いまさらですが、先日とある番組を観て、改めて感じたこと。
座右の銘でもある「一隅を照らす」ということ。
この言葉は、天台宗の開祖・最澄(さいちょう)が残した言葉です。
正確には、「一隅(いちぐう)を照らす、これ則(すなわ)ち国宝なり」という言葉です。
一隅とは、片すみという意味。
すなわち、この言葉は「片すみの誰も注目しないような物事に、ちゃんと取り組む人こそ尊い人だ」という意味です。
誰もが注目するような表舞台で派手に活躍するばかりが尊いわけではありません。
一人ひとりが自分のいる場所で一隅を照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中が出来上がっていきます。
私たちはすぐ、派手なこと、目立つことに目を奪われてしまいます。
しかし、どこかの片すみで誰の目にも止まらないようなものに目を向けていくことだって、同じように尊いことなのです。
大きく世界を変えようとするのではなく、まず目の前のこと、今自分にできることを一生懸命やる。そうやって一人一人が灯す小さな光がやがて大きな光となる。
私がこの言葉を強く意識したのは、心臓手術をしてからです。
そのこともあり、自費出版の本でも、ペンネームを「燈妃」としました。
これは、本名のともこを別の漢字で表したもので、妃は、調べてみたら「こ」と読めないこともないとわかったから、むりくり付けました。
ちなみに、こたろうくんは、漢字では「鯉太郎」これをむりやり「こたろう」と読みます。
もちろん「鯉」はカープじゃけえ。
で、私がこの言葉を強く意識した、というのは、番組の途中だけちらっと見ただけなのであれですが、あるご高齢の男性が、どこかの山の登山道を、何年も(何世代も?)一人でメンテナンスして、守っておられる、という話を見たからです。
そんな些細な一コマでした。
でも、意識もしないでそこを歩いている方たちの陰に、日々安全などを点検して整備してくださる人がいる。
そのおかげで、皆さんは安全に快適に山を楽しむことができる。
これは私たち社会全体に通じることだと感じ、この言葉を思い出した訳です。
私のように、現在では社会に何の貢献もできてない人間もおりますが、これまで生きて来て、他人様のためにもなることをやってきたはず。
普通に生きていれば、自分のできることをすることで、他人様のためにもなっていることは少なからずあるはずですから。
今となっては、人様に迷惑をかけないように普通に暮らすことだけでも、一隅を照らすに通じるのではと、口実を作ったりなんかして。
生き物の世界では、生きるための攻防はありますが、人間ほどの欲はなく、食うもの食われるものたちがバランスを取り合って生きている。
命は、目に見えない菌から繋がっていて、私たち人間も、その恩恵を受けて命をつないで行けるのです。
そこまで考える必要もないでしょうが、せっかくいただいた命、できれば他人と比べることなく、まして他人を利用することなく、自分のできることを積み重ねて行くことが、大切なんだなあと思ったわけです。
まあ、みんながそれをできないから、多くの問題が起こる。
夢や理想は叶わないこともあるけど、そこに向かう日々は無駄にはならない。
小さな灯りが集まって、大きな光になる。
今となっては、犬猫救済の道は少しずれてしまいましたが、この時の利益はNPOに寄付させていただきました。
お恥ずかしい金額ですが、当時のブログには金額も書かせていただいています。
これからは、違う形でも何かできればいいと考えています。微力ですが。
命の輝きを絵にしたい、という気持ちが何かにつながれば、と思います。
手術から8年半、生き直せた初心に戻り、今日も一隅を照らします。
今週はまだ絵が完成していません。
描きかけのものをモノクロで。
完成をお楽しみに、してないかあ。
今日の名言
「老い」への不安もなにも、私はもともと小さいときからキラキラした希望や期待のある子でなかった。
なにかを目指して頑張るというのもなかったわねぇ。
それに私は人と比較しないのよ。それを武器にしてきた。
樹木希林
こんな風に生きて死ねたらいいなあ。
希林さん、かっこええ。
ご訪問頂きありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫