Room of 'Pon Chape'

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国鉄~JRの「まぼろし」10選

2019-10-28 18:36:59 | ジオラマ
「幻の○○」。
計画のみに終わって実在しなかったか、
確かに実在したのにほとんど知られていないか。
はたまた、多くの人が実在したのを知っていたのに、
その証拠や痕跡がなく、実在が証明できないもの。

ジオラマ作りに勤しんでいる根北線の仮乗降場も
当ブログで「幻の駅」(正式には駅ではないですが)
と勝手に呼んでいますが、鉄道にまつわるそんな
「幻の○○」と呼ばれる事物から、筆者が個人的に
気になっているものを国鉄~JRに絞って集めてみました。


1.根北線3つの仮乗降場

根北線は名前が示すとおり、根室国と北見国を結ぶ計画で
始めに北見側の斜里(現・知床斜里)駅から建設が始まり
ました。
第二次大戦による中断を受けるも、昭和32(1957)年
には斜里~越川駅間が開通、残りの部分も建設が続けられ
ましたが、開業直後から赤字が続いた同線はついに
延伸ならず、開業区間も昭和45(1970)年に廃止と
なりました。
ありがちな話ですが、開通の時期が遅すぎて、すでに
世はモータリゼーションの最中。
しかも気候の厳しい沿線の人口も減少に転じ始めており
赤字の打開策として昭和33(1958)年頃に設けたとされる
のが、この3つの仮乗降場でした。
現在残されている写真や映像を見ても駅名標すらなく、
道内版の時刻表にも掲載されていなかったようですが、
名前は「西二線」「14号」「16号」といったというのは
よく知られています。
開設日ははっきりしないものの、路線廃止まで存続は
していたようです。


2.胆振線尾路園仮乗降場

数ある国鉄の仮乗降場の中でも、実態に不詳な点が多い
ことで、ネットの発達した現在では逆に有名になって
しまいましたが、現役時代は地元の利用者以外にはほとんど
知られていない仮乗降場だったようです。
というのも、基本的に道内版の時刻表には仮乗降場も掲載されて
いたのですが、当乗降場含めいくつか非掲載の仮乗降場もあり
それらは実際に停車する列車に乗る以外に存在を知る方法がない
のですが、尾路園の場合は昭和60(1985)年頃まであったと
されるにもかかわらず、その頃停車していたかどうか、実態が
諸説紛々ではっきりしないのです。
胆振線の廃止は昭和61(1986)年で、廃線より一足先に廃止と
なっていたのは確かなようですが、それがいつなのかは全く
明らかになっていません。
また昭和50年代までは確かにあったとされるわりに、写真なども
ほとんど見つかっていない点も、他の仮乗降場と異なる点です。
ちなみに胆振線は私鉄の胆振縦貫鉄道に由来をもち、開通時は
尾路園も正規の駅だったようですが、仮乗降場に降格となって
しまったもので、札幌鉄道管理局管内では数少ない仮乗降場でも
ありました。


3.橋場線(現・田沢湖線)橋場駅

現在の田沢湖線は秋田新幹線のルートに組み込まれ、重要ルート
へと成長しましたが、その全通の陰で、ひっそりと消えたかつての
終着駅です。
田沢湖線は盛岡~大曲駅の線路名称ですが、当初は盛岡側から
橋場線、大曲側から生保内線として建設されていきました。
盛岡~雫石~橋場駅の橋場線は、戦中の不要不急路線として
雫石~橋場駅間の休止を経て、戦後雫石以遠のレールが再敷設
されたものの、その際設置された赤渕駅から、橋場駅へ向かうのとは
別のルートを採り、生保内線生保内駅改め田沢湖駅と接続となった
のです。
こうして、晴れて田沢湖線として全通したのと引き換えに、橋場駅は
休止のまま放置されました。
正式に廃止の手続きが取られた痕跡もないようで、書類上は今も
休止扱いで廃線にはなっていないのですが、国鉄民営化時にJR東日本
か国鉄精算事業団か、どちらかに継承されたのかどうか、よく
分かりません。
恐らく未来永劫、廃止ではない「休止」の「終着駅」であり続ける
ものと思われます。


4.東海道本線袖師駅(臨時駅)

東海道本線は新幹線開業まで、文字通り日本の交通の大動脈であり、
現在も地域の大切な足として、また物流の幹として、たくさんの
人と貨物を運んでいます。
国鉄民営化前後以降は地域住民の便を図って新しい駅が次々作られて
きたため、近年で廃止になった駅というのは稀なケースです。
この袖師という駅は、興津~清水駅間にあった臨時駅で、海水浴客の
ための駅でしたが、海水浴というレジャー自体が下火になったのに加え
この付近の海域の水質悪化があって海水浴場が閉ざされ、駅も存在意義
を失った由です。
しかし片田舎の鄙びた所ならいざ知らず、静岡県の県都、静岡市の
ベッドタウンの住宅街です。現役時代から常設の駅としての要望もあった
ようですし、現在も新駅としての再開業の声もあるようですが、今一
具体化する機運にないようです。
どうして廃止にしてしまったのか、少し惜しまれる駅に思います。


5.黛チャイム

東海道新幹線の車内アナウンスの冒頭に流れるメロディ、
西日本車なら「いい日旅立ち」、東海車なら「Ambitious Japan」が
お馴染みですね。
一昔前だと「ひかり」「こだま」と「のぞみ」とで異なるメロディでした。
当時の「のぞみ」のチャイムは東京駅の新幹線発車時のベルとして復活して
いますし、「ひかり」「こだま」用のチャイムは音色違いのものが品川駅
横須賀線下りホームの発車ベルとして使用されています。
1964(昭和39)年開業時は在来線特急同様のオルゴールの鉄道唱歌でしたが、
のちに新幹線独自の試みとして、黛敏郎氏による前衛的な楽曲のオルゴール
が流れるようになったものの、前衛的ゆえに賛否両論で、短期間で使用が
中止されてしまいました。
使用が開始されたのは1968(昭和43)年、世間はSLブームで、
SLのドラフト音を録音するファンは多くとも、それを駆逐する電車や
さらにそれを追いやる新幹線などはファンにとって追い求める対象とは
なりにくかったのでしょう、新幹線の音を好き好んで録音したファンも
そう多くはなく、ネット社会の今でこそ実録を聴くこともできますが、
長らくは存在すら忘れられていた、不遇のチャイムだったようです。
何でも手軽に録音や撮影ができる昨今と違い、昭和40年代の短期間で
消滅した音楽はまさに幻だったわけです。



6.飯田線佐久間ダム水没区間

戦時中の昭和18(1943)年に4つの私鉄が国有化されて形成された、
現在の飯田線。国有化からわずか12年で、大規模な線路の付け替え
を経験しています。
佐久間ダムの建設に伴い、佐久間~大嵐駅間が天竜川の右岸(西側)
から左岸(東側)に移動したのです。
ダムに水没することになった右岸側の旧線には「天竜山室」「白神」
「豊根口」の3駅がありました。この3駅が国鉄の駅だった時代は
わずか12年だったということになります。
ちなみに「白神」は「しらなみ」と読みます。
なお、同時に佐久間駅も位置が移動しています。
ダム湛水前に新線を完成させなければいけないというなかで、
集中豪雨や台風によりせっかく新線上に建設したトンネルが変状を
きたし、飯田線名物の「渡らずの鉄橋」を生み出すきっかけにも
なりました。


7.国鉄蒸気機関車C62 12号機の「ツバメ」マーク

当時の多くのファンが「あった」という事実を口にしながら、その
証拠となる写真や映像が未発見であるため、実在が証明できて
いないのがC62 12の「ツバメ」マークです。
「ツバメ」マークとはC62 2号機が現在もつけている、除煙板の
ステンレス製のツバメのシルエットをした装飾のことです。
この2号機のツバメは上昇姿勢であるのに対し、18号機には
下降姿勢の、俗にいう「下がりツバメ」が装飾されていた時期が
ありました。
18号機も廃車時には「ツバメ」は撤去済みで、18号機自体も解体され
現存しませんが、写真が残っているためその存在は確たるものです。
対して、12号機はその証明が未だにできない、影の「ツバメ」装飾機
なのです。
ちなみにこういった装飾は担当機関区や工場の「遊び心」のようなもので、
走りにかかわる部分でないため、特に記録に残すような性質のものでも
なかったらしく、存在を証明するには写真や映像に頼るしかないそうです。


8.芦屋線と筑前芦屋駅

国鉄芦屋線。その元は米軍芦谷基地の連絡線で、鹿児島本線の遠賀川駅から、
室木線とは反対の海側への1駅だけの路線でした。
基地の返還後も日本国有鉄道ではなく大蔵省の所管で、国鉄ではない国鉄路線
として知る人ぞ知る存在でしたが、昭和36(1961)年という早い時期に廃線と
なっていることや、軍の基地にアクセスする路線であるという性格から、
分かっていないことも多い路線のようです。
特に終着の筑前芦屋駅は駅と乗降場とに分かれていたという話もありますが、
一体どういった形態だったのか、謎に包まれています。


9.日豊本線心岳寺仮乗降場

北海道以外では数少ない仮乗降場。
この心岳寺は国鉄最南端の仮乗降場でした。
廃止は昭和42(1967)年。
現在も狭い片面ホームが現地に残っており、北海道に見られる板張りの簡素な
ものではなく、きちんと石積みで造られたホームだったようです。
鹿児島市にもほど近く、心岳寺詣が廃れていなければ、現在も駅として残っていた
かもしれません。


10.国鉄のアンヒビアンバス

JR北海道が線路も道路も走るバスとして開発していたDMV。
開発は結局頓挫してしまいましたが、その半世紀も前に一度国鉄がバスに鉄道の
車輪もつけた軌陸両用のバス、「アンヒビアンバス」の実験をしていました。
バス部品を多用した小型の気動車「レールバス」も失敗に終わった現在からみると
何とも大胆な実験だったように思います。
大量輸送と定時性を長所とし、小規模の輸送を小回りの利くバスで補うのが本来の
輸送の形であり、バスサイズの鉄道車両で済む輸送量の路線はそもそもバスに転換
した方がコスト面で有利なことも多く、結局そういったローカル線は廃線を余儀なく
されていったのです。
モータリゼーションの進展や地方の国道の整備の拡充も手伝って鉄道の使命は終わり、
アンヒビアンバスもレールバスもDMVも、ローカル線の救世主たり得なかったという
結末になってしまいました。


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