ちょっとバタバタしてまして、更新ができませんでした。
まずは、11日、最後の越冬蛹が羽化しておりました。
前日から中身が透けていたので、目につきやすい所に置いていたのですが、バタバタしてるうちに、気づいたらすでに羽化したバタフライの羽もバタバタしていました。
四頭目、この子も美しい姿で旅立ちました。
さて、今日は長くなります。
8日は父の一周忌でしたが、一周忌の事を小祥忌とも呼ぶそうです。
亡くなって一年経つころには、同じ季節が巡ってくるため、喪失感がひときわ強くなる。
そんな時に法要をすることで大きな区切りをつけ、今後は「めでたい」方向に歩みだそうと誓うのが「小祥忌」という儀式である。
そうです。
今回、何年振りの飛行機での帰省でした。
超懐かしい大韓航空機。バブルの頃、毎月あれでロサンゼルスに出張してました。
この日は、強い南風の影響で、30分も遅れて出発。
しかも、空港まで迎えに来てくれるはずだった弟が、急に仕事が入ってしまい、バスを乗り継いで乗り継いで。
最終的にはバスの終点まで迎えに来てくれたのですが、まあ時間のかかった事。
まだ日が沈んでいなかったので、エドヒガン経由で実家に。
マスクなしなので、顔NG 爆
この朝の大雨でかなり散ってしまっており、少し残念でしたが、このエドヒガンを映すために、早めに田んぼに水を張ってくれるのだそう。
すでに夥しい数のオタマジャクシが泳いでいました。
ちょうど、ライトアップの電源を入れに、自治会の方が来ていましたが、まだ明るかったので今回はライトアップは見れませんでした。
翌日は、午前中、母のいる特養に面会。
この8日は、花まつりで、奇しくも父と母の結婚記念日でもありました。
今回は、ガラス越しではなく、マスク着用で直接会えましたが、介護士さんが付き添いなので、思うように話せません。
母は座っていること自体がしんどいらしく、10分も経たないうちに疲れたと言います。
元々、疲れやすい人でしたが、悪いところはないそうです。
そんな母が、私に「遠くへ行くなよ、家でおとなしくしときなさい」と、旅の好きな私にくぎを刺すような事を言いました。
母親が我が子を想う気持ちは、一生変わらないのだろうと、つくづく有難いことです。
はいわかりました!とは言いましたが、こっそり旅には出ますわよ、ごめんね。
この日も、特養からすぐのところにあるエドヒガンを見に。
一週間早いですが、去年父が亡くなった時と同じような、散り始めのエドヒガン。
山の上の、羽衣のようなものを纏った仏様のような雲、あれは間違いなく父です。
後で写真を見てそう思いました。
その午後は、方丈様にきていただいて自宅にて法要。
読経が始まる前に方丈様がおっしゃられた言葉がありました。
「故人が何か問いかけられたら、それに対する答えを想いながらお焼香してください」と。
その意味を理解できないまま、法要が終わりました。
その後、お墓へ。
満開の桜と、芽吹き始めた木々が、父のお墓を見下ろしていました。
私の~お墓の前で泣かないでください~~。
この日は、冷たい北風が吹いて、お線香が中々つきませんでした。
千の風になるのはいいけど、少し控えめに吹いてね、お父さん。
この間も、私はずっと、方丈様の法要前の言葉の意味を考えていました。
父の問いかけ。
父がこの時に何か問いかけてくることはありませんでした。
生きている自分が、あれこれを想いを巡らせるだけでした。
でも、だからこそ今回初めて抱いた想いがありました。
これまで私は、仏壇とかお墓に手を合わせ、色々な事を想う中で、「私たちを守ってね」というような事を、必ずお願いしていた。
でも、それは違うな、って気づいたんです。
生きていくのは、私自身。
DNAというものもありましょうが、父から教わった事、学んだこと、父が生きている間に残してくれたことが、私を守ってくれるすべてなのだと。
亡くなった後にまで、私を守ってくれなどというのは、別に悪い事ではないけど、違うんじゃないかと。
父は生前に沢山の事を私に与えてくれて、それが今の自分を守ってくれるものの一つになっているのだと。
だから、これからは手を合わせる時は、ただただありがとうを伝えようと。
生まれてきてよかったといまだに思えない自分が、生まれてきてよかったと思える生き方をしなきゃいけないんだ、と。
何かにつけ他力とか他人のせいにして、逃げてばかりいた自分を、再び恥じました。
生まれてきてよかったと言えないのは、父に対してものすごく失礼な事。
父の問いかけは私には聞こえませんでしたが、心の中に答えが湧いてきた。
方丈様は、私よりかなりお若い方ですが、毎回素晴らしい気付きをいただいています。
死んだらなんもない。
そう言い切っていた父。それは、父らしい言い草でした。
父という肉体の存在は、形としてはなくなっても、私の中に在る。
それをつくづく実感した小祥忌でした。
亡くなった悲しみや喪失感は、もはやない。
父から受け継いだものが私たちを守ってくれる。
そう信じる事が父への敬意。
亡くなった父には、ただありがとうの気持ちを持ちながら生きて行こう。
生きている時は、ぶつかることも腹の立つこともあり、ありがとうだけでは、付き合ってはいけない。
今回の学びは、私がこれから生きていく間の、子どもや孫たちとの関わり方の参考になりました。
ぶつかり合えるのも、分かり合えるのも生きているから。
世の中に起こる事は様々ですが、すべての事は、自分の受け止め方。
物事は受け止め方によって、180度変わることもある。
自分の間違った考えを素直に認め、それを悔やむのではなく改めて、これからは、生まれてきてよかったと思える生き方をしよう。
その事がきっと、父からつながる私の子孫をも永劫に守ってくれるはず。
人の死は人の生を教えてくれるし、生と死は対極にあるものではない。
死は通過点なのだと、生きている私は考えます。
死ぬまで生きようね。
行きは雲の絨毯の上のフライトでしたが、帰りは、羽田までずっと下界が見えていました。
富士山🗻みえました。
これを見るために、行きも帰りも富士山が見える方の座席をとりました。
さらに、ここからは16日の再編集の追記です。
昨日15日が、父の命日でした。
恥ずかしながら写真を載せますが、めちゃくちゃ質素に、遠く離れた東京で、一人で父を偲び、
父には赤や黄色のイメージはないので、青いカーネーションを買ってきました。
父だけの写真がないので、これらの写真を飾りました。
私が赤ちゃんの時の写真。
私にカメラの方を見させようとして、自分がよそ見をしてしまった父の愛情を感じます。
これらの写真が、私が父からつながって生きている証のようにも思えます。
父はビールは滅多に飲まず、もっぱら焼酎でしたが、私が帰省した時は、少しだけビールを付き合ってくれました。
娘とお酒を飲む、、その時の嬉しそうな顔を忘れる事はないです。
また、甘いものも大好きで、羊羹を食べながら焼酎を飲むような人でした。
でも、肝臓は強かったみたい。
蓋が壊れてしまった懐中時計は、私が大昔父に贈ったもの。ずっと大切に持っていてくれたそうです。
数珠は、私が手術後に88ヶ所巡りをした時のお土産です。
父の形見にもらいました。
夜は、たまたま父が大好きだった寅さんの映画が放映されていたので、父を偲びつつ大笑いしながら観ました。
追記、編集でさらに長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。
来週も少し忙しいので、更新は週末になると思います。
感謝をこめて
つる姫