Room of 'Pon Chape'

趣味の記録や、お知らせなど。

常磐線と651

2021-01-28 00:55:41 | その他

JR各社が発足してから、早いもので今年で34年になります。

JR化直後にデビューした車両たちも引退が相次いでいる中、この3月には首都圏では最後の国鉄の特急型車両の生き残り、185系がラストランを迎えます。

現在は185系の引退の話題でもちきりですね。

写真は間もなく北千住に停車するところの我孫子行きの「踊り子」。

 

上野東京ラインの開業で、図らずも常磐線の特急の一員(臨時列車ですが)となった185系「踊り子」。

そして、JR第一期生として平成元(1989)年にJR東日本初の新型特急車として華々しくデビューしたのが、写真の常磐線特急「スーパーひたち」用651系でした。

現在は直流専用の1000番台になって185系を追いやる形で「あかぎ」「草津」などを置き換えて活躍中なのは嬉しい限りです。

しかし「タキシードボディ」と言われた白一色の印象的な塗装は既に見ることができず、転用されなかった車両たちはあえなく解体されていってしまいました。

 

さて、常磐線で651といえばこの「スーパーひたち」用の651系電車でしょうか。

もう一つ、常磐線では、歴史に大きく名を残した651を冠した車両がいました。

常磐線の取手以北電化前に活躍したSLのうちの1両、D51 651号機です。

昭和16(1941)年に製造され、すぐに水戸機関区に配置されてからその生涯の大部分を常磐線で過ごした機関車です。

途中平機関区に転属しましたが、昭和40(1965)年に慣れ親しんだ常磐線を離れ、熊本機関区へと移動、最後は新見に移り、伯備線でかの有名な布原の3重連の最終日の牽引を飾り、昭和47(1972)年に新見機関区で華々しく勇退しました。

このように布原の3重連最終日という歴史の表舞台に登場する機関車ですが、常磐線時代にも歴史に名を残す出来事が2度もありました。

 

一つ目は昭和18(1943)年に発生した土浦事故です。

土浦事故は、同じ常磐線で昭和37(1962)年に発生した三河島事故同様、三重衝突事故として知られますが、戦時中で物資も乏しい時代、新聞も紙一枚というような時期だったため、この事故が大きく報じられることはなく、犠牲者も多い大惨事であったにも関わらず、あまり知られていません。

この事故で最初にポイントを冒進した貨物列車(9600型牽引)にまず衝突したのがこのD51 651牽引の上り貨物列車でした。

この衝突で下り本線を支障し、そこに下り旅客列車が衝突したことで犠牲者が大勢出てしまったという事故でした。

 

土浦事故で衝突したもののD51 651は修復され、敗戦後も常磐線で活躍を続けましたが、国有鉄道が鉄道省から公共事業体の日本国有鉄道に移管したばかりの昭和24(1949)年、就任したばかりの国鉄総裁、下山貞則氏を綾瀬~北千住間で轢断した、いわゆる「下山事件」の当該機関車となってしまいます。

下山事件は、松川事件、三鷹事件と共に戦後の国鉄三怪事件に数えられます。

後2者は発生地の駅名を取った事件名で呼ばれますが、下山事件は初代国鉄総裁が被害者とあって、被害者名が事件の通称となっています。

結局、下山事件は自殺、事故、他殺のどれとも結論が出ないまま今日まで真相は分かっていません。

 

このように2つも大きな事件に巻き込まれた暗い過去を持つD51 651ですが、保存こそされなかったものの、布原の3重連の最期を飾り、華々しい活躍をして生涯を終えることができたこの機関車は、何度も大きな事故を経験しつつ一度も車籍を離れたことのないC57 1に負けず劣らず、幸運な機関車であったと言えるかも知れません。


続・東武「リバティ」

2021-01-25 21:59:11 | その他

前々回の記事では掲載できなかった、東武500系「リバティ」の画像を追加でお伝えします。

何分、自宅にレイアウトというものが存在しないもので…。

過去のWFでも出品しましたこのジオラマを利用します。

まず肝心のライト類の点灯から。

なかなかに実感的です。

テールライトも。

このような細かいドット状のランプも危なげなく再現できる現在の技術は20~30年前には考えられませんでした。

パンタグラフですが、華奢な印象はありますが、塗装されているのは珍しいと感じました。

作りは多少危うい感じがしますが…。

 

さて、今回は、乾電池を電源としてライトを点灯させてみました。

WFの会場では、電源コンセントを借りると別料金が発生するので、乾電池で点灯させる展示方法を試みた次第です。

至って単純な回路です。

模型の寿命を縮めるおそれがあるので、あまり推奨はしませんが。

Nゲージの走行用電源は直流12Vなので、乾電池8個を直列に繋げば同等の電圧になります。

ただしライトを点灯させるだけであればこれでは電圧は過剰で、4個直列(6V)で十分な明るさが得られました。


急行「つくばね」

2020-08-28 18:38:46 | その他

前回、急行「大社」、交通公社(現在のJTB)の時刻表を見て記事を書きましたが、同じ号(1981年3月号)の時刻表にはまだまだ変な急行があります。


▲以前「勝田電車区まつり」に行った際に撮影した勝田駅。撮影の翌年頃に建て替えられてしまいました。

 

今回は表題の「つくばね」。

これは一日一往復、上野と水戸または勝田を結んだ急行でした。
(下りが勝田行き、上りが水戸始発)

しかしこれは常磐線の急行ではありません。
東北本線の急行なのです。

上野から小山の東北本線~水戸線の短絡線を介して水戸線経由で勝田まで行くという、かなり変な経路です。

小山に停車しようとすると小山で方向転換が必要になるため、短絡線を通って水戸線に入るような運転経路で、このため時刻表では「||」の記号、すなわち「経由しない」ことになっています。

そして、小山の一つ手前、間々田駅に停車します。
間々田駅を利用されている方には失礼ですが、間々田は現在では快速すら停車しない、およそ主要駅といえる駅ではありません。
これは、どうもかつて「つくばね」と、小山から両毛線に入る「わたらせ」が連結して走っていて、「つくばね」の小山での方向転換を避けるために間々田駅で両者を切り離していた名残のようです。

さらに変な要素として、「つくばね」、水戸線に入って最初の停車駅である結城駅で、急行運転を止めて普通列車になってしまうのです。
名前の由来「筑波嶺」の玄関口である岩瀬駅(当時はここから筑波鉄道に乗り換えて筑波駅(現在のTXのつくば駅とは全く異なる場所)に向かうことができました)に着く前に急行列車であることを止めてただの普通列車になってしまう。
古くは水戸線内も急行だったものが、下館まで、さらに結城までと、急行区間が徐々に短縮されていった結果です。


▲手前の455系は訓練車の白帯が入っていますが、このような交直両用の急行型電車が使用されていたようです。

こんな変な急行ですが、東北新幹線開業時にはまだ生き残ることになります。

新幹線が大宮から上野まで延伸した昭和60(1985)年についに廃止となってしまいました。
運転時刻を見るに、朝に上り(上野行き)、夕方に下り(勝田行き)が設定されていたので、今で言う通勤ライナー的な需要があったのかもしれません。

しかし、1981年当時の東北本線の他の急行列車群と比べると、急行運転の区間の短さが際立っています。

車両が交流電化区間である勝田電車区持ちなので(東北本線は直流電化の小山までしか走らないので当然といえば当然)、小山で編成の向きが変わるのを是が非でも避けたかったのでしょうが、小山に停まらず間々田に停まるというのも目を引きます。
(ちなみに水戸線は小山駅と隣の小田林駅の間で直流から交流に電化方式が変わります。)

また、この短絡線を定期旅客列車が使用していたというのも、今では隔世の感です。

(もっと言えば、小山はおろか、大宮さえも通過する特急列車が多数あったのも、埼京線で池袋や新宿に直結するようになって大宮の地位が上がった現在からは考えられませんね。新幹線になったことで停車駅が増え、速達性と利便性を両立できている事実だけで見ると新幹線もまんざらでもないですが、やはり旅情が失われてしまったのは寂しい限りです。)

 

余談ですが、この「勝田電車区まつり」に行った当時は、455系も常磐線の水戸以北では普通列車として当たり前に見ることができました。


▲水戸駅にて。いわき行きの普通列車。


急行「大社」

2020-08-22 08:00:00 | その他

単身赴任している私の家族が、休日を利用して島根県出雲市の旧大社駅の写真を送ってきてくれました。

大社駅は言わずと知れた出雲大社の最寄り駅としても栄えた駅で、旧大社線の終着駅でした。

大社線とは山陰本線の出雲市駅から、現在は出雲市の一部となった旧簸川郡大社町唯一の国鉄駅だった大社駅までを結ぶ7.5kmの非電化路線でした。
開業は明治45年。

駅は起点の出雲市、終点の大社のほか、出雲高松(いずもたかまつ)、荒茅(あらかや)の2駅(両駅とも廃止時点で出雲市に所在)を途中に有していました。

大社線の廃止は平成2(1990)年4月1日。
(最終営業日は3月31日)

昭和58(1983)年の白糠線(北海道)に始まった特定地方交通線の83路線の廃止(転換含む)は、この日同時に廃止された大社線、宮津線、鍛冶屋線の3路線をもってピリオドを打ちました。

さて、そんなローカル線の一つとして切り捨てられてしまった大社線ですが、出雲大社の最寄り駅に直結するとあって、国鉄時代には数多くの急行列車が大社線に直通していました。

 

表題の「大社」は昭和41(1966)年から57(1982)年まで主に名古屋~大社駅間を結んでいた急行ですが、今考えるとなかなかに突拍子もない経路で運転されていました。

手元に交通公社(現在のJTB)が発行した1981年3月号の時刻表があります。
これによると、大社号は一日一往復の運転ですが、下りは大社行きなのに対して上りは出雲市発で、大社駅発の大社号はこの時代にはなかったことになります。

大社まで運転される下りの大社号も、運転時刻を時刻表で追うだけで骨が折れるくらい複数の路線を走っていました。

まず名古屋から東海道本線を米原まで走り、米原で方向転換して北陸本線に入り、敦賀で福井発の3両(これも列車名は「大社」)を連結。

名古屋編成は敦賀で二度目の方向転換をして小浜線に入り、東舞鶴から西舞鶴まで舞鶴線を一駅だけ走ります。

西舞鶴からは宮津線に乗り入れます。先述のとおり、宮津線は大社線と同時に最後の特定地方交通線として廃止になりましたが、鉄道は第三セクターとして存続し、北近畿タンゴ鉄道を経て京都丹後鉄道として令和2年現在も存続しています。

さて、福井から来た3両はなんとこの宮津線内の天橋立駅で切り離されてしまいます。

「大社」の名は伊達なのですね。

かつては「あさしお」など別の名前の急行として併結していた時期もあったようですが、晩年は大社には遠く及ばない京都府内で運転を終えてしまう「大社」号になっていたようです。

一方名古屋編成は豊岡まで宮津線を走破し、豊岡で三度目の方向転換をして、ようやく山陰本線に入ります。

そして延々と山陰本線を出雲市駅まで走り続け、出雲市から大社線に入り、大社駅に向かいます。

▲急行「大社」停車駅。交通公社1981年3月号時刻表を基に作成。

車両は当時の気動車急行では標準的なキハ58系が使用されていたようで、1981年3月号の時点では、名古屋編成は普通車指定席1両、グリーン車1両、普通車自由席3両の5両、福井編成は3両とも普通車自由席でした。

下りは名古屋を朝9:30に出発し、大社着が20:31でした。

 

大社駅は往時の栄華を今に留める佇まいのまま大切に保存されています。

国鉄形のこの駅名標も、今ではほとんど見ることの出来ない逸品です。

40年ほど前には、廃線になるなど考えられない賑わいがあったのでしょう。

その当時に思いを馳せながら、大社駅を自分の目でも一度は見てみたいと思いながら、筆を置かせて頂きます。

 

 

ちなみに急行「大社」を知ったのはこのサイトがきっかけです。

http://www.photoland-aris.com/kisya/

「日本国有鉄道のころ」というページ内に、作者様の乗車記があります。


古い写真フォルダから

2020-03-08 09:00:00 | その他

15年前の今頃、3月4日に撮影した写真です。

今冬の東京は雪が積もりませんでしたが、15年前の3月には雪が積もった日があって、

撮影に出かけたようです。

撮影から15年という歳月が流れましたが、写真の10030系50番台は改造なども受けておらず、

今でもほとんど同じ写真が撮れます。

違いと言えば、今では昼間でもヘッドライトを点灯するようになったことくらいでしょうか。

今では「区間急行」といって朝晩にしか設定されていない種別も、当時は「準急」といって

日中にも頻繁に走っていましたし、長大な伊勢崎線の浅草~伊勢崎駅間全線を走破する運用も

多数ありました。

当時、半蔵門線直通開始からまだ2年しか経っておらず、列車種別は今とはだいぶ違います。