単身赴任している私の家族が、休日を利用して島根県出雲市の旧大社駅の写真を送ってきてくれました。
大社駅は言わずと知れた出雲大社の最寄り駅としても栄えた駅で、旧大社線の終着駅でした。
大社線とは山陰本線の出雲市駅から、現在は出雲市の一部となった旧簸川郡大社町唯一の国鉄駅だった大社駅までを結ぶ7.5kmの非電化路線でした。
開業は明治45年。
駅は起点の出雲市、終点の大社のほか、出雲高松(いずもたかまつ)、荒茅(あらかや)の2駅(両駅とも廃止時点で出雲市に所在)を途中に有していました。
大社線の廃止は平成2(1990)年4月1日。
(最終営業日は3月31日)
昭和58(1983)年の白糠線(北海道)に始まった特定地方交通線の83路線の廃止(転換含む)は、この日同時に廃止された大社線、宮津線、鍛冶屋線の3路線をもってピリオドを打ちました。
さて、そんなローカル線の一つとして切り捨てられてしまった大社線ですが、出雲大社の最寄り駅に直結するとあって、国鉄時代には数多くの急行列車が大社線に直通していました。
表題の「大社」は昭和41(1966)年から57(1982)年まで主に名古屋~大社駅間を結んでいた急行ですが、今考えるとなかなかに突拍子もない経路で運転されていました。
手元に交通公社(現在のJTB)が発行した1981年3月号の時刻表があります。
これによると、大社号は一日一往復の運転ですが、下りは大社行きなのに対して上りは出雲市発で、大社駅発の大社号はこの時代にはなかったことになります。
大社まで運転される下りの大社号も、運転時刻を時刻表で追うだけで骨が折れるくらい複数の路線を走っていました。
まず名古屋から東海道本線を米原まで走り、米原で方向転換して北陸本線に入り、敦賀で福井発の3両(これも列車名は「大社」)を連結。
名古屋編成は敦賀で二度目の方向転換をして小浜線に入り、東舞鶴から西舞鶴まで舞鶴線を一駅だけ走ります。
西舞鶴からは宮津線に乗り入れます。先述のとおり、宮津線は大社線と同時に最後の特定地方交通線として廃止になりましたが、鉄道は第三セクターとして存続し、北近畿タンゴ鉄道を経て京都丹後鉄道として令和2年現在も存続しています。
さて、福井から来た3両はなんとこの宮津線内の天橋立駅で切り離されてしまいます。
「大社」の名は伊達なのですね。
かつては「あさしお」など別の名前の急行として併結していた時期もあったようですが、晩年は大社には遠く及ばない京都府内で運転を終えてしまう「大社」号になっていたようです。
一方名古屋編成は豊岡まで宮津線を走破し、豊岡で三度目の方向転換をして、ようやく山陰本線に入ります。
そして延々と山陰本線を出雲市駅まで走り続け、出雲市から大社線に入り、大社駅に向かいます。
▲急行「大社」停車駅。交通公社1981年3月号時刻表を基に作成。
車両は当時の気動車急行では標準的なキハ58系が使用されていたようで、1981年3月号の時点では、名古屋編成は普通車指定席1両、グリーン車1両、普通車自由席3両の5両、福井編成は3両とも普通車自由席でした。
下りは名古屋を朝9:30に出発し、大社着が20:31でした。
大社駅は往時の栄華を今に留める佇まいのまま大切に保存されています。
国鉄形のこの駅名標も、今ではほとんど見ることの出来ない逸品です。
40年ほど前には、廃線になるなど考えられない賑わいがあったのでしょう。
その当時に思いを馳せながら、大社駅を自分の目でも一度は見てみたいと思いながら、筆を置かせて頂きます。
ちなみに急行「大社」を知ったのはこのサイトがきっかけです。
http://www.photoland-aris.com/kisya/
「日本国有鉄道のころ」というページ内に、作者様の乗車記があります。
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