Room of 'Pon Chape'

趣味の記録や、お知らせなど。

オールインワン?駅名標

2020-05-02 09:00:00 | ジオラマ

東武鉄道大師線は東京都足立区の西新井駅からたった一駅、
大師前駅までを結ぶ路線。

その大師前駅は都内の普通鉄道の駅としては数少ない無人駅です。

しかし発車メロディーも完備されています。

その2両分のホームにただ1箇所設けられている駅名標(写真)が
なかなかの優れもので、一通りの設備を揃えたオールインワン仕様なのです。

駅名標に時刻表、構内案内図、路線図を一体で収めるのは東武標準ですが、
ここのものはさらに時計、非常ボタン、さらには時計の両サイドに密かに
自動放送用のスピーカーまで内蔵されています。

他の駅では見たことのない構造です。

大師前という駅の事情に合わせた、特別な仕様の駅名標なのかも
しれませんね。

 

大師線の分岐駅である西新井駅の伊勢崎線ホームにあった水飲み場。

年季が入っています。

この駅が複々線化した昭和49(1974)年からのものでしょうか。

 


「東西南北、新、上中下」の親子駅

2020-03-16 16:19:35 | ジオラマ

「仙台」駅があって「北仙台」駅がある。

「大宮」駅があって「東大宮」駅がある。

「大久保」駅があって「新大久保」駅がある。

「今市」駅があって「下今市」「上今市」駅がある。

「東西南北」や「新」「上中下」が付く駅名は、大抵、それらが付かない「親」の駅名が先にあって、後からできた「子」となる駅に「東西南北」「新」が付くものです。

しかし「東西南北」や「新」「上中下」が付く駅名を見つけても、それらが付かない「親」の駅名が見当たらない場合もあります。

そういうケースが生じた背景を少し紐解いてみたいと思います。

 

Case1. 北広島駅(北海道、JR千歳線)

 市名にもなっていて、認知度の高い地名ですが、由来も明快で、広島出身の開拓者が拓いた地であることから命名されています。山陽の「広島」に対して、北海道という北にある地であるため、「北広島」。

 

Case2. 北永野田駅(鹿児島県、JR日豊本線)

 「永野田」は「川沿いに長く続いている湿地の意」(JR・第三セクター全駅名ルーツ事典、村石利夫著、東京堂出版)だそうです。

 北を付けた理由は、同じ鹿児島県内に「永野田」という駅が既に大隅線あったためで、そちらが路線廃止とともに廃駅となり、「北」だけが残ったのです。

 永野田と北永野田は全く別の場所にあるので、普通なら旧国名などを付して区別するところですが、どちらも同じ大隅国内にあるためにそれもできず、北としたのでしょう。

 

Case3. 東鹿越駅(北海道、JR根室本線)

 こちらも本家「鹿越」が廃止となり、「東」だけが取り残された例です。

 ここではダム建設に伴い線路が付け替えられたため、鹿越駅周辺が廃線となり、新線へは信号場兼仮乗降場として残されましたが、線路移転で集落から離れてしまったために旅客の利用も見込めるものではなかったようです。

 

Case4. 新長後駅(現・長後駅)(神奈川県、小田急江ノ島線)

 これについては「不明」とされています。

 「長郷」が転訛して「長後」になったとされているため、地名は「長後」です。

 しかし昭和33(1958)年に「長後」に改称される前に「新」の付かない「長後」という駅があったわけではなく、同じ小田急に似たような駅名があって区別の必要があったわけでもなく、なぜ「新長後」駅になったのかは分からないそうです。

 ただ、長後の地名は渋谷村にある一方、駅は隣の六会村に置かれたため、何らかの配慮から「新」を付けたのではないかとも推測されます。

 

Case5. 東長原駅(福島県、JR磐越西線)

 現地の駅名標でも一部にローマ字表記で「Higashi-Nagahara」となっているものがあるために混乱しますが、正確には「東」「長」「原」と分解されるもので、「東高野」「長谷地」「原田」の3つの地名が合わさった合成地名です。駅名標のローマ字表記は誤りと言えます。

 

Case6. 南福岡駅(福岡県、JR鹿児島本線)

 福岡市の南の端に近いところにあるので、「南福岡」で疑問を挟む余地はないのですが、JRには「福岡」という駅はありません。(JR福岡駅は北陸本線にあります。)

 西鉄福岡(天神)があるのに対し、JRの福岡市の代表駅はご存知「博多」駅です。

 平成2(1990)年には新幹線の回送線を活用して「博多南」駅ができましたが、博多南は福岡市ではなく春日市にあります。(那珂川市との市境に近い。)

 また、南福岡駅はかつて「雑餉隈」(ざっしょのくま)駅を名乗っていましたが、雑餉隈は福岡市と大野城市に跨がる地名で、今でも西鉄には同名の駅があります(西鉄の駅も福岡市博多区に位置)。

 なんだかややこしいですね。

 

Case7. 西新井駅(東京都、東武伊勢崎線)

 Case5の「東長原」とは対照的に、ここはローマ字表記も「Nishiarai」とハイフン無しで表記されています。

 「西新井」で一つの地名で、西新井大師の存在で有名です。

 その西に新しく水の湧く井戸が見つかり、西新井となった、と伝承されています。

 

Case8. 新長田駅(兵庫県、JR山陽本線)

 地名は長田ですが、開駅が昭和29(1954)年と新しく、国鉄の方が後発であるため「新」が付きます。鉄道省時代には先にある私鉄の駅を改称させて国鉄駅が本家の駅名を名乗るようにするケースも多々ありましたが、公共事業体の日本国有鉄道となってからは素直に「新」を付けて後塵を拝する命名になっていきました。

 

Case9. 東神奈川駅(神奈川県、JR東海道本線・横浜線)

 本家「神奈川駅」はやはり廃止となって「東」だけが残っています。しかしここの場合、並走する京浜急行電鉄に「神奈川駅」が現存するため、国鉄が後塵を拝しているかのようにも見えますね。

 

Case10. 新馬場駅(東京都、京急本線)

 馬場という地名の南北に「北馬場」「南馬場」の2駅があったものを、一つの駅に統合したので、新しい「馬場」、「新馬場駅」となったのです。

 同じようなケースに「京急逗子」「逗子海岸」の2駅を統合して「新逗子駅」とした例があります。

 ただし新逗子駅は令和2(2020)年3月14日から「逗子・葉山駅」に変更されています。

 

Case12. 新山内駅、新江口駅(新潟県、旧国鉄赤谷線)

 どちらも地名には「新」は付きません。既存の駅との区別のためと思われますが、旧国名にせず、「新」にしたのはあまり国鉄らしくありません。昭和38(1963)年開業と新しめなので、このころから駅名の付け方も堅いイメージの旧国名を避け、現代的になってきていたのかもしれません。

 

Case13. 下兵庫駅(和歌山県、JR和歌山線)

 かつては兵庫村だったものが、上兵庫、下兵庫の2村に分かれ、そのうち下兵庫村に置かれた駅だったためにこの名が付いています。

 村名そのままの駅名で、神戸市にある山陽本線の兵庫駅に配慮したわけではないのですが、何となくそういう誤解が生まれそうに思うのは私だけでしょうか。

 

 

おまけ。一風変わった接頭語の「子」駅。

・大佐倉駅(京成本線)…「佐倉」駅に対して「大」が接頭語として付く。

・海芝浦駅(JR鶴見線)…「東京芝浦電機」(東芝)の敷地内の駅で、隣は「新芝浦」駅。「浜」が付く駅名は多いが、「海」が付く駅名は珍しい。


国鉄~JRの「まぼろし」10選

2019-10-28 18:36:59 | ジオラマ
「幻の○○」。
計画のみに終わって実在しなかったか、
確かに実在したのにほとんど知られていないか。
はたまた、多くの人が実在したのを知っていたのに、
その証拠や痕跡がなく、実在が証明できないもの。

ジオラマ作りに勤しんでいる根北線の仮乗降場も
当ブログで「幻の駅」(正式には駅ではないですが)
と勝手に呼んでいますが、鉄道にまつわるそんな
「幻の○○」と呼ばれる事物から、筆者が個人的に
気になっているものを国鉄~JRに絞って集めてみました。


1.根北線3つの仮乗降場

根北線は名前が示すとおり、根室国と北見国を結ぶ計画で
始めに北見側の斜里(現・知床斜里)駅から建設が始まり
ました。
第二次大戦による中断を受けるも、昭和32(1957)年
には斜里~越川駅間が開通、残りの部分も建設が続けられ
ましたが、開業直後から赤字が続いた同線はついに
延伸ならず、開業区間も昭和45(1970)年に廃止と
なりました。
ありがちな話ですが、開通の時期が遅すぎて、すでに
世はモータリゼーションの最中。
しかも気候の厳しい沿線の人口も減少に転じ始めており
赤字の打開策として昭和33(1958)年頃に設けたとされる
のが、この3つの仮乗降場でした。
現在残されている写真や映像を見ても駅名標すらなく、
道内版の時刻表にも掲載されていなかったようですが、
名前は「西二線」「14号」「16号」といったというのは
よく知られています。
開設日ははっきりしないものの、路線廃止まで存続は
していたようです。


2.胆振線尾路園仮乗降場

数ある国鉄の仮乗降場の中でも、実態に不詳な点が多い
ことで、ネットの発達した現在では逆に有名になって
しまいましたが、現役時代は地元の利用者以外にはほとんど
知られていない仮乗降場だったようです。
というのも、基本的に道内版の時刻表には仮乗降場も掲載されて
いたのですが、当乗降場含めいくつか非掲載の仮乗降場もあり
それらは実際に停車する列車に乗る以外に存在を知る方法がない
のですが、尾路園の場合は昭和60(1985)年頃まであったと
されるにもかかわらず、その頃停車していたかどうか、実態が
諸説紛々ではっきりしないのです。
胆振線の廃止は昭和61(1986)年で、廃線より一足先に廃止と
なっていたのは確かなようですが、それがいつなのかは全く
明らかになっていません。
また昭和50年代までは確かにあったとされるわりに、写真なども
ほとんど見つかっていない点も、他の仮乗降場と異なる点です。
ちなみに胆振線は私鉄の胆振縦貫鉄道に由来をもち、開通時は
尾路園も正規の駅だったようですが、仮乗降場に降格となって
しまったもので、札幌鉄道管理局管内では数少ない仮乗降場でも
ありました。


3.橋場線(現・田沢湖線)橋場駅

現在の田沢湖線は秋田新幹線のルートに組み込まれ、重要ルート
へと成長しましたが、その全通の陰で、ひっそりと消えたかつての
終着駅です。
田沢湖線は盛岡~大曲駅の線路名称ですが、当初は盛岡側から
橋場線、大曲側から生保内線として建設されていきました。
盛岡~雫石~橋場駅の橋場線は、戦中の不要不急路線として
雫石~橋場駅間の休止を経て、戦後雫石以遠のレールが再敷設
されたものの、その際設置された赤渕駅から、橋場駅へ向かうのとは
別のルートを採り、生保内線生保内駅改め田沢湖駅と接続となった
のです。
こうして、晴れて田沢湖線として全通したのと引き換えに、橋場駅は
休止のまま放置されました。
正式に廃止の手続きが取られた痕跡もないようで、書類上は今も
休止扱いで廃線にはなっていないのですが、国鉄民営化時にJR東日本
か国鉄精算事業団か、どちらかに継承されたのかどうか、よく
分かりません。
恐らく未来永劫、廃止ではない「休止」の「終着駅」であり続ける
ものと思われます。


4.東海道本線袖師駅(臨時駅)

東海道本線は新幹線開業まで、文字通り日本の交通の大動脈であり、
現在も地域の大切な足として、また物流の幹として、たくさんの
人と貨物を運んでいます。
国鉄民営化前後以降は地域住民の便を図って新しい駅が次々作られて
きたため、近年で廃止になった駅というのは稀なケースです。
この袖師という駅は、興津~清水駅間にあった臨時駅で、海水浴客の
ための駅でしたが、海水浴というレジャー自体が下火になったのに加え
この付近の海域の水質悪化があって海水浴場が閉ざされ、駅も存在意義
を失った由です。
しかし片田舎の鄙びた所ならいざ知らず、静岡県の県都、静岡市の
ベッドタウンの住宅街です。現役時代から常設の駅としての要望もあった
ようですし、現在も新駅としての再開業の声もあるようですが、今一
具体化する機運にないようです。
どうして廃止にしてしまったのか、少し惜しまれる駅に思います。


5.黛チャイム

東海道新幹線の車内アナウンスの冒頭に流れるメロディ、
西日本車なら「いい日旅立ち」、東海車なら「Ambitious Japan」が
お馴染みですね。
一昔前だと「ひかり」「こだま」と「のぞみ」とで異なるメロディでした。
当時の「のぞみ」のチャイムは東京駅の新幹線発車時のベルとして復活して
いますし、「ひかり」「こだま」用のチャイムは音色違いのものが品川駅
横須賀線下りホームの発車ベルとして使用されています。
1964(昭和39)年開業時は在来線特急同様のオルゴールの鉄道唱歌でしたが、
のちに新幹線独自の試みとして、黛敏郎氏による前衛的な楽曲のオルゴール
が流れるようになったものの、前衛的ゆえに賛否両論で、短期間で使用が
中止されてしまいました。
使用が開始されたのは1968(昭和43)年、世間はSLブームで、
SLのドラフト音を録音するファンは多くとも、それを駆逐する電車や
さらにそれを追いやる新幹線などはファンにとって追い求める対象とは
なりにくかったのでしょう、新幹線の音を好き好んで録音したファンも
そう多くはなく、ネット社会の今でこそ実録を聴くこともできますが、
長らくは存在すら忘れられていた、不遇のチャイムだったようです。
何でも手軽に録音や撮影ができる昨今と違い、昭和40年代の短期間で
消滅した音楽はまさに幻だったわけです。



6.飯田線佐久間ダム水没区間

戦時中の昭和18(1943)年に4つの私鉄が国有化されて形成された、
現在の飯田線。国有化からわずか12年で、大規模な線路の付け替え
を経験しています。
佐久間ダムの建設に伴い、佐久間~大嵐駅間が天竜川の右岸(西側)
から左岸(東側)に移動したのです。
ダムに水没することになった右岸側の旧線には「天竜山室」「白神」
「豊根口」の3駅がありました。この3駅が国鉄の駅だった時代は
わずか12年だったということになります。
ちなみに「白神」は「しらなみ」と読みます。
なお、同時に佐久間駅も位置が移動しています。
ダム湛水前に新線を完成させなければいけないというなかで、
集中豪雨や台風によりせっかく新線上に建設したトンネルが変状を
きたし、飯田線名物の「渡らずの鉄橋」を生み出すきっかけにも
なりました。


7.国鉄蒸気機関車C62 12号機の「ツバメ」マーク

当時の多くのファンが「あった」という事実を口にしながら、その
証拠となる写真や映像が未発見であるため、実在が証明できて
いないのがC62 12の「ツバメ」マークです。
「ツバメ」マークとはC62 2号機が現在もつけている、除煙板の
ステンレス製のツバメのシルエットをした装飾のことです。
この2号機のツバメは上昇姿勢であるのに対し、18号機には
下降姿勢の、俗にいう「下がりツバメ」が装飾されていた時期が
ありました。
18号機も廃車時には「ツバメ」は撤去済みで、18号機自体も解体され
現存しませんが、写真が残っているためその存在は確たるものです。
対して、12号機はその証明が未だにできない、影の「ツバメ」装飾機
なのです。
ちなみにこういった装飾は担当機関区や工場の「遊び心」のようなもので、
走りにかかわる部分でないため、特に記録に残すような性質のものでも
なかったらしく、存在を証明するには写真や映像に頼るしかないそうです。


8.芦屋線と筑前芦屋駅

国鉄芦屋線。その元は米軍芦谷基地の連絡線で、鹿児島本線の遠賀川駅から、
室木線とは反対の海側への1駅だけの路線でした。
基地の返還後も日本国有鉄道ではなく大蔵省の所管で、国鉄ではない国鉄路線
として知る人ぞ知る存在でしたが、昭和36(1961)年という早い時期に廃線と
なっていることや、軍の基地にアクセスする路線であるという性格から、
分かっていないことも多い路線のようです。
特に終着の筑前芦屋駅は駅と乗降場とに分かれていたという話もありますが、
一体どういった形態だったのか、謎に包まれています。


9.日豊本線心岳寺仮乗降場

北海道以外では数少ない仮乗降場。
この心岳寺は国鉄最南端の仮乗降場でした。
廃止は昭和42(1967)年。
現在も狭い片面ホームが現地に残っており、北海道に見られる板張りの簡素な
ものではなく、きちんと石積みで造られたホームだったようです。
鹿児島市にもほど近く、心岳寺詣が廃れていなければ、現在も駅として残っていた
かもしれません。


10.国鉄のアンヒビアンバス

JR北海道が線路も道路も走るバスとして開発していたDMV。
開発は結局頓挫してしまいましたが、その半世紀も前に一度国鉄がバスに鉄道の
車輪もつけた軌陸両用のバス、「アンヒビアンバス」の実験をしていました。
バス部品を多用した小型の気動車「レールバス」も失敗に終わった現在からみると
何とも大胆な実験だったように思います。
大量輸送と定時性を長所とし、小規模の輸送を小回りの利くバスで補うのが本来の
輸送の形であり、バスサイズの鉄道車両で済む輸送量の路線はそもそもバスに転換
した方がコスト面で有利なことも多く、結局そういったローカル線は廃線を余儀なく
されていったのです。
モータリゼーションの進展や地方の国道の整備の拡充も手伝って鉄道の使命は終わり、
アンヒビアンバスもレールバスもDMVも、ローカル線の救世主たり得なかったという
結末になってしまいました。

素材選び その2

2019-09-23 09:00:00 | ジオラマ
前回、加熱して融解し、冷えると固まる樹脂で作る方向、
と申し上げましたが、その後、別のUV凝固パテを試したところ
良好な結果が得られたので、天板に関してはこれを
使用しようと思います。


だいぶ完成形に近づいた「インスタント・ステーション」。

ちなみに3か所の駅名は起点駅の斜里側から
「西二線」
「14号」
「16号」
と言いました。
「鉄道ピクトリアル」に掲載された写真は駅名が書かれていません
でしたが、文脈から見て一番斜里寄りの「西二線」であろうと
思います。
一方、NHKなどの映像に出てくるのは「14号」や「16号」なので、
微妙に形は違うようですが、資料があまりに少ないので、
「西二線仮乗降場風の」フリーランスということで温かい目で
見てやって下さい。


根北線ではこういう光景が日常的に見られたのでしょうか?

素材選び

2019-09-17 09:00:00 | ジオラマ
相変わらず、「インスタント・ステーション」の制作に苦戦中。
型を取り直しました。
前回は樹脂粘土にスジを付けて羽目板風にした天板でしたが、
今回は本物の短冊状にした木材を原型として型取りをしました。


▲左が新規に起こした型から。右が以前のもの。

寸法の大筋は決まりましたが、いざ作成してみると想像以上に
板の厚みが目に付くようになりました。
というか、前回触れた「鉄道ピクトリアル」誌の写真を見るまで、
実物のホームがそこまで薄っぺらなものだとは想像していなかった
もので…。

上の写真の左側の作例は天板の厚みも薄くしてみましたが、
この厚さと強度の両立を図るための材質選びに苦慮しています。
当初は多くのガレージキットで用いられているレジンの使用を
考えましたが、この程度の小さなパーツに見合う量で2種類の液を
全く同量に加減するのは不可能に近く、結局多めに取って混和して
大量に余してしまう結果となりあまりに不経済と判明。
薄くても強度が確保できて良かったのですが。
型を複数用意して一度に多数作る試みもしましたが、やはり余す分
の方が多くなってしまいました。

また、手芸用品として売られているUVレジンも試しましたが、かなり
厚みを持たせないと容易にたわんでしまうので、やはり実用的では
ありませんでした。
手軽にできて細かいモールドも再現できて良かったのですが。

次に、同じUV硬化樹脂でも、車などの補修用の樹脂を試しました。
硬化前の状態でも粘度が高くモールドの再現には慎重を要しますが、
かなり薄くしても充分な硬さがあり、なんといってもかなり安価
なのが助かりました。
しかし非常にもろく、この薄さでは容易に折れてしまうので、
今のところ裏面の目立たない中央部分にUVレジンを垂らして補強を
する方法を試していますが、元々のもろさは如何ともし難いです。

最終的に行き着いたのは、熱で軟化し、冷めると硬化する樹脂です。
こちらもかなりの硬さを持ち、上記各素材より現実的な選択肢です。
天板の厚さは試作段階ではやや厚いですが、成型の手法を見直して
薄くすることはできそうなので、この線で行ってみようと思います。
下の作例はこの樹脂を用いたものです。
硬化後の加工性に劣り、カットやヤスリ掛けがしにくいのが欠点です。

支柱は2ミリ角棒を使った前回のものより細くしたのですが、まだ
太く見えますね。
1ミリ角棒では強度の不安があるのですが、どうでしょうかね。