私は幼い頃から星が大好きで、ふるさとの満天の星々を見上げて、
「あそこに行ってみたいな。いけるんだったら、もうここに戻ってこなくてもいいな」と思っていました。
何歳の頃でしょうか。その頃から厭世的?(笑)
上京し、大人になっても、仕事の帰り道に夜空に星を探して歩き、電信柱にぶつかって、目の前に星が飛んだことも。
それは冗談ですが、二十歳で本屋さんに就職してから、本に囲まれた仕事の中、星や宇宙にまつわる雑誌などを買って読みました。
作家の星新一さんに嵌ったのも、きっかけは姓が「星」だったからです(笑)これホントの話。
棚に並んだ彼の小説はほとんど読みました。
その20代は悩み多き時代。まあ私の場合はいつも悩んで暮らしていますが。
それでも、その頃はいつもなにかしら「夢」を抱いて頑張っていました。
挫折ばかりの青春でしたが、友達にも本心を語れない自分。
そんな中で、思想的な本や啓発本を沢山読みました。
既存や特定の宗教とか思想とか、確かに教えとか理論自体はうなずける部分もありますが、一定の宗教などに傾倒して、他の考えは違うとかおかしいとか思っている風な方たちが、少なからずいます。
また、そのような集団に身を置くのも、私的には無理でした。
それでもその頃の私には、友達も仲間も沢山いました。
君子は和して同ぜずというような崇高なものでは決してありませんが、根が一匹オオカミ的でしたから、人に言われた事も素直には聞けなくて、鵜呑みにできず、自分の中で時間をかけて処理し、自分だけの理論を作り上げていったように思います。
自己中?
そうかもしれませんが、ものすごく弱い人間なんでしょうね。
でも、一匹狼にも道しるべとなるものが在ります。
どんな生き物もたった一人、単独では生きていけません。
そんな中で行きついた想いは「神様って、宇宙そのものなんじゃないかな」ってこと。
そして、心の奥底は大宇宙とつながっているんだろうと思うに至りました。
神さまは空の上にはいない。自分の心の中にいるって。
手を合わせて祈るという形にも、大きな意味があるのだろうな、と漠然と感じました。
目の前にある執着やこだわりでふさがれた、心の奥底の栓を取り払えれば、宇宙とつながれると。
栓というのは、執着とか思い込みとか、意地とか嫉妬とか、なんかそんなようなものたち。
しかしながら、にんげんだもの、そのような事から解放されるのは、死んだときだけじゃないかなとも思いました。
私が幼い頃から宇宙とつながりたかったことは確かでしょう。
今年に入って描いた三枚も無意識に背景が宇宙になっていることに気づきましたし、以前描いたものにも、少なからず星や宇宙があります。
描き始めたらこんな絵になった、って感じです。
昨日から描いているものも、背景は宇宙です。
生き物がいるのは、自分の想いを彼らにこめているのかも。
今は、日々こたろうに一方的に話しかけ、人間らしい言葉はこのブログやラインやメッセージで、文章として発しているだけ。
この生活で一番怖いのは、ボケる事と急な病ですが、今の私は一番私らしく生きているんじゃないかなって思いました。
なんてしあわせなことでしょう。
そんな中でも、ラインなどでは心の通い合える対話もできます。
傲慢な言い方になりますが、その相手は自分で選べます。
心の中にある漠然としたものを、絵としてアウトプットしていける日々は私にとってこの上ない幸せな時間なのだと気づきました。
決して惨めな独居老人ではないと(笑)
そして、その絵を描くきっかけをくれたのは、7年前病気をした後からつながった、息子からのご縁。
縁というのは、人として生きていくうえで最も大切なもののひとつだと思います。
私の人生最後の夢は、宇宙とつながること。
この夢は絶対に叶うと思うんです。
今の命を大切に生きていけば、叶わないはずのない夢。
執着という栓を外せば、死ぬまで楽に、楽しく生きられるはずです。
正直言えば、ちょいちょいな夢もいくつかありますが、それは自分だけでは叶わない夢ですから。
大宇宙の中でみれば、存在自体がちっぽけな、いやちっぽけともいえないほどの私たちの地球。
それは唯一無二の神が創った星であり、私たち人間がこの世のありさまを作り上げた。
本物の神さまはひとつ、栓張りとなる神は、人の数だけいるということでしょうか。
出来ればダークサイドじゃない方の神さまを選びたいものです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫