図9.雄羊の石像。ウルク出土(紀元前3000年頃)。 ©大英博物館
ハンムラビ(紀元前1727-1685)が、バビロニア王国(紀元前1830~1530が古代バビロニア時代とされている)を打ち立てた。ハンムラビ王が法的な判断基準を収集し、マルデュック神殿の閃緑岩石碑(結晶質岩の石柱)に記したものが、かのハンムラビ法典である。ハムラビ王朝の最後の頃の王であるアンミサデュカ王(紀元前1581-1561)の下で、金星の出現や消失についてのオーメンが書かれている(アンミサデュカの金星粘土板)。
図10.雄牛の石像。ウルク出土(紀元前3000年頃)。©大英博物館
北東小アジアとシリアからやって来た人々の緩い連合体であったヒッタイト人が、紀元前1530年、バビロニアへの侵入しようとした。そして、バビロンを略奪したが、その地を支配することはできなかった。だが、これでバビロニアはひどく弱体化した。
ヒッタイト人が侵入しようとした後、東部ザグロス山脈からやって来たカッシートがバビロニアとアッシリアを征服し、期間は不明だが、その地に留まった。この時代の年代学はよく分っていないが、王の統治年代を列挙している粘土板によれば、カッシート人が紀元前1530年から、アッシリア人がバビロンを征服する紀元前1275年まで政権を握っていたようだ。
図11. 銅製のライオンの頭部。テル・アル・ウベイド出土(紀元前2500頃)。©大英博物館
福島憲人・有吉かおり p.7
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