今日は100才でなくなったおばあちゃんの誕生日。
蠍座、寅年、ついでにA型のおばあちゃんでした。
おばあちゃんは病気と戦争で二人の夫を亡くし、母を先頭に下に3人の男の子、4人の子どもたちを苦労して育てました。
幼い頃から気が強いお転婆で、嫌いな先生に悪いいたずらをしたり、木登りから落ちて大けがをしたこともあったそう。
私はおばあちゃんには似てなかったです。気が弱くて消極的な子でしたから。まじで。
青春時代の話を全く聞いたことがないのを、いま改めて残念に思います。
旅館の子息で、国鉄に勤務していた夫の仕事で、満州に渡って母を産んだのが19才の時だったそう。
詳しい事はわかりませんが、母が3才くらいの時に満州から引き揚げて来て、母も旅館のお嬢様として暮らした時期もあったようですが、何年かして夫は脳溢血で27歳の若さで他界。
母は10才以下だったと思いますが、父親の葬儀の時に何かのきっかけで笑ってしまったそうです。
その時に、おばあちゃんにひどく叩かれたのを、いつまでも忘れられなかったそう。
母とその下の弟を連れて再婚した相手と二人の息子をもうけ、そして夫が戦死。
4人の子どもを連れて知り合いの家に間借りして、男性に紛れて土方の仕事をしたりして子どもたちを育てました。
母も兄弟の一番上でしたし、たった一人の女の子だったので、幼いながら苦労はあったはずです。
聞いた話でよく覚えていることがあるのですが、貧しくて真っ白いお米のご飯を食べれる事はほとんどなかったそうです。
負けず嫌いというかプライドの高いおばあちゃんは、子どもたちのお弁当に麦ごはんを詰め、その一番上に白いお米のご飯を広げて、蓋を開けた時に、真っ白いお米のご飯にみえるようにしていたそうです。
母が23才で結婚して、その後下の弟たちがどのように自立していったか知りませんが、3人とも関西方面でそこそこ出世もされました。
私が生まれた時、おばあちゃんはまだ42才位。
服装や髪形などもありますが、今の42才と比べたらおばあちゃんぽいですね。
おばあちゃんは、私が幼い頃までは、間借りしていたお宅に一人で住んでいました。
お祭りや年末にお土産を持って遊びに来てくれるおばあちゃん。
あと何日寝たらおばあちゃんが来る♪という楽しみ。
この時は、おもちゃの電話をもらったのでしょう。
そして、たまには、おばあちゃんにバスで会いに行きました。
そのバスから見る車窓の風景や、おばあちゃんに会えるわくわく感。
おばあちゃんが亡くなった後の夢で、母とバスに乗っている夢をみたのですが、その記憶があっての夢だったのかもしれません。
その後何年かして、おばあちゃんは、とある町で住み込みの家政婦さんとして、お金持ちのおじいさんのお世話をしていました。
そこに遊びに行くのもバス。なんと2時間半もガタガタとバスに揺られていくんです。
一年に数回だったと思いますが、おばあちゃんの家のある街にはデパートがあり、そこに行くのが楽しみで楽しみで。
これまた、家の近くのバス停からバスで行くのですが、5歳下の弟が、バスの時間が待ちきれなくて、時計の針を進めて大目玉を食ったことがありました(爆)
時計の長い針が、3のところに行ったら出かけるよ、みたいなことを言われていたのだと思いますが、なんとも短絡的な発想。
真面目な私には思いもつかないやんちゃ坊主の知恵でした。
どうやって、あんな高いところの時計に手が届いたのか、大人たちが不思議がっていたのを今でも覚えています。
弟は口を割りませんでした。
弟はおばあちゃんに似てたのかも?
おじいさんは他人だったので、おばあちゃんも母もとても気を遣っていたのが、今に思えば昔からHSPの私にも伝わって、幼心に気兼ねしていたのも覚えています。
小学生の時でしたか、おばあちゃんの家に夏休みに一人で何日か泊まりに行ったことがありました。
その頃もまだおばあちゃんは50才前後だったと思いますが、毎日色んな所に連れて行ってくれて、邪魔な弟もいないし、天国のような日々だった。
そんなおばあちゃんは、道を歩くときは必ず私を車の走らない方に歩かせてくれました。
弱いものを守る、というような教えの一つです。
いつしか、今度は私が車の走る側に歩くようになったときに、おばあちゃんが何か感慨深い言葉を言ったように思いますが、忘れました。
高校を卒業する年に、おばあちゃんの住む町に新幹線が通りました。
高台にあるおばあちゃんの家から、新幹線が走るのがよく見えました。
小さな平屋建ての家の前には、敷地の半分ほどを占領した庭があり、小さな池に立派な鯉も泳いでいました。
お花の好きなおばあちゃんが育てる花たちはどんどん増えて、近所の方から「花やしき」と呼ばれるほどの美しいお庭になっていました。
一度、新幹線に乗っているときに、車窓からおばあちゃんが裏庭を歩いているのが見えたこともありました。
裏の空き地を借りて、野菜も育てていたのです。
今でもそのあたりを通る時に目を凝らしますが、おばあちゃんが施設に移った後、家は人手に渡り、改築もされて、美しい庭も野菜を育てていた裏庭もありません。
それでも、長い髪をお団子にしたおばあちゃんが白い割烹着を着て歩いている姿が目に浮かびます。
東京に行ったり帰ったりするときには、不便な田舎までの交通機関がないので、おばあちゃんの家に泊まらせてもらっていました。
私が行くと、おばあちゃんは必ずと言っていいほど、分厚い鳥のもも肉をバターでソテーにしたものを作ってくれました。
油がよくなじんだフライパンの上で、じゅうじゅう焼けるお肉の音も記憶にあります。
若い人には、肉、と思っていたのでしょうね。
お料理好きは私の母に引き継がれましたが、私にとってお料理は義務。
(笑)
一人暮らしの私はお金がなく、新幹線は自由席。
なので、座れる可能性の高い朝一番の新幹線に乗る私、駅で並ぶ時間もあるし、始発のバスの前、駅まで歩きました。
20分弱かかる駅までの道。
いつかの時までは、おばあちゃんが途中半分位まで一緒に歩いてくれました。
年を重ね、家の下の道までしか見送れなくなったおばあちゃん。
東京に帰る私、駅までの道のりで気持ちを切り替える。
おらあ、もうすこし東京さでがんばるべ~。
結婚してからも、実家に帰る前にはおばあちゃんの家に寄って、ひ孫と触れ合う時間を作りました。
その頃はおじいさんはなくなって、ご遺族のご厚意でおばあちゃんが一人で住んでいました。
おばあちゃんが育てた野菜を、こどもたちに収穫させてくれたりしました。
子どもたちも成長した頃、おばあちゃんも年を重ね、実家の近くのケアハウスに入りました。
文章を書くこととお花の好きだったおばあちゃんは、花を育てる楽しみの事を書いて、その投稿が新聞に写真入りで掲載されたこともあります。
ケアハウスに入っても、窓際には沢山の鉢植えを育てていました。
そうそう、おばあちゃんはちぎり絵に嵌って、美術展に出してもらったこともあったな。
滅多にない実家の方の地震の時に、ケアハウスのエレベーターに閉じ込められたことを武勇伝にしていました。
それからまた何年か経って、おばあちゃんは寝たきりになりました。
ある年の春に帰省した時に、久しぶりにみたおばあちゃんは、ベッドの名前を見ても信じられないくらいの変わりようでした。
私が結婚してアメリカに発った日が31年前の10月28日。
ちょうど、おばあちゃんの誕生日でした。
先日、実家に咲いているピンクのバラが、31年前に成田から送ったものを、母が挿し木にしたものと書きましたが、同じ時におばあちゃんには黄色い薔薇を送りました。
体調の事もあって東京での結婚式に来ることをあきらめたおばあちゃん。
ホントは一番来てほしい人でした。
20代で二人の夫を亡くして、4人の子どもたちを育て上げたおばあちゃん。
今とは時代も違って、本当に大変だっただろうと思います。
おばあちゃんから教わった沢山の知恵。そして、物言わぬDNA。
私は孫に何を残すのかな。
懐かしがってもらえるようなおばあちゃんになれるのかなあ。
天国のおばあちゃん、この世で生きて出会ってくれてありがとう。
繋いでくれた命を大切に生きる事が恩返しになるのかな。
取り込み画像です。
長々とお付き合いいただきありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫