JR各社が発足してから、早いもので今年で34年になります。
JR化直後にデビューした車両たちも引退が相次いでいる中、この3月には首都圏では最後の国鉄の特急型車両の生き残り、185系がラストランを迎えます。
現在は185系の引退の話題でもちきりですね。
写真は間もなく北千住に停車するところの我孫子行きの「踊り子」。
上野東京ラインの開業で、図らずも常磐線の特急の一員(臨時列車ですが)となった185系「踊り子」。
そして、JR第一期生として平成元(1989)年にJR東日本初の新型特急車として華々しくデビューしたのが、写真の常磐線特急「スーパーひたち」用651系でした。
現在は直流専用の1000番台になって185系を追いやる形で「あかぎ」「草津」などを置き換えて活躍中なのは嬉しい限りです。
しかし「タキシードボディ」と言われた白一色の印象的な塗装は既に見ることができず、転用されなかった車両たちはあえなく解体されていってしまいました。
さて、常磐線で651といえばこの「スーパーひたち」用の651系電車でしょうか。
もう一つ、常磐線では、歴史に大きく名を残した651を冠した車両がいました。
常磐線の取手以北電化前に活躍したSLのうちの1両、D51 651号機です。
昭和16(1941)年に製造され、すぐに水戸機関区に配置されてからその生涯の大部分を常磐線で過ごした機関車です。
途中平機関区に転属しましたが、昭和40(1965)年に慣れ親しんだ常磐線を離れ、熊本機関区へと移動、最後は新見に移り、伯備線でかの有名な布原の3重連の最終日の牽引を飾り、昭和47(1972)年に新見機関区で華々しく勇退しました。
このように布原の3重連最終日という歴史の表舞台に登場する機関車ですが、常磐線時代にも歴史に名を残す出来事が2度もありました。
一つ目は昭和18(1943)年に発生した土浦事故です。
土浦事故は、同じ常磐線で昭和37(1962)年に発生した三河島事故同様、三重衝突事故として知られますが、戦時中で物資も乏しい時代、新聞も紙一枚というような時期だったため、この事故が大きく報じられることはなく、犠牲者も多い大惨事であったにも関わらず、あまり知られていません。
この事故で最初にポイントを冒進した貨物列車(9600型牽引)にまず衝突したのがこのD51 651牽引の上り貨物列車でした。
この衝突で下り本線を支障し、そこに下り旅客列車が衝突したことで犠牲者が大勢出てしまったという事故でした。
土浦事故で衝突したもののD51 651は修復され、敗戦後も常磐線で活躍を続けましたが、国有鉄道が鉄道省から公共事業体の日本国有鉄道に移管したばかりの昭和24(1949)年、就任したばかりの国鉄総裁、下山貞則氏を綾瀬~北千住間で轢断した、いわゆる「下山事件」の当該機関車となってしまいます。
下山事件は、松川事件、三鷹事件と共に戦後の国鉄三怪事件に数えられます。
後2者は発生地の駅名を取った事件名で呼ばれますが、下山事件は初代国鉄総裁が被害者とあって、被害者名が事件の通称となっています。
結局、下山事件は自殺、事故、他殺のどれとも結論が出ないまま今日まで真相は分かっていません。
このように2つも大きな事件に巻き込まれた暗い過去を持つD51 651ですが、保存こそされなかったものの、布原の3重連の最期を飾り、華々しい活躍をして生涯を終えることができたこの機関車は、何度も大きな事故を経験しつつ一度も車籍を離れたことのないC57 1に負けず劣らず、幸運な機関車であったと言えるかも知れません。