Room of 'Pon Chape'

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急行「つくばね」

2020-08-28 18:38:46 | その他

前回、急行「大社」、交通公社(現在のJTB)の時刻表を見て記事を書きましたが、同じ号(1981年3月号)の時刻表にはまだまだ変な急行があります。


▲以前「勝田電車区まつり」に行った際に撮影した勝田駅。撮影の翌年頃に建て替えられてしまいました。

 

今回は表題の「つくばね」。

これは一日一往復、上野と水戸または勝田を結んだ急行でした。
(下りが勝田行き、上りが水戸始発)

しかしこれは常磐線の急行ではありません。
東北本線の急行なのです。

上野から小山の東北本線~水戸線の短絡線を介して水戸線経由で勝田まで行くという、かなり変な経路です。

小山に停車しようとすると小山で方向転換が必要になるため、短絡線を通って水戸線に入るような運転経路で、このため時刻表では「||」の記号、すなわち「経由しない」ことになっています。

そして、小山の一つ手前、間々田駅に停車します。
間々田駅を利用されている方には失礼ですが、間々田は現在では快速すら停車しない、およそ主要駅といえる駅ではありません。
これは、どうもかつて「つくばね」と、小山から両毛線に入る「わたらせ」が連結して走っていて、「つくばね」の小山での方向転換を避けるために間々田駅で両者を切り離していた名残のようです。

さらに変な要素として、「つくばね」、水戸線に入って最初の停車駅である結城駅で、急行運転を止めて普通列車になってしまうのです。
名前の由来「筑波嶺」の玄関口である岩瀬駅(当時はここから筑波鉄道に乗り換えて筑波駅(現在のTXのつくば駅とは全く異なる場所)に向かうことができました)に着く前に急行列車であることを止めてただの普通列車になってしまう。
古くは水戸線内も急行だったものが、下館まで、さらに結城までと、急行区間が徐々に短縮されていった結果です。


▲手前の455系は訓練車の白帯が入っていますが、このような交直両用の急行型電車が使用されていたようです。

こんな変な急行ですが、東北新幹線開業時にはまだ生き残ることになります。

新幹線が大宮から上野まで延伸した昭和60(1985)年についに廃止となってしまいました。
運転時刻を見るに、朝に上り(上野行き)、夕方に下り(勝田行き)が設定されていたので、今で言う通勤ライナー的な需要があったのかもしれません。

しかし、1981年当時の東北本線の他の急行列車群と比べると、急行運転の区間の短さが際立っています。

車両が交流電化区間である勝田電車区持ちなので(東北本線は直流電化の小山までしか走らないので当然といえば当然)、小山で編成の向きが変わるのを是が非でも避けたかったのでしょうが、小山に停まらず間々田に停まるというのも目を引きます。
(ちなみに水戸線は小山駅と隣の小田林駅の間で直流から交流に電化方式が変わります。)

また、この短絡線を定期旅客列車が使用していたというのも、今では隔世の感です。

(もっと言えば、小山はおろか、大宮さえも通過する特急列車が多数あったのも、埼京線で池袋や新宿に直結するようになって大宮の地位が上がった現在からは考えられませんね。新幹線になったことで停車駅が増え、速達性と利便性を両立できている事実だけで見ると新幹線もまんざらでもないですが、やはり旅情が失われてしまったのは寂しい限りです。)

 

余談ですが、この「勝田電車区まつり」に行った当時は、455系も常磐線の水戸以北では普通列車として当たり前に見ることができました。


▲水戸駅にて。いわき行きの普通列車。


急行「大社」

2020-08-22 08:00:00 | その他

単身赴任している私の家族が、休日を利用して島根県出雲市の旧大社駅の写真を送ってきてくれました。

大社駅は言わずと知れた出雲大社の最寄り駅としても栄えた駅で、旧大社線の終着駅でした。

大社線とは山陰本線の出雲市駅から、現在は出雲市の一部となった旧簸川郡大社町唯一の国鉄駅だった大社駅までを結ぶ7.5kmの非電化路線でした。
開業は明治45年。

駅は起点の出雲市、終点の大社のほか、出雲高松(いずもたかまつ)、荒茅(あらかや)の2駅(両駅とも廃止時点で出雲市に所在)を途中に有していました。

大社線の廃止は平成2(1990)年4月1日。
(最終営業日は3月31日)

昭和58(1983)年の白糠線(北海道)に始まった特定地方交通線の83路線の廃止(転換含む)は、この日同時に廃止された大社線、宮津線、鍛冶屋線の3路線をもってピリオドを打ちました。

さて、そんなローカル線の一つとして切り捨てられてしまった大社線ですが、出雲大社の最寄り駅に直結するとあって、国鉄時代には数多くの急行列車が大社線に直通していました。

 

表題の「大社」は昭和41(1966)年から57(1982)年まで主に名古屋~大社駅間を結んでいた急行ですが、今考えるとなかなかに突拍子もない経路で運転されていました。

手元に交通公社(現在のJTB)が発行した1981年3月号の時刻表があります。
これによると、大社号は一日一往復の運転ですが、下りは大社行きなのに対して上りは出雲市発で、大社駅発の大社号はこの時代にはなかったことになります。

大社まで運転される下りの大社号も、運転時刻を時刻表で追うだけで骨が折れるくらい複数の路線を走っていました。

まず名古屋から東海道本線を米原まで走り、米原で方向転換して北陸本線に入り、敦賀で福井発の3両(これも列車名は「大社」)を連結。

名古屋編成は敦賀で二度目の方向転換をして小浜線に入り、東舞鶴から西舞鶴まで舞鶴線を一駅だけ走ります。

西舞鶴からは宮津線に乗り入れます。先述のとおり、宮津線は大社線と同時に最後の特定地方交通線として廃止になりましたが、鉄道は第三セクターとして存続し、北近畿タンゴ鉄道を経て京都丹後鉄道として令和2年現在も存続しています。

さて、福井から来た3両はなんとこの宮津線内の天橋立駅で切り離されてしまいます。

「大社」の名は伊達なのですね。

かつては「あさしお」など別の名前の急行として併結していた時期もあったようですが、晩年は大社には遠く及ばない京都府内で運転を終えてしまう「大社」号になっていたようです。

一方名古屋編成は豊岡まで宮津線を走破し、豊岡で三度目の方向転換をして、ようやく山陰本線に入ります。

そして延々と山陰本線を出雲市駅まで走り続け、出雲市から大社線に入り、大社駅に向かいます。

▲急行「大社」停車駅。交通公社1981年3月号時刻表を基に作成。

車両は当時の気動車急行では標準的なキハ58系が使用されていたようで、1981年3月号の時点では、名古屋編成は普通車指定席1両、グリーン車1両、普通車自由席3両の5両、福井編成は3両とも普通車自由席でした。

下りは名古屋を朝9:30に出発し、大社着が20:31でした。

 

大社駅は往時の栄華を今に留める佇まいのまま大切に保存されています。

国鉄形のこの駅名標も、今ではほとんど見ることの出来ない逸品です。

40年ほど前には、廃線になるなど考えられない賑わいがあったのでしょう。

その当時に思いを馳せながら、大社駅を自分の目でも一度は見てみたいと思いながら、筆を置かせて頂きます。

 

 

ちなみに急行「大社」を知ったのはこのサイトがきっかけです。

http://www.photoland-aris.com/kisya/

「日本国有鉄道のころ」というページ内に、作者様の乗車記があります。