占星術への道-誕生史、星見の作法

・占星術の基礎-星見の作法とは?
・今も多くの人を魅了する占星術
・いつ、どこで、どのように生まれたのか?

<6> 1章 メソポタミア/神殿という組織

2021-03-07 21:49:53 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

図5.ウルのジグラット。

上: ジグラットの空中写真。 著作権:ペンシルベニア大学博物館(フィラデルフィア(Neg. # NC35-9112))。
下: Marjoris V.Duffell(1937)によるジグラットの修復スケッチ。 著作権:ペンシルバニア大学博物館、フィラデルフィア(Neg。# S8-55876)


 太陽、月、金星の神々と交信することができた神官が最初の支配者となった。神官は神々に祈り、動物を生贄として捧げるというような宗教上の役割だけでなく、都市国家のために農業やその他の行事の記録を保存するというような多方面にわたる役割を持っていた。小さな神殿はやがて書記、下級神官、事務官agent、カウンセラー、歌手、音楽家、織物職人、陶芸家、官僚bureaucrat、軍人および兵隊を擁する組織化された神殿へと拡大した。この神殿は大きな富を蓄え、多くの財を所有していた。また、楔形文字板の保存場所ともなっていた。S.H.フックは、ウルカギナUrukagina時代(前2600年頃)の女神ババBabaの神殿に従事する人たちを数え上げると736名にもなり、また、その後の新バビロニア王朝の時代(紀元前1000年)、マルデュック神殿のスタッフは数千人だったと言っている。

 やがて、軍官は神殿の支配から離れていき、神殿の支配層は寄り合い所帯となった。また、王になった軍官もいた。神官、王を兼ねた神官、下級神官そして女性神官が現れた。予言を行う神官、すなわち予言者はオーメン(予兆)と夢を解釈し、天の発する警告を知るため、特に月食に力を入れて天を観察した。予言者は王の軍事作戦に同行し、武運のある日かどうかを見極めた。また、未来についての情報も与えた。予言を行う神官は最初の星占い師と言うべきではないだろうか。

 神々と交信するため、聖地を示す塚を粘土で作った。粘土は砕けるので、初めの塚の上に新しい塚を、そしてさらにその上に次の塚を、と次々と築いて行った。時が経つとともに、塚はどんどん大きくなり、ついに、多くの層が重なって、神聖な塔(ジグラット)ができた。この塔は神殿のそばや頂上に築かれていた。塔の頂上に神殿が置かれ、動物の生贄を供えたり、神々が地上に降り易くするため階段が設けられているものもあった。その後、バビロニア人とアッシリア人はこのジグラットをオーメン(予兆)を得るための天体観察や星図を描くために使った。ウルクに築かれたのが最初で、紀元前4000年代後半のことだったようだ。他に大きなジグラットと言えば、紀元前2100年頃にウルにあった(図5を参照)。今日発掘されているものは幅260×175フィートある。最も有名なものは、ネブカドネザル王(紀元前606-562)の時代にバビロニアで築かれたバベルの塔である。これは古いジグラットを再建したもので、神殿であり、天文台であった。

 予言を行う神官は、ビット・タマルティbit tamarti(観測場所)という神殿の特別の部屋で寝そべるか、鐘楼用ジグラットの平屋根に登って、一晩中天を観察していたのではなかろうか。北半球のどこにも、澄みきった夜ほど天が美しく見えるところはないし、悪天候の夜ほど不吉に見えることもなく、これがさまざまな推測や空想を呼び起こした。

 神殿では、神々と交信するための儀式が整えられた。羊がオーメン(予言)のために犠牲となり、その腸や肝臓によって占いが行われた。肝臓の形や特徴、あるいは腸の形から、神官は戦争開始時期の適否を占い、またその勝敗を予言し、豊作となるか飢饉となるか、あるいは王の健康はどうかを占った。

 やがて、その日のできごとから得られたオーメン(予兆)が記録されるようになった。天体現象の中でも、特に月の満ち欠けと食について記録された。月食は大災害の前兆となることが多かったからだ。月が見えない暗闇の期間(ブッブルbubbulu)は悪霊がとても危険になる時期だった。解釈に信用性が要求されるようになり、予測を間違うと追放されたり、殺されたりするので、神官は用心深く、少しずる賢くなった。今日の多くの占星術者や心理学者のそれとは違い、真実は背景に追いやられ、占いは芸術へと創り上げられて行った。

 食の予報は正確な数学を駆使して行われ、その後、その数学によって当時の天文学の定式化が行われた。正確にできごとを予言すると賞賛されたから、神官は飢饉や疫病、洪水などの予測を努めて行なおうとした。お金や貢物を持ってくるように促された。

 次にあるのは、アシュバニパル図書館の占い文書で、紀元前1200年頃からセレウコス王朝の時代のものである。神官の報告文書を例示するため紹介しよう。(図6、7および8を参照。)

紀元前2000年代の初期の頃には、後になって星座に組み込まれることになる動物や架空の創造物の多くが、旧石器時代の洞窟絵画やメソポタミアの美術品や彫刻に見られるようになる。雄牛は紀元前4000年頃から、ありふれたテーマとして銅やブロンズによく彫刻されていたし、さらに後になると、琴の共鳴箱にも使われていた。雄羊とライオンは、紀元前三千年代中頃のウルクの花瓶に見られる。(図9、10および11を参照。)

 水をもたらす者は肥沃のシンボルとして、紀元前2000年の彫像に見られる。シュメール人の美術品には、頭がライオンのワシ、頭が人間の雄牛、魚人、翼のあるライオン、半人半獣(ライオン)のケンタウルス、そして、頭がライオンやガチョウ、鳥、カモシカ、イナゴ、鹿、猿、蛇やさそりなどの人間というような、さまざまな生き物が見られる。こうした架空の創造物の多くは夢や(または)シャーマニズムの儀式から生まれたと考えられている。

 もっとも容易に観察できる太陽、月、金星の3天体に関する神話と同じように、地、水、風(火が後で追加された)という占星術の「エレメント」はシュメール人によって取り入れられたものだ。

 古代のメソポタミアには科学というもの(天文学も含め)はなかったし、星占いもなかった。その頃の神官は日食や月食、稲妻、地震、そして飢饉のような神の気まぐれを正確に予言することに関わっていたから、それによって権勢を保持することができた。そうした活動の中から、太陽や月、惑星、そして星々のめぐりが明らかにされ、同時に暦が生まれた。月が年に12回めぐるという周期から、1年は12ヶ月に分けられた。そして、数学的にうまく予測することができるできごとが注目されるようになった。


これが、日食や月食が起こっている時に、シン(月神)に歌うものである。神々の家の入り口や広い場所に、ガラック(祭壇)を築く。

ガラック(祭壇)の上で、杉、イトヒバ、ミルテ、上質の葦、山ギョリュウ、ルツlutu杉を掲げよ。

食が始まれば、ツエTU-E神官はたいまつを灯し、ガラック(祭壇)に取り付ける。

野に捧げる哀歌に、汝、抑揚をつけるべし、 枯れることのない流水に捧げる哀歌に抑揚をつけるべし。

 食が続いているなら、その地の人は頭の被り物を外し、そして衣服で頭を覆うべし。

大災難、殺戮、反乱、そして衰退はエレク、ビット-レシュ、イシュガル、イ-アンナの神殿に及ぶことなし。

 その国の7人の労役者、その家族、住居、川、彼らの目、手足を聖油で清めるべし。

 そうした大災難、殺戮、反乱、そして衰退をエレク、ビット-レシュ、イシュガル、イ-アンナの神殿、そしてティランナの神々の家に招いてはならぬと、声を出して叫ぶべし。

 食が終るまで、彼らは叫ぶべし。食が終わり、月がまた現われたらすぐに、汝、祭壇上の火をビ・マット・ナムを用いて消し止めよ。

 2日目に、祭壇を建てた者は祭壇を取り壊し、灰と共に川に投げ込むべし。

アヌ、エンリルと唱えて、彼らを呼び出せ。家の右側にいる呪術師と、左側の呪術師は、ウドゥ・ウッドゥ・ア・メッシュと呪文をくり返すべし。


図6.食を観察するための儀式。「アッシリアとバビロニアの文学、抜粋翻訳」から。R.ハーパー編集(D.アプルトン社、1901年)

 


ウバヌ(肝臓の指形の突起物)の右側の面に指形が印が見えていれば、王子は戦利品を獲るだろう。 


図7. 肝臓による占い。アッシリアとバビロニアの文学から:抜粋翻訳、R.ハーパー編集(D.アプルトン社、1901年)。

 


ティラニ(腸)が似ていれば:

さそりに似ていれば、神殿は豊かになり、王の武器は本物となるだろう。

戦う雄牛グドゥ・グドゥ・ナに似て、かつ右側に伸びていれば、王の武力と軍隊は「王の兵士」と呼ばれる。彼らは進軍し、これに勝つものはないだろう。

人の手の形に似ていれば、その土地は飢饉となるだろう。

魚の心臓に似ていれば、王は強くなり、敵が現れることはない。

首が切り落とされた雄牛に似ていて、とても大きければ、王子の土地では穀物や藁、野菜が不足するだろう。

星に似ていれば、王子の軍隊に敵が現れることはない。


図8.腸による占い。「アッシリア・バビロニアの文学、抜粋翻訳」から。R.ハーパー編集(D.アプルトン社、1901年)。

福島憲人・有吉かおり p.6



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