ご訪問ありがとうございます。
今日の投稿を読んでくださる方、出来れば昨日の記事も合わせてお読みください。
これからお読みいただくものは、生前父と話したことや弟と確認しあったことなどをもとに書いた、大まかな父の生涯です。
名前や地名などはふせてあります。
今日も長くなりますので、ご承知ください。
<<
ファインダー越しのしあわせ ~光で描く人生最高の瞬間~
〇の生涯、
昭和5年5月20日、○○にて、父〇と母〇の間に、次男として誕生。
その翌年、母〇は病により、若くしてこの世を去りましたが、乳母や家族の愛情を受けてすくすくと育ちました。
昭和16年に太平洋戦争が始まり、当時、父は兵隊になるには年齢が足りず、陸軍軍属として、岡山市にあった、大刀洗飛行学校岡山教育隊で、整備士の卵として寮生活をしていました。
昭和20年6月29日の岡山大空襲の時は、父は夜警の当番で、岡山駅付近の空が真っ赤に染まるのを発見し、「空襲じゃあ~空襲じゃあ~!」と叫びながら、下駄を抱えて逃げ回ったそうです。焼夷弾がヒュルヒュルヒュルヒュルと落ちる音は、何十年経っても耳に残って忘れられないと話してくれました。
大空襲をなんとか生き延びましたが、住んでいた寮は焼け落ち、終戦の日まで飛行場の倉庫のようなところで過ごしたそうです。
その後、なんと市内から何十キロもある〇の家まで歩いて帰り、家族は幽霊を見たように驚いたそうです。
いつの頃からかカメラや写真に興味を持ち、山に行って三脚になりそうな三つ又の枝を探して来るような少年でした。
20歳か21歳になった頃、現在でも著名な九州の写真家の、故・疋田晴久(ひきたはるひさ)先生に師事し、営業写真を学びました。
ラビットスクーターに乗る父の写真は、その当時のものです。(*先日私が描いた父がスクーターに乗る絵の、元の写真の事)
その後、〇で写真の仕事を始め、昭和31年に〇と結婚。
新婚時代は間借りをして、自転車の荷台に機材をくくりつけて出張撮影をしていましたが、時代は高度成長期、写真の仕事も順調となり、広いスタジオのある写真館を創業しました。
この間に、長女と長男を授かりました。
若い頃は、スキーや登山、旅など、アウトドアを趣味とする一方、音楽にも興味を持ち、当時はまだ珍しかったステレオを買って、主にジャズを聴いていました。
テナーサックスの音がお気に入りのようでした。
趣味は沢山ありましたが、ラジコン飛行機に嵌った時期があり、ラジコン仲間と飛ばしに行っては、目をまん丸にして帰ってきて、「落ちた」と騒いで、再び家を飛び出し、山の中を探し回り、居間の片隅で、回収してきた機体を修理する姿も、懐かしい思い出です。
手先がとても器用で、物の修理はもちろん、色々なものを手作りしていました。しまいには撮影用のストロボまで作り、その性能の良さに、他の写真屋さんが驚いていました。
包丁を研ぐのも得意で、夫婦喧嘩の後、何故か包丁を研ぐのだそうです。
喧嘩の後だけに不気味だったと、母が笑いながら話してくれましたが、ごめんね、の代わりの、ご機嫌取りだったようです。手先は器用でも性格は不器用だったのですね。
仕事柄、立っているか座っていることが多く、外を歩くことも、ことさら運動することもありませんでしたが、体質によるものなのか、筋肉質で、メタボとは一生無縁でした。
髪はふさふさで、ハゲる事もなく、白髪も少なく、ひきしまった体型も相まって、年よりもずっと若く見える人でした。
車の運転が好きで、北は北海道、南は九州鹿児島まで車で旅をしたり、70代になっても、孫を乗せて遠方までドライブをしていましたが、最後の8年間は要介護生活になってしまいました。
身体は不自由になり、最後には言葉も出なくなりましたが、頭だけはしっかりしていました。
昔から常にラジオを聴いていたせいか、とても物知りで、施設に入ってからも、テレビなどからどんどん新しい事を覚え、オリジナルのクイズを作って、私たちが面会に行くのを待ち構えている時もありました。
キレのある言葉遊びや、ユーモアのセンスもあり、変な顔をしたり、テレビの人のまねをするようなお茶目な一面もありました。
少年時代からの夢を果たし、営業写真を生業として生きた父。
結婚、誕生、入学、節目のお祝いなど、多くは人生の門出を記録する写真です。
目の前にいる人たちの内側にある夢や希望、命の輝きまで、人生最高の瞬間をシャッターで切り取り、形にして残してきました。
同時に父も、最高の幸せのおすそ分けをいただいていたと思います。
写真を見るたび、お客様は何かを思い出し、懐かしみ、再び前を向いて進んでいく。
もしかしたら、写真屋の父を思い出してくださる方がいるかも知れません。
小さな一枚の写真には、父の思いも込められているのです。
変わり者で偏屈、人との付き合いは不器用な父でしたが、お客様と即座に信頼関係を築かなくては、よい写真は撮れません。
お客様に喜んでもらえる写真を撮るために、技術のみならず、接客にも並々ならぬ努力を続けてきたと思います。
Photographという言葉は、「光で描く」事を意味しています。
漢字で、写真という単語を見れば、ありのままを写しとる事。
ファインダー越しに見えるありのままのしあわせを捉え、切り取り、光で描いて残し続けてきた、営業写真家・○。
このような素晴らしい仕事をしてきた父を、私たち家族は、心から誇りに思います。
>>
弟と何度も校正を繰り返し、父が亡くなった時には、皆さんに読んでいただこうと、二つ折りの冊子にすることにしました。
表紙と裏表紙も出来上がり、後は印刷するだけになったのは、父の亡くなる前日でした。
去年から入退院を繰り返していた父、最後に入院したのはこの2月末でした。
それは「褥瘡の悪化」で、病院での治療が必要とされたからでした。
褥瘡に関しては、入っていた施設に何度も問い合わせ、体位変換などのケアについて問い合わせましたが、責任を取りたくない施設側の対応は、介護士とケアマネージャーの話にも相違があり、到底納得できる内容ではありませんでしたが、その件について今は考えたくない。
その入院を発端に、父はどんどん衰弱していきました。
ただ、褥瘡に関しては、壊死している部分もあり、父に苦痛はないと聞かされ、それだけが救いでした。
最後には、点滴も入っていかないようになり、命が尽き果てました。
16日の通夜までに、娘が最終の校正を手伝ってくれて、印刷。
息子と娘と三人で、冊子を折り曲げる作業をして、通夜、葬儀の会葬品の紙袋に入れました。
読んでくださる人の方が少ないかもしれないけど、父が素晴らしい営業写真家だったと、知ってほしかった。
おじいちゃんが大好きだった息子がこれを読み、自分はおじいちゃんの素質を受け継いでいるのだろうと気づいたようです。
FBに上げていました(笑)
一番泣いていた娘は、カメラや写真が好きで、今でもアナログのカメラで写真を撮ったりしています。
父のカメラを狙っています(笑)
脈々とつながる命。
父の命のバトンは確かに受け取りました。
私の祖母が亡くなったのは、黄金色の秋でした。
当時は学生だった息子や娘と、何年振りかに三人だけの時間を過ごしました。
それが大好きだったおばあちゃんの最後の贈り物でした。
父は、新緑と花々が咲き乱れる春に逝き、それぞれがパートナーを持った子どもたちと、三人だけの時間をくれました。
死ぬまで生きた父の最後の贈り物は、私にとって人生最高の瞬間の一つだったかもしれません。
父が乳飲み子の時に亡くなってしまった実の母親と、天国か極楽で出会えていればいいなと思います。
生きているものは、死んだら極楽だ天国だ、地獄だとか、あの世で会っても、相手を認識することは出来ないとか、色々いうけど、
今生きている私は、父はお母さんやお父さんをはじめ、兄弟やいとこたちと再会を果たし、誰よりも面白い事をやらかして、みんなを笑わせていると思います。
そう思えば、きっとそれが真実です。
ボクはそのおじいちゃんに一度も会えなかったよ。
最後までお読みいただきありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫