♪
Violin も そうですが、生きている この瞬間、瞬間が 表現で、創造だと 思っているところがあります。
そのきっかけとなったのは、ある歌い手さんとの出会いです。
♪
初めてのViolinの発表会のときは、緊張のあまり吐いていたと書きましたが、
それ以降、何回経験しても、慣れることは無く、だんだん輪をかけてひどくなるので、
”呼吸”を学んだ方がいいのでは?と 友人からのアドバイスをもらいました。
ただ、呼吸を習うだけでは モチベーションが上がらず、音楽に関係することを探していたところ、
ちょうど その時出会った歌い手さんに 歌を習うことにしました。
「自分の声で 歌を歌う」というキャッチフレーズで、声楽的な発声ではなく、
自然な 心の奥にある表現の種から 歌を歌うというものです。
私は、身体全体で歌っていなくて、のどから 上だけで歌を歌っていると言われ、声が金属的だったそうです。
♪
その歌い手さんは、音大で声楽を学んでいたのですが、その後劇団に入り活動していました。
劇団を辞められてから 声にまつわる表現(歌、朗読、歌語り、ミュージカル、歌つくりなど)を
自宅でレッスンされていました。
自分の体験と、歌詞、物語、セリフを重ねて、表現する。
そうすると、自分の中から、それにまつわるいろんな記憶や感情が 引き出されてきます。
感情が解放されて、泣きながら 歌ったり、セリフを言ったり、朗読したり…。
そのうちに、「私」という個人の体験からの 歌、セリフ、朗読から離れて、
「聴いてくださっている方々」ひとりひとりが、自分のこととして 受け止めてくれるような表現に行き当たります。
それは、ごくまれなことですが、練習を重ねていくと、身体の中に流れが出来て
それに ゆだねられると、あるとき 「それ」は起こります。
そうやって、「私」の表現ではなく、私を通すので私のフィルターがかかっているから 私らしさからは逃れられないけれど
「みんな」の表現になって、聴いてくださっている方々のこころに届く表現にまで 少しでも近づけたらいいなぁと思っています。
具体的には、本番の時は、練習してきたすべてを捨てて、”さら”になって 表現することのようです。
♪
この方法は、本当に怖かったです。
自分の中の 醜いものが どんどん出てきてしまうのではないか。
そうなったときに 他者に受け入れてもらえないのではないか。
など、他者の評価がすべてだった私には、表現が出来なくなってしまいました。
歌も Violinも 弾けなくなってしまいました。
♪
6年くらい 空白の時間がありました。
でも その間 なにもしなかったわけではありません。
こころのままに 絵を描くという表現方法で、ひとりで表現し、ひとりでそれを受け止めるという作業を 地道にしていました。
表現しないといられなかったのです。
それは 孤独な作業でしたが、孤独力が鍛えられました(*^-^*)
♪
その後、Violinを復活した時、それまで 身体の脇を通り過ぎていく音を 身体の真ん中で受け止めたいと思い、
上記の演劇的方法で 自分とViolonと音楽を結び、その結びを手放すとういうことをしたくなりました。
表現方法としては、Violin の音は、私にとって、本当に素敵なものなのです (*^-^*)
奥が深くて、どこまでもどこまでも 可能性が広がっていて、心地が良いものなのです。
♪
表現する事が 怖くなっていた私を また 表現する世界に戻してくれたのは、
その歌い手さんを通して知り合った、あるピアニストさんから 言われたことでした。
「最後は、”音”だけになるのよ。」
自我のない 主張のない私の音楽、Violinに対して、
弾けなくても「こう弾きたい」という想いが無ければだめだ。
そして最後は音だけになる。
♪
音だけになるには、テクニックも スピリットも 全然 足りない私ですが、
遥かかなたに見える高い理想めざして 無邪気に 今日も 弾いています。
♪
Violin も そうですが、生きている この瞬間、瞬間が 表現で、創造だと 思っているところがあります。
そのきっかけとなったのは、ある歌い手さんとの出会いです。
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初めてのViolinの発表会のときは、緊張のあまり吐いていたと書きましたが、
それ以降、何回経験しても、慣れることは無く、だんだん輪をかけてひどくなるので、
”呼吸”を学んだ方がいいのでは?と 友人からのアドバイスをもらいました。
ただ、呼吸を習うだけでは モチベーションが上がらず、音楽に関係することを探していたところ、
ちょうど その時出会った歌い手さんに 歌を習うことにしました。
「自分の声で 歌を歌う」というキャッチフレーズで、声楽的な発声ではなく、
自然な 心の奥にある表現の種から 歌を歌うというものです。
私は、身体全体で歌っていなくて、のどから 上だけで歌を歌っていると言われ、声が金属的だったそうです。
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その歌い手さんは、音大で声楽を学んでいたのですが、その後劇団に入り活動していました。
劇団を辞められてから 声にまつわる表現(歌、朗読、歌語り、ミュージカル、歌つくりなど)を
自宅でレッスンされていました。
自分の体験と、歌詞、物語、セリフを重ねて、表現する。
そうすると、自分の中から、それにまつわるいろんな記憶や感情が 引き出されてきます。
感情が解放されて、泣きながら 歌ったり、セリフを言ったり、朗読したり…。
そのうちに、「私」という個人の体験からの 歌、セリフ、朗読から離れて、
「聴いてくださっている方々」ひとりひとりが、自分のこととして 受け止めてくれるような表現に行き当たります。
それは、ごくまれなことですが、練習を重ねていくと、身体の中に流れが出来て
それに ゆだねられると、あるとき 「それ」は起こります。
そうやって、「私」の表現ではなく、私を通すので私のフィルターがかかっているから 私らしさからは逃れられないけれど
「みんな」の表現になって、聴いてくださっている方々のこころに届く表現にまで 少しでも近づけたらいいなぁと思っています。
具体的には、本番の時は、練習してきたすべてを捨てて、”さら”になって 表現することのようです。
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この方法は、本当に怖かったです。
自分の中の 醜いものが どんどん出てきてしまうのではないか。
そうなったときに 他者に受け入れてもらえないのではないか。
など、他者の評価がすべてだった私には、表現が出来なくなってしまいました。
歌も Violinも 弾けなくなってしまいました。
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6年くらい 空白の時間がありました。
でも その間 なにもしなかったわけではありません。
こころのままに 絵を描くという表現方法で、ひとりで表現し、ひとりでそれを受け止めるという作業を 地道にしていました。
表現しないといられなかったのです。
それは 孤独な作業でしたが、孤独力が鍛えられました(*^-^*)
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その後、Violinを復活した時、それまで 身体の脇を通り過ぎていく音を 身体の真ん中で受け止めたいと思い、
上記の演劇的方法で 自分とViolonと音楽を結び、その結びを手放すとういうことをしたくなりました。
表現方法としては、Violin の音は、私にとって、本当に素敵なものなのです (*^-^*)
奥が深くて、どこまでもどこまでも 可能性が広がっていて、心地が良いものなのです。
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表現する事が 怖くなっていた私を また 表現する世界に戻してくれたのは、
その歌い手さんを通して知り合った、あるピアニストさんから 言われたことでした。
「最後は、”音”だけになるのよ。」
自我のない 主張のない私の音楽、Violinに対して、
弾けなくても「こう弾きたい」という想いが無ければだめだ。
そして最後は音だけになる。
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音だけになるには、テクニックも スピリットも 全然 足りない私ですが、
遥かかなたに見える高い理想めざして 無邪気に 今日も 弾いています。
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