事場兼自宅のアパートで、中沢さんは淡々と語った。ミサヨさんの中で、「原爆を知らなくては」との思いが強くなっていった。
1973年に「はだしのゲン」の連載がスタート。ミサヨさんも背景のペン入れなどを手伝った。家族を失った原爆孤児や、顔にケロイド状のやけどを負い自殺未遂を繰り返す少女。登場人物をどう表現するか苦悩する中沢さんとともに、作品について話し合い、理解を深めていった。
「何で被爆者と結婚したの」。時にはミサヨさんにも心ない言葉が掛けられた。「知らない、ということが一番怖い」。そう痛感した。
2012年12月、肺がんや糖尿病を抱えながらも平和を訴え続けた中沢さんは、73歳で生涯を閉じた。「被爆した人は何も悪くないのに、病気や差別に苦しみ生きている事実を知ってほしい。そして、戦争や原爆に反対してほしい」。68年目の夏を控え、ミサヨさんは思いを強めている。