40代後半だったでしょうか。その友人と京都を旅したのは。
彼女とは、本当に、不思議な縁でした。
高校の時もたまに喧嘩しましたが、卒業してからも、ちょっとの気持ちのすれ違いで、何度か喧嘩別れみたいな事になったにも関わらず、広い東京でばったり出会って、縁がつながったりしたのです。
彼女は、割と若い時に、地方へお嫁に行きましたが、仕事の研修で東京に来るたびに、彼女が行きたいというところを一緒に歩きました。
最後に東京で会ったのは、京都旅行の数年後、いつかの夏が過ぎて秋が始まった頃。
その直後、職場の健診で肺がんが見つかったと連絡がありました。
毎年健診を受けていたにもかかわらず、その時すでに事態は深刻な状況だったそうです。
最初は、意外と前向きな発言が多かったのですが、病気というのは、心まで壊してしまうものでしょうか。
徐々に彼女は、僻みや不信感に支配されて行き、メールや電話で私が何を言っても、素直に聞いてはくれませんでした。
私にだって、色々ある、あなたの愚痴や僻みに付き合ってる時間はない。
私はその頃、まだ子育て真っ最中。学校の事、親戚関係でも、まあ色々あった頃です。
そんなような事で、私と彼女は再び絶交状態になりました。
もちろん、気にはなっていましたが、連絡を取る勇気も、友だちとしての優しさも、その時の私にはありませんでした。
きっと元気になっただろうと、そう言い聞かせる事が自分へのいい訳でした。
そして、そのうち自身の心臓病が発覚しました。
私が大病を患った事を聞いたら、あの子はどう思うのだろう、と思った事もありました。
そんな彼女が亡くなっていた事を、一昨年同窓会の関係者から聞きました。
もの凄くショックでした。いつ亡くなったのかも不明です。
彼女は、私が心臓を病んだ事は、知らないまま死んでしまっていたのです。
そんな事なら、私も病気になって苦しんでる、でもあなたみたいに、我儘な病人にはならない、言ってやりたかった。
それは、喧嘩を売るのでも嫌みでもなく、病気になって初めて、彼女の気持ちがわかったような気がしたから。
私は生き伸びて、彼女は死んでしまった。
「残された」私が、どれだけ彼女との最後を後悔したか。
私にもう少し強さと優しさがあれば。彼女のわがままを受け入れてあげられたのに。
さて、旅に戻ります。
ここは、化野念仏寺の、千灯供養でも有名な西院の河原。
私の眼がとまったのはこの言葉。
スマホの人は拡大してください。俗世間つもりちがい十ヶ条。
思い当たる節がみなさまにもおありでは?
ここには、水子供養のお地蔵様がおられます。
私には、この世に送り出してあげる事の出来なかった命がありました。
友人と来た時、私が水子供養のお地蔵様に手を合わせている間、彼女は怖い物でも見るように、遠くから私の様子を窺っていました。
そう言えば、彼女は東京の鬼子母神に行った時も、その辺にあった仏像をみてとても怖がったり、鎌倉の薄暗いお寺の道を異常に怖がったりしていました。
今にして思えば、彼女は知らず知らずのうちに、近づきつつあった「死」という物の恐怖を感じていたのかも知れません。
今回水子地蔵堂は改修中でした。本堂でお参りをして、寺を後に。
もう化野地区に来ることはないだろうな、と思いつつ嵯峨野巡りの道を嵐山方面に歩きます。
確かこの道すがらのどこかで、友人とお団子か何か食べた記憶があったのですが、お店屋さんが変わったのかも知れません。見当たりませんでした。
去年もおととしも思いましたが、還暦で京都の旅に出たのは、同じ日に生まれたけど、還暦を迎える事のできなかった彼女が自分の事を思い出してほしかったのかな、と。
しかしながら、彼女を思い出すたびに、「私はまだそっちには行かないよ」と思っています。
それは彼女に対する嫌みでもあてつけでもありません。
生きることは、時に、死ぬ事よりも辛くてしんどかったりするんだよね。
死んだことがないからようわからんけど、彼女は私なんかより、もっと大きな苦しみを抱いて生きていた事も、ホントは知ってた。だからこそ、私は彼女の我儘を許してあげないといけなかったんだ。
後悔先に立たず、です。
あの時ああしてれば、こうしていれば・・・生きていたら、いくつかは取り返しがつくものがあるかもしれませんが。
彼女の話をするのは、今回が最後です。
病はこころまで・・・でも、今話題に上っている池江さんの事をみていると、当人の生き方、それを取り巻く人たちの存在が欠かせない要素になるって、つくづく思います。
この事は旅が終わってから書こうと思います。
つづく
最近特に誤字脱字変換ミス、ちぐはぐな部分が目立つ日もありますが、どうぞ忖度して読んでね。
今日も笑顔で過ごしましょう。
感謝をこめて
つる姫
(ブログ開設から2769日)